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築地本願寺と京都の友人

夏と秋の激動のハードワークが終わり、休暇をもらってスッキリした顔をして東京へ観光にやって来た京都の友人。
 
実のところ、コロナ禍があってから数年ぶりの再会。
大量の土産品と共に現れた友人は我が家を寝床にしてあちこちのグルメスポットや名所へと出歩き、夜になると講談師さながらの面白い話を私達家族に聞かせてくれていた。
 
この友人の目を通すと、世界はこのように映るのか。
久しぶりに会ったミステリアスな友人の立ち居振る舞いや考え方に触れて、この人の魅力に改めて気付かされた。昔、笠信太郎の『ものの見方について』という本を父に勧められて読んだことがあるが、事柄や事実をちょっと違う視点から、もしかしたら斜め上のその上の上から眺めているのだろうなぁと京都の友人を見て感じるのだ。だから、この友人はいつもポジティブだし、嫌味やいじめにもまったく屈しないから、その生き方に憧れを抱く人が多い。
 


友人が滞在中のそんな時、私に急ぎの仕事が入ってしまった。
難しい顔をしてパソコンとにらめっこしていたら、「築地本願寺に行きたいから予定合わしてや」と友人が恨めしそうな顔をして言い出した。確かに、友人は次いつこちらに来られるのかわからない。前日徹夜で当日分を仕上げて、私は友人と共に築地本願寺へ向かった。
 
 
「うちはその時びっくりしてなぁ…って、このセット、美味しいなぁ」
 
京都の友人はとにかくよくしゃべる(京都で観光客の方にアン・ミカさんのマシンガントークみたい、と言われたらしい)。そして、見かけによらずよく食べる(大好きな和菓子とかの甘いものだけを永遠と)。そのくせ痩せているものだから、私と違ってダイエットとは無縁なのだろうけど。築地本願寺の迫力ある建物を目にして感動しきっている私を尻目に、京都の友人は自分のペースを乱さず話すは食べるはで忙しいくせに、時折着物の裾を気にする姿はとても色っぽい。
 
何をやっても絵になって、かっこいい。
そして、やっぱりミステリアスな空気が漂っていて奥が深い。
着物をバシッと着こなして堂々としているので、外国人観光客に写真を撮られたりしても涼しい顔。
 
 
「〇〇ちゃん(京都の友人のこと)って、自分の外見において不満とか全然無さそうだよね」
「当たり前や、うちはほんっっまに綺麗やもの」
 
でた、自惚れ発言。
というか、即答する秒速さが吉本の芸人並みなのに思わずウケてしまう。そして同時に“良いなぁ、この頭の回転”、“良いなぁ、この空気”と思いながら、まったく手を休めずスプーンを動かしている友人を眺める。
 
「でもなぁ、うちがこんっっっなに美しくてもなぁ、他の人から見たらうちはまったくのブサイクな人かもしれへんし、可愛いとか綺麗とか美の基準なんてホンマに曖昧なものやで。そういう曖昧な観点に振り回される若いおなごは可哀そうに思うわ」
 
確かにその通りだ。
美の基準なんて実に曖昧なもので、イギリス人の友人とそのパートナーがタトゥーを巡って度々派手な喧嘩をするのも二人の美の基準が違っているからだし(パートナーがタトゥーマニア)、若い人や同世代の日本人男性には「残念な古い顔」と毛嫌いされる私が50代、60代のおじ様世代や中国人、韓国人男性には何かと褒めてもらえるのだから、美の基準は個人の趣向や時代の流行にも関係するものだと思う。これに振り回されてしまうと、自分という存在を尊いと思えなくなってしまう。
 
 
「生きてること自体が不思議なのになぁ、綺麗やらブサイクやら、くだらんことに囚われてる場合やないねん。命、そのものが美しい。それをみんなわかっておらへんの」
「魂って美しいものだと思うし、その人だけの宝物だと思う。その魂を持った肉体を誰かに批評されて傷付けられるのって、凄く嫌なことだよね」
「eveも綺麗な魂持ってはるで。そのeveのことを散々に言った元婚約者、うちが呪い尽くしたるわ」
「ちょっと恐怖の鳥肌立ったよ、そのおっかない顔」
「何を言ってはるの、あっちでは(京都の職場のこと)菩薩のような微笑みやとみんなに言われてきてんねんで」
 
オホホホと、笑うその顔は決して菩薩には見えないけどね。この人のちょっと不思議な力を知っている私としては、一度睨まれたらゾクっとするほどに怖いと思ってしまう。
 
 
「さっきの説法、ええ説法やったなぁ。どんな自分でも受け入れてくれるのが帰る場所であるって、ホンマ心に沁みたわ」
「本当だね、ずっとメモばかりしてた。おまけに、〇〇ちゃん、念仏の時に着物の懐からすっと数珠出してカッコ良かったし」
「なぁ、うちって淑女の鏡やろ」
「それ、自分で言っちゃう?」
「すみません、オーダーの追加、よろしいやろか」
「え、まだ食べるの!?」
「うち、この芋羊羹の和三盆ブリュレ食べる」
「えっ。さっきほうじ茶パフェ食べたばっかりじゃん。井之頭五郎じゃないんだから」
「まだまだ食べれるで、マジで」
 
 
底抜けに明るい友を前にして、今年あった沢山の嫌なこと、モヤモヤごとが吹っ飛んだような気がした。
 
自分が悪かったのかもしれないと考えないようにしよう。
私は幸せになれないんだと思い込まないようにしよう。
私には魅力や才能がないんだと決めつけないようにしよう。
 

ガラス張りのカフェから見える築地本願寺の本堂と澄み切った青空を見上げて、自分の生き方を今ここで変えていきたい。
そう思えた、秋のとある日。
 


アントニーさんと親鸞聖人



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