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小説『美しい味』─樋口直哉

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2020年12月の記事一覧

樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-5

樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-5

 年が明けて、春になった。
 房次郎はつるのお供で、京都で開かれた第四回内国勧業博覧会に足を運んだ。彼らをまず圧倒したのははじめて乗る路面電車だ。
 内国勧業博覧会は平安遷都千百年を記念し、府が誘致したものである。これを機に京都の景色は大きく変わっていく。七状停車場から南禅寺船溜まりを路面電車が結び、そこから船で会場まで行く設計だった。
 房次郎は船に乗るのもはじめてだ。船は「沈みやしないか」と二

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樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-4

樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-4

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 尋常小学校を卒業すると、十歳になった房次郎は奉公に出された。奉公先は二条烏山にある漢方を扱う千坂という名前の薬屋で、薬屋が立ち並ぶ二条通りにあった。
 千坂という名前は主人の千坂忠七の姓からとったものだ。表のガラス戸には張り紙があり、奥には薬箪笥が置かれている。店先にも薬が入った木箱が積み上げられていた。
 房次郎に与えられた仕事は薬袋をつくったり、箱を運んだり、薬を薬研で挽き、

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樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-3

樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-3

 やすが帰ってしまうと、武造は仕事に戻った。木に彫刻刀を滑らせ、木片が弧を描く。よくこんな太い指で細かな作業ができるものだ。房次郎は魅入るようにその仕事をのぞき込んでいた。
 そんな房次郎に気づいて、武造は仕事の手を止めた。
「房、お前は台所に行って手伝いでもしてこい」
 房次郎が襖を開けると、台所ではフサが食事の支度をはじめたばかりだった。ザルに入れた米を研ぎ釜に入れ、かめから柄杓で水をすくって

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