見出し画像

樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-4

     3

 尋常小学校を卒業すると、十歳になった房次郎は奉公に出された。奉公先は二条烏山にある漢方を扱う千坂という名前の薬屋で、薬屋が立ち並ぶ二条通りにあった。
 千坂という名前は主人の千坂忠七の姓からとったものだ。表のガラス戸には張り紙があり、奥には薬箪笥が置かれている。店先にも薬が入った木箱が積み上げられていた。
 房次郎に与えられた仕事は薬袋をつくったり、箱を運んだり、薬を薬研で挽き、袋へ詰めるといった雑用だった。住み込みで朝から晩まで気が休まる時間はなかったが、彼はそれを真面目にこなした。八角やニッキ、月桂樹といった香りを嗅ぐのも嫌いではなかったし、朝ごはんに必ず薄い粥にありつけるのも有難かった。
 千坂にはつるという一人娘がいて、房次郎は外出の際に随伴することもあった。つるの後ろをついて歩くと、白いうなじが目を惹いた。そのたびに房次郎はため息をつき、それから胸のあたりをさするのだった。
「離れて歩いてや」
 最初につるの外出に同行した時、房次郎はそう釘を刺された。
「わかりました」
「あんた、不潔やわ。帰りに洗うたほうがええで」
 服を奉公人が奉公先で洗うことは許されていなかった。しかし、フサはあいかわらず家事が苦手だったので、なかなか洗い替えを持ってきてくれなかった。仕方がないので房次郎は川で服を洗い、シラミを落とした。それでも周りから迷惑がられることもあったし、夜になると痒さで眠れないときもあった。

 ある日の夕方、房次郎が店先を片付けているとなかから主人とつるの声が聞こえた。
「夜も更けてきたってのに出歩くなんて」
「お父ちゃん、そんな心配せんといて。すぐ近所やないの」
「あかん」
「じゃあ、房次郎を連れて行くから。すぐに戻るからそれならいいでしょ」
 会話のなかに自分の名前が出てきたので、房次郎は顔を上げた。
 やがて、すぐにつるが表に出てきた。
「房、行くわよ」
 房次郎はうなずいて、羽織を手にとった。
 どこに行くのだろう。数分、歩いているうちに陽は徐々に陰っていき、足元から暗闇が忍び寄ってきた。
 やがて、御池油小路という場所についた。板塀が切れた奥まったところから灯りがこぼれているが見える。この路地の先にあるのはたしか『亀政』という料理屋だ。
 道を曲がると店先に置かれた行灯が目に入った。普通の行灯であればまたたくのに、その光はぼんやりと落ち着いていた。行灯のなかにはまだ珍しい電灯が仕込まれていた。近所で話題になっていた行灯看板を一目見るために、つるは足を運んだのだった。
「きれいやな」
 つるはため息をついた。二人はもちろん電灯を見るのもはじめてだった。行灯には紐でつながれた亀の絵が一筆書きで描かれていて、その紐は平仮名で「まさ」と読めるようになっていた。
 房次郎は電灯の光に照らされたつるの横顔と亀の絵を交互に見て、目を大きくして、思わず息を呑んだ。
「さ、お父ちゃん、心配するから早く帰らんと」
 帰り道、つるは機嫌がよかった。
「あの亀、かわいらしかったなぁ」
 つるの笑顔を見た房次郎は顔を赤くした。
 それからしばらくのあいだ、房次郎はあの行灯の絵が気になって仕方がなかった。お使いの途中に立ち寄って亀の絵を眺めると、不思議と川の匂いがしてくるのだ。簡単な絵だが、達者な人の手によるものに違いなかった。
「あの絵? あれは画学校の教師をしている竹内棲鳳という人が描いたそうだよ」
 と傳三郎が教えてくれた。この頃、傳三郎は田中家へ養子に入り、田中傳三郎という名前になっていた。
「すごい人もおるもんやな」
「そうかな。あれぐらいなら鼻黒でも描けるんやないかな」
「まさか」
 房次郎は笑った。
 年末が近づき、世間を流れる空気もなんとなく忙しくなってくると、あの行灯の絵が張り替えられると聞いた。
「あの絵はどうするんやろね」
 夕方、つるがそう言って、物欲しそうに指先を唇に当てた。房次郎はその仕草を目で追った。
「俺がもろうてきますよ」
「本当に?」
 つるが不審げに言うと、房次郎はそれには答えずに店を出た。お使いの時間だったからだ。そして、いつものようにお使いの帰りに魚政に立ち寄ると、まだ灯りが灯っていない例の行灯があった。陽が暮れるまでにはまだ時間があった。
 吸い寄せられるように歩み寄ると、房次郎は懐から武造が普段仕事で使っている小刀を取りだして、それに突き立てようとした。
 その瞬間だった。
「このガキ、なにしとるんや」
 濁った太い声が響いて、房次郎は小刀を懐に隠した。逃げようとしたが、三人の使用人に囲まれていた。
「こいつ小刀、持ってるで」背の低い男が言うと、房次郎は後ろから手を捕まれ、地面に押し倒され、動きを封じられた。小刀が地面に落ち、一人がそれを拾った。「おい、警察だ」
 房次郎は観念したように静かにしている。
「なんの騒ぎや」
 料理屋から身なりのいい若主人らしい男性がのれんをくぐりながら出てくると、房次郎を抑え込んでいる男性以外、残りの従業員が背筋を伸ばした。
「へぇ。このガキが悪戯を」
「ふうん」
 若主人は房次郎の顔をのぞき込んでから、地面に落ちた小刀を拾い上げ、それをまじまじと見た。
「坊や、この絵を盗みに来たのか」
 房次郎は黙っていた。
「誰かに頼まれたのか?」
「いや、誰に頼まれたわけやない」と房次郎は言った。「どうせ剥がしてしまうのなら、亀を捕まえようと思うただけや」
「お前、それはただの泥棒やで」若主人は笑った。「亀を捕まえるなら料理屋ではなく、川に行くべきやな。おい、放してやりな」
「先生、いいんですか?」
「こんな小僧、警察に突き出したところでなんにもならんよ。坊や、こんなことしたらもうあかんで」
 従業員が房次郎から手を離したので、房次郎は体を起こした。
「……この絵が気に入ったんか」
 房次郎が頷くと、若主人は不敵に笑った。
「そりゃ、うれしいな。この亀は俺が書いたんよ」
 この人が傳三郎が言っていた竹内棲鳳(後の栖鳳)か、と房次郎は思った。想像よりもずっと若い。棲鳳は房次郎からとりあげた小刀で行灯の紙を剥がすと、それを細かく破き、手で丸めた。
 房次郎はあっ、と声をあげた。
「これ、後で燃やしておけ」
 棲鳳は紙を従業員に放り投げ、どこかに行ってしまった。
「小僧、イタズラなんか二度とするんじゃないぞ」
 三人の従業員は料理屋に戻ったので、房次郎は一人になった。膝小僧をはじめ体中、泥だらけだったことに気づいて、手でそれを払った。あっという間の出来事だった。あの生きているような亀の絵が一瞬にして消えたことが、まだ受け止められない。
 房次郎は首を横に振り、唇の端を噛みしめた。それから、逃げるようにその場を後にした。

撮影用の食材代として使わせていただきます。高い材料を使うレシピではないですが、サポートしていただけると助かります!