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小説『美しい味』─樋口直哉

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小説『美しい味』─第2章-2

小説『美しい味』─第2章-2

 近いうちに東京に行くつもりや、と告げると、武造は激怒した。そんな必要はない、と言うのである。
「親が死ぬ前に会いたい言うとるのに、薄情や」
 房次郎が反論すると、武造は房次郎を見ずに作業台を叩いた。夜は更けて、室内には灯りが一つ灯っているだけだ。武造のいくぶん丸くなった背中が影になって、床に伸びていた。
「恩知らずが。お前を拾ったのは誰や思うとる。お前はここにおって、働いていればいい」
「しかし

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樋口直哉 小説『美しい味』─第2章-2

樋口直哉 小説『美しい味』─第2章-2

 考えた房次郎は古本屋巡りをした。絵を描くための筆や絵の具はとりあえず後回しにして、法帖を買い漁ることにしたのだ。法帖とは先人の書の筆跡を刷った本である。
 書なら金になる、と手本を横に置き、房次郎はそれを真似た。手本を見て描く臨書は書を学ぶ基本である。一年が経ち、二年が過ぎると房次郎の書の腕前はかなりのものになった。
 ある日、知らない男性が仕事場を訪ねてきた。
「福田房次郎ってのはあんたかい?

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樋口直哉 小説『美しい味』─第2章-1

樋口直哉 小説『美しい味』─第2章-1

   第2章

 それから一年を待たずに房次郎は千坂を辞めた。房次郎の頭にあったのは「金が欲しい」という切実な気持ちだった。はじめは金を貯めることも考えたが、義母が毎月給金をとりにくるので、それも叶わなかった。
 このままここで丁稚をしていては、いつまで経っても画学校にはいけない。それで彼は思い切った行動に出た。年内一杯で千坂を辞め、家に戻ったのである。
「なんで戻ってきたんや」
 面を食らったの

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樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-5

樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-5

 年が明けて、春になった。
 房次郎はつるのお供で、京都で開かれた第四回内国勧業博覧会に足を運んだ。彼らをまず圧倒したのははじめて乗る路面電車だ。
 内国勧業博覧会は平安遷都千百年を記念し、府が誘致したものである。これを機に京都の景色は大きく変わっていく。七状停車場から南禅寺船溜まりを路面電車が結び、そこから船で会場まで行く設計だった。
 房次郎は船に乗るのもはじめてだ。船は「沈みやしないか」と二

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樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-4

樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-4

     3

 尋常小学校を卒業すると、十歳になった房次郎は奉公に出された。奉公先は二条烏山にある漢方を扱う千坂という名前の薬屋で、薬屋が立ち並ぶ二条通りにあった。
 千坂という名前は主人の千坂忠七の姓からとったものだ。表のガラス戸には張り紙があり、奥には薬箪笥が置かれている。店先にも薬が入った木箱が積み上げられていた。
 房次郎に与えられた仕事は薬袋をつくったり、箱を運んだり、薬を薬研で挽き、

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樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-3

樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-3

 やすが帰ってしまうと、武造は仕事に戻った。木に彫刻刀を滑らせ、木片が弧を描く。よくこんな太い指で細かな作業ができるものだ。房次郎は魅入るようにその仕事をのぞき込んでいた。
 そんな房次郎に気づいて、武造は仕事の手を止めた。
「房、お前は台所に行って手伝いでもしてこい」
 房次郎が襖を開けると、台所ではフサが食事の支度をはじめたばかりだった。ザルに入れた米を研ぎ釜に入れ、かめから柄杓で水をすくって

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樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-2

樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-2

    2

 一瀬の家は町中、御所の西、二条城の東側の一角、竹屋町通りにあった。
 幼い朝吉をおぶったやすが門をくぐると老母が表に出てきた。
「遅かったね」老母はおかえりの一言も、道中の疲れを気遣う様子もなく、吐き捨てるように言った。「ろくでもないことばかりだよ、まったく」
 そんな態度の老母も孫である朝吉を前にするとさすがに口元を緩ませた。しかし、房次郎に決して視線は向けなかった。

 やすの

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樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-1

樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-1

 少し歩くとあたりは田んぼと畑である。歩くにはいい時分で、ひんやりとした四月の風が吹いていた。
 太田さんの家は上加茂神社の鳥居を通り過ぎ、三分ほどのところにあった。門の前にある小橋を渡り、玄関先でそら豆の枝と葉を風呂敷いっぱいにわけてもらう。そら豆は実がつくまえに余分な枝や葉を落とす。硬いが油で炒ったり佃煮にすれば食べられる。一家の暮らしは楽ではなかったから、こうした近所の人からのもらいものは有

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樋口直哉 小説『美しい味』─プロローグ2

樋口直哉 小説『美しい味』─プロローグ2

「お前、板前をやって何年だ?」
 先生は上着を脱ぎながら、私の方を一切見ずにそう言いました。「追い回しを三年、焼き方を五年です」と答えると「ほう」とうなずき、はじめて私をみました。眼鏡の奥の眼がギロリと動き、私は体を硬くしました。
「なら、今までのやり方は全部忘れるんやな」
 それなりに修行をしてきたつもりでした。それを忘れろと言われたわけですからさすがに戸惑いました。
「どういうことですか?」

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樋口直哉 小説『美しい味』─プロローグ1

樋口直哉 小説『美しい味』─プロローグ1

自分のホームであるnoteを活用すべく、執筆中の新作、長編小説をnoteに掲載していきます。完成前原稿ですので、大幅に変更する可能性もある──というか、書き換えます。音楽でいえばデモ音源(そんなかっこいいものではありませんが)みたいな文章です。ご興味があれば読んでください。     
                      樋口直哉

プロローグ ふたりの大観

 先生は傲岸不遜、みたいな言わ

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