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一年に一度のお参り

今日は、25歳の時に亡くなった高校時代の友達のお参りへ。
コロナでしばらくお参りを遠慮させていただいていたから、2年ぶりくらいの友達のご実家へ伺うことになった。

行く前に、ふとさみしい気持ちがよぎった。
高校時代仲良くしていたのは5人だったんだ。
卒業後も、就職してからも、頻度は減っても会っていつも楽しく話していた。
だけど、
友達が亡くなってから
友達のお参りへ来る子は3年目くらいからぽつぽつといなくなり、だんだんと「忙しいから」と断られるようになり…もう今は私だけだった。

私が死んでしまっても、その時は泣いてくれる人がいても、
きっと3年くらいでほとんどの人には忘れられてしまうんだろうなぁ。
それって、人間の摂理だし仕方のないことだろうけれど、どうしても切ない気持ちがしてしまう。

でも同時に、
あれ?待てよ?
友達と一緒に過ごした期間を、もう亡くなってからの期間が超えているんだ、ということに気が付いて愕然とした。

もしかして、私の方が異常なのかもしれない。
こんなに長く、10年以上もお参りに来る友達ってもしかしておかしいんだろうか。
ご家族にとっても毎年来る私って、迷惑じゃないんだろうか。
逆に不安になってきた。

とはいっても、もう今日は約束もさせていただいているし、車で友達のおうちまで出かけた。
笑顔で迎えてくださった友達のお母さんとお話して、その後お仏壇へ。
静かに手を合わせる。

25歳の友達の写真を見た後に、
自然と友達に頭の中で話しかける。
「ねえ、〇〇ちゃん。久しぶりだね、コロナがあったから来られなくてごめんね。私、旦那さんとドイツに留学することになったよ。信じられないでしょ?仕事も辞めちゃった」
と次から次へとその子への言葉が頭に浮かんでくる。

そんな自分を感じながら、
ああ、そうだった。私、こうやっていつも友達に今のこと報告していたね、と思い出した。
そうするとすごく落ち着く。
もちろん友達の実家以外の場所でも友達のこと思うことはあるけれど、
一番友達を身近に感じられるのはやっぱりここなんだよね。

報告し終わると、気持ちがすうっとする気がした。
そして、改めて思うんだよね。
「大事な人をちゃんと私、大切にできたかな。今年」って。

友達が亡くなってしまったことについて、
私が会って話を聞いて止められたら…なんてそんなおこがましいことはとても思えないし、思ってもいない。

だけど、
友達が亡くなった知らせを受けた時に、一番に感じたのは、
いつでも会えると思っている人にもう会えないということはあるんだ、ということだった。
大事な人に会えるというのは普通のことじゃない、とても貴重なこと。

私はあの時、司法試験や公務員試験でバタバタしていて、「終わったら会おうね」と友達に伝えていて、会えていなかった。
会えるのが当然と思っていた。そのことがすごくすごく勘違いだったと思い知らされたんだ。

だからこうやって友達のお参りに来ると、
日ごろささいなことに悩まされがちな自分の生き方についても襟を正される。

友達のお母さんとお話をしながら、
「私は」やっぱりもしご家族が迷惑であったとしても、何年もお伺いしている私が異常だったとしても、申し訳ないけれどやっぱり友達に毎年会いに行きたい。
と思った。
やっぱり私の気持ちはどうしてもそうしたいって確信できたから。

帰り際に、「また来年よろしくお願いします」とあいさつしてお別れした。

また来年報告に来るときには、どんな1年を報告するんだろう。
きっと濃すぎる1年で、時間がかかりそうだなぁと思いながら。

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