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樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-3

 やすが帰ってしまうと、武造は仕事に戻った。木に彫刻刀を滑らせ、木片が弧を描く。よくこんな太い指で細かな作業ができるものだ。房次郎は魅入るようにその仕事をのぞき込んでいた。
 そんな房次郎に気づいて、武造は仕事の手を止めた。
「房、お前は台所に行って手伝いでもしてこい」
 房次郎が襖を開けると、台所ではフサが食事の支度をはじめたばかりだった。ザルに入れた米を研ぎ釜に入れ、かめから柄杓で水をすくって米に注ぐ。麦が混ざっていない白いご飯を見たのは久しぶりだったので、房次郎は驚いた。福田家も人並みに貧乏だったが、毎日白いご飯を炊いていた。そんなところは武造の職人らしい気質かもしれない。
「水、ようけいれんでもいいのに」
 釜をのぞき込んだ房次郎が小さく言うとフサは目を大きくした。
「そうかい?」
「うん。いつも家でねえちゃんがやっているのを見てたから」
 房次郎に指摘されたフサは素直に水を減らした。
「房次郎、薪を割っておいておくれ」
「わかった」
 房次郎は台所を出て、裏手にまわり、ナタで薪を細かく割った。
 仕事をしていると気分がよかった。仕事があるということは、自分がここにいてもいいという証拠だからだ。それから犬に餌をやり、井戸から水を汲んできて、家の瓶に継ぎ足していると、飯を炊く時間になった。
 フサが釜からまだ蒸気が吹いていないのに火箸を突っ込みそうになったので、房次郎はそれを止めた。
「もう少し待っといたほうがええよ」
「へえ。房、お前に任せてもいい?」
「わかった」
 房次郎はいつもより大きな声で言った。芸者上がりのフサは炊事が不得意だったので、房次郎が飯炊きをしてくれることを喜んだ。
 自分が割った薪をどんどんくべて、釜が吹いてくるまで待つ。はじめチョロチョロだった火が薪をくべているうちに音を立てて、大きくなる。音を立てて蒸気が出てきたら火箸を突っ込んで、平らにならしていたはずだ。それからは、じっと待つ。房次郎はやすが毎日、ご飯を炊いていた様子を思い出しながら、見よう見まねでご飯を炊いた。
 フサが亭主のための夕飯の席を準備し、武造が湯気を立てる飯に箸を入れた。
「今日の飯は上手く炊けてるな」
 武造がそう言ったので、房次郎はほっと胸をなでおろした。
「房次郎が炊いたのよ」
 お茶を淹れていたフサが言った。
「ほう」武造が部屋の隅に立っていた房次郎に視線を向ける。「これから、飯はお前が炊け」
 それからは毎日、飯炊きが房次郎の仕事になった。
 一週間ほどで、米は研いでから水に漬ける時間によって炊きあがりの硬さが変わることを知った。家にあるのはすべて下等米だったが、違う種類があったので、混ぜて炊いてみると、普段よりも上手く炊けることがあった。どうやら混ぜる種類と割合に秘密があるらしい。子供が泥団子をつくる好奇心で、彼は飯炊きに夢中になった。
 二週間ほどで火加減で香りが変わることに気がついた。釜のそこにお焦げが上手にできると、その香りが全体にまわり、下等米の糠臭さやひねた匂いが消えるのだ。
 とびきり上手にお焦げが出来た日のことである。
「今日の米はまるで一等米だな!」
 一口食べるなり武造は愉快そうに笑った。お焦げをつくると他にもいいことがあった。最後に残ったお焦げを食べることができるからだ。次第に彼は飯炊きが上手くなっていった。薪で飯を炊くのは慣れが必要である。ガスコンロが普及する明治のはじめまで、飯炊きは充分に特技になりうる技能だった。
 七歳で尋常小学校に通うようになると、八百屋の買い物も任されるようになった。八百屋には芹や三つ葉、大きな蕪など服部家では見たことがなかった野菜が並んでいたので、房次郎はこれはなにか、と店主にしつこく尋ねた。はじめのうちは八百屋の店主も小さな客に面を食らっていたが、質問すれば親切に教えてくれるのだった。
 お使いの途中に二条城に寄ることもあった。二条城のあたりは静かなので、房次郎はふと服部家で過ごした幼少期の頃を思い出した。門の鋲が女性の乳房に見えた。やす、と房次郎は誰にも聞こえないように、名前を口に出してみた。
 福田家での日々は房次郎にとっては好ましいものだった。武造は博打好きだったが、夜になると花札に興じるくらいで、暮らしが乱れるほどではなかった。あいかわらず貧乏で、味噌汁に具は入っていなかったが、白いご飯を食べるくらいの余裕はあり、彼も毎日、食事にありつくことができた。
 小学校は府庁前の通りにあり、家に近かったので、通うのは楽だった。彼は色白のおとなしい性格で、教室ではほとんど目立たない子供だった。
 ある時、房次郎は武造が仕事を請け負っていた「便利堂」という貸本屋にお使いに出された。
「福田です。版下を届けに上がりやした」
 すると、店の奥から十歳くらいの美少年が顔を出した。便利堂の創業者の息子である中村傳三郎である。
「お疲れ様。そこに置いておきな……お前、福田さんとこの子か。年は?」
 房次郎が自分の年齢を告げると傳三郎は「俺の弟と同じくらいだな」と笑った。鼻水をたらしていた房次郎は手の甲でそれを拭う。鼻の周りが黒くなった。傳三郎はそれを見て、腹を抱えてもらった。
「お使いが終わったら二条城のところに来いよ。石遊びを教えてやる」
 傳三郎はたびたび福田家にも訪れるようになり、房次郎のことを「鼻黒」と呼んで弟のようにかわいがった。彼は交友関係も広く、人気もあったので、年頃の友達もたくさん紹介してくれた。友達とよく遊ぶようになると、房次郎も他の人がしているような普通の暮らしに憧れるようになった。
 房次郎は小遣いをもらってなかったので、夏になると朝顔を鉢で咲かせて、屋根の上に並べて売り、駄賃にした。河原で蛙をとって売ったり、山で山菜をとったりと、小遣い稼ぎをする子供はめずらしくない。屋根のトタンが焼けた頃を見計らっては房次郎は自分の頭のシラミを捕まえて、そこに投げつけた。
 陽の光で熱くなったトタンにぶつけられたシラミはすぐに焼け死んだ。

 ある日のお使いの往路、三条寺町の食堂の入り口の棚に丼の見本が出ていた。焼いた肉がのったそれがいかにも旨そうだったので、なんとか家で作ってみたいと思った。しかし、裏口から忍び込んで作り方を盗もうと、裏の扉を開けて調理場に入った途端に水をかけられて追い出された。 
「肉、肉、肉……なぁ」
 台所で独り言を呟いていると、武造がやってきて「おい、房。お使いに行ってこい」と言った。また、版下の届け物かと思っていると十銭玉を預けられた。
「堀川に肉屋が出来たらしい。牡丹とネギを買ってこい」
「わかった。行ってくるわ」
 房次郎は喜び勇んで、表に出た。足早に堀川の肉屋に向かうと、大きなのれんと看板がかかっている大げさな店だった。もともとは鰻屋だったらしく、のれんをくぐるとその雰囲気が残っていた。おそらく客席に面した焼き場があった位置を販売台にしたのだろう。薄暗い奥には肉がぶら下がり、不気味な雰囲気だった。
「坊や、なんか用?」
 販売台の奥で包丁を握っていた職人が顔を上げた。房次郎が肉屋にイノシシ肉を頼むと「これだけじゃ、脂が多いところだけになるけど」と首を傾げた。「それでもいいか?」
 房次郎は頷いた。肉屋が奥からイノシシの肉に持ってきて、まな板においた。真っ白な脂身に包丁が入ると、鮮やかな肉の断面が見えた。肉の鮮やかな赤だ。職人はそれを手際よく経木に並べると、くるりと包んだ。
 急いで肉を持ち帰るとそれを受け取った武造はめずらしく台所に腰をおろした。肉を自分の親指くらいの大きさに切り、鍋に次々と放り込んだ。どんどんと音を立ててネギをぶつ切りにすると、それも一緒に入れ、少しの酒と味噌を入れ、水を張った。火を起こし、じっくりと炊いていくうちに白い脂は半透明になった。煮汁の表面には透明な脂がテラテラと浮いている。
 武造は酒を飲みながらそれを一人で食べたが、少しだけ残したので房次郎も相伴にあずかれた。口に入れると脂がさらりと溶け、後には肉と味噌の味がじんわりと広がる。後にも先にもイノシシの肉をあれほど旨いと思ったことはない、と後に語るように、それは房次郎にとって忘れられない味になった。

 学校が休みの日。お使いの帰りに房次郎は店先で母親と幼い兄弟がラムネを飲んでいるところを見た。母親は胸が大きい女性で、兄は自分と同じくらい、弟の方は朝吉とおそらく同じくらいの年頃だろう。
 彼はそれまでラムネという飲み物の存在を知ってはいたが、飲んだことがなかった。
 大きくため息をつき、老女が店番をしている露天に目星をつけた。どうしても飲んでみたかったのだ。首尾よくラムネを胸元に隠すと、脱兎のごとく駆け出して、一本盗んだ。しばらく走って、角を曲がり、背中を家の壁につけて、呼吸を整える。手頃な枝を探して、念願のラムネに突き刺すと、勢いよく吹き出した。
「なんじゃ!」
 慌てて手元が狂い、ラムネの瓶を地面に落としてしまい、拾い上げたときにはほとんど残っていなかった。また、ため息をついて地面のシミを眺めていると、襟元を掴まれた。
「泥棒め」
 近所の人に見つかったのだ。家の場所を聞かれた房次郎ははじめは答えなかったが、やがて堪忍した。謝ると家まで案内するように言われ、フサに事情を話してお金を払った。そのことを知った武造は烈火のごとく怒った。
「お前は人間のクズか!」
 めったに怒らない──というよりは房次郎が怒られないようにしていたからだが──義父に怒鳴られた房次郎は身が凍る思いがした。
 房次郎が家の端っこで丸まって静かにしていた。この家を追い出されたら行き場などないのだ。
 夕方になる前に「房」と武造から声をかけられた。「お前、川育ちじゃろう」
 房次郎はうなずいた。幼い頃、川は遊び場でよくカニをとって遊んだ。
「なら、どじょうはさばけるか?」
 義父がなにを言っているのかよくわからなかった。うなぎは川にいるけれど、ドジョウは田んぼにいる魚だ。あるいはウナギもドジョウも同じものだ、と思っているのかもしれない。そして、もちろんどちらもさばいたことなどない。
「できます」
 しかし、房次郎はそう答えた。できない、という選択肢はなかった。
「なら、金を渡すから買うてこい」
 一銭硬貨を五枚渡されて、房次郎は錦の市場に桶を持って、ドジョウを買いに走った。以前、買い物に行ったときにドジョウを扱っている魚屋の場所は知っていたので、迷わずにたどり着くことができた。錦の市場のなかでも特別雑多な場所に魚屋はあった。
「おっちゃん、ドジョウ頂戴いんか」
「あいよ」
「なんぼ?」
「えーと、4銭や」
 房次郎が四銭を渡すと魚屋はそれをかごに放り込み、網で壺に入ったドジョウをすくい上げ、桶に移した。壺にドジョウと井戸水を入れ、泥を吐かしたものである。
「これ、どうやってさばくん?」
「ドジョウはそのまま食べりゃいいんだよ」
「それじゃ、ダメなんよ」
「だめ?」
「うちの父、骨が苦手なんで」
「なに、坊主がやんのか? なら、教えてやるよ」
 魚屋は面白がってくれたらしく、手本を見せてくれた。まな板に置いてドジョウの目の上辺りに釘をさして、首元に包丁を入れる。中骨まで刃を入れたら、腹を割き、指先で内蔵をとりのぞく。腹の中に褐色の卵を持っているのがメスで、白子があるのが雄だ。次に中骨を包丁で削ぎとり、腹のなかを洗う。魚屋はこうして開いたドジョウに串を打ち、蒲焼きにして売るのである。
「簡単だろ? ドジョウはハモやウナギより全然簡単」
 魚屋はそう言うと、もう一匹に包丁を入れ、同様に開いた。またたく間にさっきまで生き物だったドジョウが、食べ物に変わった。
「ほれ、やってみ」
 そう促された房次郎はドジョウに包丁を入れる。しかし、魚を扱うのははじめてなので、当然うまく行かない。
「下手くそやな」
 魚屋はそう言って、笑った。もう一尾、開いてみたが、途中で身がちぎれてしまった。房次郎はつばを飲み込んだ。必死に考えをめぐらす。できる、と啖呵を切った手前、なんとかせねば。
「さっき、おっちゃんが開いた身もくれ」
「ええよ」
 魚屋は開いたドジョウを二尾、経木でさっと包んだ。
「おっちゃん、中骨も入れてえな」
「小僧、中骨は別料金やで。焼くとこれはこれで売り物になるんやから」
「そんな、頼むわ」
「……しょうがないやっちゃな。おまけやで」
 魚屋は中骨を入れて経木を包み直すと、房次郎に投げた。それを受け取った房次郎は桶を抱えて、急いで家に帰った。
 足音を立てないように台所に戻り、まな板の前に腰を下ろす。ドジョウを置き、目を釘で刺して固定する。深呼吸して、魚屋の手付きを思い出す。そして、見よう見まねで包丁を首に入れた。無心で包丁を走らせるとそれなりの形にはなった。中骨を外すときに指先を切ってしまったがそれくらいはかすり傷だ。
 しかし、魚屋の仕事とくらべると開いたドジョウの身は荒れ、皮は破れている。
「難しいもんやな」
 房次郎はため息をついた。
「おう、戻ったんか」
 台所の物音に気づいた武造が様子を見にやってきた。房次郎は慌ててまな板の上に、魚屋が開いたドジョウを置き、中骨があったあたりに包丁を入れて、開く真似をした。
「なかなか上手やないか」
 武造が褒めたので房次郎はほっと息を吐いた。なんとかごまかせた。ひらいたドジョウを鍋に並べ、酒を注ぐ。武造がぶ武造つ切りのネギをそこに入れた。あとは火にくべて炊いて、塩と醤油を落とせばドジョウの煮込みの出来上がりだ。
 武造は酒を飲みながらそれを食べた。
「あ、釣りがあったんや」
 房次郎が懐から残った一銭を取り出すと、武造は房次郎を一切見ずに「駄賃にとっとけ」と言った。それはちょうどラムネが買える金額だった。

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