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リモートワークを軸にした100年時代の人生設計

トラベロコは、海外で実現したいことがある日本人と、それをかなえるスキルがある現地の日本人(ロコ)をつなぐサービスを提供しています。2019年1月に合流した菅原誠一は、瀬戸内海の離島で、家族4人で理想の田舎暮らしをするリモートワーカー。リモートワークに至った田舎暮らしにおける紆余曲折を語ります。※2019年4月公開記事

都会にはない豊かさを求めてーー瀬戸内の麗しい離島へ

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▲自宅で鯉のぼりする子どもたち

2019年1月より、トラベロコ にてリモートワークのWebプログラマーとしてWEBサイトの開発をしています。

住んでいるのは、瀬戸内海にある広島県の大崎上島町。家族4人で暮らしています。3年前に山と海に囲まれた豊かな自然、理想の子育て環境を求めて移住しました。

島に移住する前は、京都にある半導体製造装置メーカーでプログラマーとして13年働いていました。隣の滋賀県で暮らしていて、通勤は電車で30分程度、大型のショッピンモールも近所にあり、ちょっと行けば自然もあって、客観的に見てよい環境だったと思います。

しかし、特に不満は見当たらないものの、これが本当に理想の生活か?と聞かれれば、素直にうなずけませんでした。週5日コンクリートのビルにこもって働く生活に、閉塞感があったんです。いつかは自然豊かな田舎でのびのびと暮らしたいという思いは、ずっとありました。

転機が訪れたのは、2015年6月。今まで田舎暮らしに興味を示さなかった妻が、大崎上島の話には食いついて、島なら移住したいと言い出したんです。

当時、彼女は小学校の教員として忙しく働いていて、子育ては私がメインでしていました。仕事にやりがいを感じつつも、我が子の子育てについては大きな葛藤を抱えていて、島への移住を機に自分のキャリアを見直そうという思いがあったようです。

こうして、島への移住を決めました。子どもの小学校入学のタイミング考えると、移住の期限は翌年の4月。移住までに、たった10カ月しかなかったんです。

それからは、怒涛の日々でした。

移住先での職探し、家探し、移住の手続き、住んでいるマンションの売却、会社での仕事の引き継ぎ作業、両家の両親への説明、移住先の古民家の整理、引っ越し、などなど……。

離島暮らしをきっかけに、リモートワークが可能な会社で働きたかったのですが、当時、Webプログラミングの技術を持っておらず、学び直す時間もありませんでした。そこで、今までのキャリアは一旦リセットして、島の造船所で働きはじめます。


目に飛び込んだトラべロコの求人 よみがえる20代の日々

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▲JICAボランティアとしてアフリカのモザンビークで生活していた時の写真

造船所で巨大な船をつくっていく工程はとても面白かったです。平らな鉄板を職人さんが部品を曲げて、溶接して、組み立てて。ダイナミックで凄まじい迫力でした。

しかし、諸事情から半年で造船所を辞めて、車海老と牡蠣の養殖場へ移ることになります。

地方の会社では、まだまだ週休1日が当たり前で、なかなか好きに休みも取れませんでした。それに、街で働いている時と比べて労働時間は格段に増えているのに、給料は下がります。

子育て環境、生活環境という観点では、島での生活に満足していました。しかし、朝から晩までお金を稼ぐために働いて、家族と過ごす時間や、自分の時間をほとんど取ることができない状態が続きます。

「田舎でのスローライフはどこいった?」「自分は何しにこの島に来たんだっけ?」ーーそんな疑問が胸に湧き上がってきました。

だから、理想の働き方を求めて、リモートワーク に挑戦することにしたんです。大崎上島からリモートワークをできる仕事だけに焦点を絞って、約半年かけてWebプログラミングを1から学ぶことにしました。

実際に仕事を探しはじめると、リモートワーク案件は、増えているとはいえ、フルリモートのエンジニア募集は、まだまだ少ない。

さらに、リモートワークの求人は、即戦力を求める経験者向けか、将来有望な若者向けのものばかりでした。40歳を過ぎ、家族を養う必要があって、離島暮らしで、Web開発の実務経験のない人への求人は、ほぼないーー。

「ヤバイ」と思っていた時に、「世界の日本人が繋がるシェアリングエコノミーを創るWebエンジニア」募集というトラベロコ の求人が目に留まりました。

トラベロコ の業務内容を読んでまず頭に浮かんだのは、会社を休職して、JICAボランティアとしてアフリカのモザンビークで生活していた20代の日々です。モザンビークを旅する日本人の案内をしたり、アフリカに散らばるボランティアを訪ねて旅していた頃の生活を思い出し、懐かしさを覚えました。

すぐに応募したところ、興味を持ってもらえて、インターンとして約1カ月働いたあと、2019年1月から正式に働かせてもらえることに。


「自由」の前提は「自立」 リモートワークで重要なコト

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▲社員が菅原の家に遊びに来た時の様子

インターンとして働き始めてまずびっくりしたのが、全員が本当にリモートワークで好きな場所で働きながら、世界各地に散らばっていることでした。

そして、「いつ働いてもいいです。できる時にこの仕事をやってください。わからないことがあればSlackで聞いてください」と仕事を、ほいっと渡されたこと。

フルリモートで、どうやってエンジニアの管理をしているだろう?と不思議に思っていたのですが、管理らしい管理はしていません。

成果物に対しては、ちゃんとレビューもしてくれるし、質問すれば答えてくれます。でも、いつ仕事するか、どこで仕事するか、どのように仕事を進めるかは、基本的に自分で決める。

たとえば、参観日の日に、子供たちを学校に見送った後、家事をして、仕事して、畑仕事をして、仕事して。ご飯を食べたら授業参観に行って、帰ってきたら仕事して。子供たちが帰ってきたら相手して、仕事して、晩御飯食べて、仕事して。こんな感じで、生活に合わせて柔軟に仕事を組み込めるんです。

これは非常にありがたい。

これまで、会社という場所に集められ、上司という監視役がいる状況で、仕事することに慣れていたので、「こんなに自由でいいのかな?」「これには何か裏があるのではないだろうか?」などと、疑ってみたこともありました。嬉しいことに本当に裏がない自由でしたが(笑)。

ただ、自由な働き方は難しい。自分で仕事をコントロールできないと、仕事を進めることはけっこう大変なんです。

会社という場所に集められて時間を拘束される場合、そこでいるだけで仕事をしているような気がしますが、働く場所、働く時間が自由な働き方では、仮に働いていて成果が出ていなくても、何も仕事をしていない場合でも、結果的に同じに見えます。

仕事を細かく分けて、少しずつでも進捗が見えるようにして、プロセスと結果を意識的に共有することが、物理的オフィスで働く場合よりも重要になると思っています。


働く時間・場所・方法をえらび、自由に描く100年分の人生設計図

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▲木登りをする子供たち

2019年現在は、リモートワーク のWebプログラマーとして週3日働いていて、週に2日は島の鉄工所で働いています。

プログラミングのようなデジタルな仕事も好きですが、反面、鉄工所や養殖場のようなリアルな現場も好きなんです。週3日頭をフルに使って、週2日体をフルに使う、体と頭のバランス的にも丁度よい気がしています。

基本的な生活費をほぼリモートワークで稼げるようになったので、生活のためのメインの仕事、収入は悪いけど好きでやっている仕事、ほぼ無収入の将来の投資のための仕事など、色々な仕事を柔軟に選択できるようになりました。

これからは、ライフサイクルに合わせて柔軟に住むところも変えていくことが理想です。

20代の独身時期は京都の市内で暮らして、30代の出産期、病院施設の整った滋賀県で暮らしました。そして40代の子育て期、自然豊かな大崎上島で暮らしを営んでいます。

50代は、どうなるか今のところわかりませんが、子供が手を離れるので、海外に行くか、もっと山奥に行って自給自足に踏み切るか、都市に行くか、親の介護などあるかもしれないし、このまま島暮らしかもしれない……。

今は、人生100年時代と言われています。正直、自分の60歳、70歳、80歳は想像できないのですが、一生働き続けられたらいいなと思っています。

50歳、60歳となると若い頃と比べ、生産性は低くなるかもしれませんが、子供が独立すれば、子育て期ほどお金を稼ぐ必要もなくなるので、現金収入が減ってもそんなに問題にならないかもしれません。

仕事も、急ぎではないけど重要な仕事などはあるので、仮に生産性が低くなっていても問題がないような気がしますし、未来においてAIが発達して、生産性はAIがほとんど補ってくれて、経験値で勝負できるようになるかもしれません。

リモートワークを軸に考えると、働く時間、働く場所、働き方も選択できるようになります。それをうまく調整することで、人生のライフサイクルに合わせた仕事の設計が可能になる。そう考えています。

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