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旅か、放浪か

「旅と放浪の違い、知っていますか」

  高倉健主演の映画、「あなたへ」の一幕だ。主人公・倉島英二は遺言に従って亡くなった妻の散骨を行うため、富山から長崎へキャンピングカーで向かうことを決意する。
 道中、北野武演じる元国語教師・杉野とふとしたきっかけで出会う。杉野は旅慣れており、英二に宿泊場所などについてアドバイスをしてくれる。話すうちに、杉野が言った言葉が冒頭の台詞だ。このシーンはこのように続く。

「いえ・・・」
「目的があるのが、旅。ないのが放浪です」
「そして、もう一つ。旅には帰る場所があります。放浪にはありません」

 杉野はそう言って穏やかに微笑む。彼が種田山頭火を好み、主人公にその詩集を託すシーンをよく覚えている。
 といっても、杉野が出てくる場面は多くない。しまいには車上荒らしの容疑で捕まってしまう。それでも前述の会話を思い出すのは、心に引っかかるところがあったからだ。

 試しに手元の辞書三省堂の「大辞林」第四版で、「旅」、「放浪」という単語をそれぞれ引いてみる。
 旅は「住んでいる所を離れてよその土地へ出かけること。名所旧跡を訪ねたり、未知の場所にあこがれて、また遠方へ所用のため、居所を離れること」とある。やはり旅は住んでいる所が起点となり、特定の目的がある。一方、放浪は「あてもなくさまよい歩くこと。さすらい」だそうだ。
 はて、と立ち止まって考える。果たして、私がしてきたのは旅だっただろうか、それとも放浪だったのだろうか。

 旅の目的といえば、大抵は観光だろう。有名な観光地を訪ねる、名物料理を食べる、みんなでその場所で写真を撮る…。 
 私は極端な話、それらのことをしなくても楽しめる。旅先の喫茶店やローカル線で本を読んでいるだけの時間も多い。「釧路旅行記」で書いた通り、釧路に行って釧路湿原を見ずに帰ってきたが、未だに後悔はない。旅先でなくともできることだが、カフェで本を読んで街を歩き、バーで飲みながら下らない話をするだけでも満足だ。ホテルで一日寝ていたいと思う日さえある。遠く行く理由を尋ねられたらもっともらしいことを並べるが、言いながらしっくりくるものは一つもない。

 帰る場所について考えると、いよいよわからなくなってくる。当然のことだが住む家はある。しかし、戻ってしばらくすれば次の場所へ向かう。感覚としては、ホームというよりプラットフォームに近い。突き詰めると旅先のホテルと今のアパートに、宿泊期間以外になんの違いがあるというのだろう。

 ではふるさとはどうだろう。帰省という言葉があるように、生まれ育った土地ならば帰るという表現は正しいはずだ。しかし、これも私にはしっくりこなかった。そこで思い出すのは室生犀星の「ふるさと」だ。

 ふるさとは遠きにありて思ふもの
 そして悲しくうたふもの
 よしや
 うらぶれて異土の乞食となるとても
 帰るところにあるまじや
 ひとり都のゆふぐれに
 ふるさとおもひ涙ぐむ
 そのこころもて
 遠きみやこにかへらばや
 遠きみやこにかへらばや
 (小景異情ーその二 より)

 「ふるさとに帰る」ということは本質的には不可能なことではないか、と最近考える。確かに育った土地は存在し、足を踏み入れれば懐かしく思うだろう。以前の友人にも会うかもしれない。しかし、旅立った日背にした「ふるさと」と今のふるさとは変わっているし、背を向けた自分自身もまた変わってしまっている。
 帰りたいふるさとは過去、記憶の中にしかない。私とふるさとを隔てているものは、距離ではなく時間だ。距離を越えるのはたやすいが、時間は越えられない。だから交通手段が発達した今でもふるさと、みやこは遠いのだ。
 
 それでも私がしてきたのは旅だと言いたい。起点が存在せず、全ての地が通過する場所に過ぎないとすれば、それは寂しいことだと思う。過去に帰る場所があるならば、未来にあってもいいはずだ。

 帰る場所を自分の内から見つけるために、私はまた旅を続けるだろう。

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