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樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-5

 年が明けて、春になった。
 房次郎はつるのお供で、京都で開かれた第四回内国勧業博覧会に足を運んだ。彼らをまず圧倒したのははじめて乗る路面電車だ。
 内国勧業博覧会は平安遷都千百年を記念し、府が誘致したものである。これを機に京都の景色は大きく変わっていく。七状停車場から南禅寺船溜まりを路面電車が結び、そこから船で会場まで行く設計だった。
 房次郎は船に乗るのもはじめてだ。船は「沈みやしないか」と二人が不安になるほど人で一杯で、会場に着いた二人を待っていたのは、それを上回る人混みとまたしてもはじめて拝む西洋風の建物だった。
 慶流橋を渡り、会場に入ると、まず目に入ってくるのは大鳥居だ。その向こうにあるレンガ造りの建物が橋本雅邦をはじめ、野口幽谷、川合玉堂、黒田清輝などの作品が展示されている美術館だった。他に工業館、農林館、水産館などの洋風の建物や飲食店がゆとりを持って並び、そのあいだには松や杉などの木が植えられていた。
 博覧会はとても一日では回れない規模で、それらは新しい時代の到来を予感させるに充分だった。房次郎は博覧会に足を運べるだけでうれしかった。
 つるの目当ては美術館である。当時の女学生たちにとって若い画家たちは憧れの存在で、裸婦を描いた黒田清輝の作品が大いに話題になっていたのだ。

 レンガ造りの建物に入ると、やはり人混みで一枚の絵を見るにも並ぶ必要があった。それでもつるは一つ一つ、時間をかけて、作品を眺めていた。房次郎は途中で飽きてしまって、しまいにはあくびをしているくらいだったが、やがて奥に展示された六曲一双の屏風絵の前で立ち止まった。
 左の屏風ではたくさんの雀が地面に落ちた米を求めて集まっている。その様子は騒がしい羽音が聞こえてくるほどだ。右の屏風では犬の親子が描かれている。三匹の子犬が遊び、まどろむ親犬の視線の先で四匹の雀がたわむれている場面である。
 作品名は〈百騒一睡〉、作者の名は竹内棲鳳とあった。
 あの人や、と房次郎は思った。魚政の絵を描いた若旦那。
 房次郎はしばらくその絵を食い入るように見つめた。犬、雀、犬……心のなかで呟いていると次第に棲鳳の佇まいとさきほどの犬の姿が重なった。騒ぐ雀たちと遊ぶ子犬を前に、悠々と微睡んでいる親犬。棲鳳があの気品ある犬であれば、自分は薄汚れた野良犬だった。
「この犬、なんやろ」
 つるが不思議そうに言ったので、房次郎は我に返った。鼻が長くて、毛が長い。たしかに見たことのない種類の犬種だった。
 俺にもこんな絵、描けるやろか、と房次郎は思った。傳三郎は自分にも描ける、と言っていたが、そんな風にはとても思えなかった。若いのに使用人を抱えている棲鳳と、丁稚の自分では身分が違いすぎる。でも、野良犬は野良犬らしくこれからも振る舞わなければいけないのだろうか。
 帰り道、房次郎はそんなことをずっと考えていた。
「全裸の女が下品やって話題になってたけど、騒ぐほどでもなかったわ。それよりもあの犬、かわいかったな」
 路面電車のなかで房次郎の目の前に座っていたつるが思い出したように言った。
「犬?」
「あの雀が一杯描かれた屏風絵にいた犬よ。よく見てなかったんだけど、あれどんな人が描いたのかしら」
「あれは竹内棲鳳いう先生が描いたものです」
「そうなん?」
 つるは目を大きくした。なんで知っているの、という風に。
 房次郎は言い訳をするように言った。「名前がちゃんと書いてはりました。魚政いう料理屋の行灯に亀の絵があったじゃないですか。あれを描いた人です」
「房のくせに、よく知ってるのね」
 行灯の絵は墨の一筆描きだったが、雄壮な屏風絵は写実的に描かれたものだった。言われてみれば全然違う。同じ人が描いたとは思えない。そもそもああいう絵はどんなふうに書くのだろう。房次郎は改めて不思議に思った。
「どうすればあんな絵を描けるようになるんですかね」
 房次郎はため息をついた。
「そりゃ、画学校に入るしかないでしょ」
 画学校、と房次郎は思った。そういえば傳三郎が棲鳳先生は画学校の教師をしている、と言っていた。自分も画学校に行けばいいのか。急に真剣な表情になった房次郎を見てつるが「あんたには無理よ」と珍しくやさしい口調で言った。「ノミだらけの不潔な人間にあんなに美しいものがつくれるはずないじゃない」
 房次郎は我に返った。たしかにそうだ。生まれというものがある。でも……。
「でも、房が画家になったらあたしもちょっと鼻が高いかも」
 冗談っぽくつるが言った。路面電車を降り、千坂まで歩く。日が暮れてくると町のどこかで野良犬の鳴き声が聞こえてきた。房次郎はそれを聞いているうちにどうにもならない気持ちになった。

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