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傑作という檻を出て(noteのつづけ方)

 「noteのつづけ方」というテーマを選んだ割に、私はここ半年くらいnoteの更新をしていなかった。そこで今回は「なぜ続けられなかったか」、そして「なぜ再開できたか」という観点で書いていく。

「書けない」のか「書かない」のか

 なぜ創作を続けられなかったか。一番の理由として浮かんできたのは「書きたいことがなかったから」「ネタがないから」ということだ。ご時世柄、旅行にも行かずテレワーク中心の生活を送っているので、日々の中に特筆すべき内容がない。書こうにもテーマがなくては書きたくても「書けない」。
 しかし本当にそうだろうか。例えば誰かと久々に再会したときでも、私は話すトピックに困ることはない。年明けに友人とランチへ行った時は、ロシア料理やゴッホについて3時間くらい途切れることなく話し続けていた。発信したいことは自分の中にきちんとある。旅行に行かなくとも、今考えていることや過去の経験を基に書くことはできる。
 加えて、仕事は忙しいが土日は時間があり、精神的にも書くだけの余裕はある。とすると私は「書けない」のではなく、「書かない」状態だったのだろうか。
 「書かない」としたらその要因はどこにあるのだろう。

傑作という檻

 「何者」という小説にこんなセリフがある。

頭の中にあるうちは、いつだって、何だって、傑作なんだよな。お前はずっと、その中から出られないんだよ

朝井リョウ著 何者(新潮文庫)

 これは文章に限らず全ての創作に起こりうることだ。
 ある時、これはと思うアイディアが浮かぶ。もっと洗練されたものにしようと頭の中でこねくり回す。構想やエピソードを加えてアイディアの体積が増えてくる。体積とともに自分の期待も膨れてくる。これは傑作が創れるに違いない、まだ出すには早いから温めておくという結論に至る。そうして温めたアイディアが形になったことは、まだ一度もない。
 半年の間、また書こうと思ったことは何度かあり、実際に断片的な文章は書いていた。しかし数百字で進みはピタリと止まってしまう。何か違う、こんなに陳腐なものが書きたかったわけじゃない、という不満が筆への枷となる。ついにはファイルごと文章を消してしまう。書きたいことがないのではなく、頭の中の理想像に引きずられてアウトプットができなかったのだ。
 いつしか私は、傑作という呪縛にとらわれていたのかもしれない。

「あきらめる」

「独学大全」で有名な読書猿さんが、断念の文章術という章で次のように述べている。

 ヒトとしての成熟が、「自分はきっと何者かになれるはず」と無根拠に信じなければやってられない思春期を抜け出し、「自分は確かに何者にもなれないのだ」という事実を受け入れるところから始まるように(地に足のついた努力はここから始まる)、書き手として立つことは「自分はいつかすばらしい何かを書く(書ける)はず」という妄執から覚め、「これはまったく満足のいくものではないが、私は今ここでこの文章を最後まで書くのだ」と引き受けるところから始まる。
 これは可能性についての断念ではない。有限の時間と能力しか持たない我々が、誰かに押し付けられたわけではない自分に対する義務を果たそうという決断である。

千葉雅也、山内朋樹、読書猿、瀬下翔太著
ライティングの哲学(星海社)

 書くためには傑作を諦めなければならない。頭の中の傑作を手放し、違和感や陳腐な表現をそのままに文章を最後まで書かなければならない。仮に本当に傑作と呼べるだけの良いものが書けるようになるとすれば、それはこの泥臭い工程を重ねた先にしかないだろう。
 「毎週文章を最後まで書く」という掟を自分に課してからは、再び文章を書けるようになった。内容や質に不安があっても更新する。書いたこと自体を評価する。書き続けることで、人に見せるという経験で少しでも自分に変化を起こせると信じている。
 誰かに見てもらい、いいねをもらうことは嬉しい。しかしいいねの数=価値ではない。閲覧数やいいねの数を気にするとまた枷をつくってしまう。周りの評価は気にせず、あくまで書き続けることを大事にしていきたい。
 もう二度と、傑作の亡霊に憑りつかれないように。

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