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社会不適合者の烙印を押される大晦日


Subwayと社会不適合者

昨日、私が時折視聴させていただいていた、とあるインターネット配信者の方の訃報が届いた。

その方と直接にやり取りしたことはないが、やはり今まで普通に見ていた方が突然いなくなってしまうショックは大きい。

ということもあり、大晦日であるのにもかかわらず、全くもってめでたい気分になれない中、今年も昨年と同様、近場に出かけることにした。

札幌市東区にある、地下鉄栄町駅。
ここから路線バスに乗り、北区のあいの里方面に向かう。

あいの里に行く理由は特にない。
昨年も行ったから今年も行こうという、極めてASD的な理由である。

地下鉄栄町駅付近の住宅街の様子

栄町駅からあいの里に行くバスは、1時間に1本程度しかない。
バスの発車まで時間があるので、駅周辺を適当に歩く。

今日は、湿った雪が降っている。
年末年始の札幌でここまで気温が高いのは珍しいというか、異常というべきだろうか。

湿った雪というのは、乾いた雪と違ってすぐに液体に変わるので、体が濡れて冷える原因になりやすい。
とはいえ、外気温は0度以上あるから、歩いていれば特に寒さは感じない。
近くを歩きながらGoProで雪の映像を撮り、再びバス停に戻る。

バス停から、あいの里4条1丁目行きに乗車し、あいの里教育大駅前で下車。

JRあいの里教育大駅

あいの里教育大駅に来た目的は、特にない。

あいの里教育大駅(南口)

暇なので、跨線橋を渡って南口に来てみた。
あいの里教育大駅の南口は、完全な住宅街になっていて、お店は全くない。

あいの里教育大駅前の商業施設群

再び北口に戻り、駅前の商業施設周辺をうろつく。
この辺りは、スーパーの東光ストアコープさっぽろの他、飲食店のマクドナルドサブウェイなどがある。

さらに、ニュータウンとして開発された経緯がある当地では、数多くのマンションが立地している。

札幌中心部と比べ自然が多く、手ごろな価格でマンションを買うことができる地域なので、人気も高いようだ。

しかしながら、札幌中心部から比較的距離が離れているので、通勤に時間がかかること、また積雪が多くなりやすいといったデメリットもある。

少し歩いたら腹が減った。
先ほども述べた通り、あいの里教育大駅周辺には、マクドナルドやサブウェイがある。

マクドナルドに関しては、1か月ほど前に食べたばかりだし、昨年の大晦日もここで昼飯を食べたので、今回はやめておきたい。
しかも、昨今のパレスチナ情勢を考えると、「親イスラエル企業」であるマクドナルドを、積極的に利用すべき理由はない。

ということで、今回はサブウェイに入ることにした。

あいの里教育大駅前にあるサブウェイ「東光ストアあいの里店」

サブウェイは、札幌に6店舗あるが、うち4店舗が中心部に集中しており、郊外にあるのはここだけだ。

メニューを簡単に調べた後、さっそく店内に入る。
首都圏在住経験もある私だが、サブウェイを利用するのは今回が初めてだ。

とりあえず、店員がいるカウンターの辺りに向かう。
すぐに注文ができると思いきや、テイクアウトをする先客がいたので、しばらく待たされることになった。

5~10分ほど待ち、私の番が来る。
店員は10代後半~20代前半くらいと思しき女性だ。
サブウェイの利用は初めてなので、当然勝手は分からない。

店員が何かを話し始めたが、あまり聞き取れなかったので黙っていると、今度は少しイライラしたような雰囲気で、同じことをもう一度私に問いかけた。

どうも、この店ではパンの種類や野菜、ドレッシングの種類などを自分で指定できるらしい。

いや、「指定できる」というよりも、指定するかどうかをその都度訊かれるシステムになっていると言うのがより正確だろうか。
注文の始め、私が聞き取れなかった内容は、パンの種類はどうするか?という質問だったらしい。

店員が明らかに不機嫌な様子だったので、こちらも少し苛つきを出しつつ、普通ので良い(正確名称は忘れた)と言っておいた。

それからも色々と訊かれたが、こちらとしては全くもって分からず、店員の側も矢継ぎ早にしゃべり続けるだけなので、もうどうでもいいと思った。

結局オプションの類は全て「大丈夫です」で乗り切り、マヨネーズだけかけてもらうことにした。
当初はセットを注文する予定だったものの、もうどうでもよくなったので、単品だけにした。価格は490円

ようやく昼飯にありつける。
店員の態度は微妙だったが、味は確かに美味しかった。
これは490円の価値が充分にあると思う。

しかし、サブウェイという店は、私のような人間に対して、なぜここまで冷淡なのかと、サンドイッチを食べながら考えた。

店員の性格が悪いのか?いや、それは違うだろう。
サンドイッチを食べている間も、店員は他の店員と楽しそうに談笑しているし、他の客に対しては普通に接している。

ならば、私の側がおかしいのか?残念ながら、それが正解だろう。

結局のところ、「人」というのものは、本能的に「異質」なものを排除するというだけの話なのである。

つまり、ここでは私が「異質」であり、店員や他の客は、私と違って、空間に溶け込んでいるのだ。

もちろんサブウェイの店員にも、非はあると言えるだろう。
決して国民的チェーンとはいえないサブウェイの注文方法を、全ての国民が知っているはずがない

それにもかかわらず、店員は客がそれを知っていることを前提として、注文を進めていく。
もし客がそれを知らなかったらどうなるか?
店員側は「なんで知らないのか」と、まるで部下を叱る上司のように、生徒を叱る教師のように、患者を叱る看護師のように、その本性を現し出す

その瞬間、客は上司に𠮟責されている部下のように、注文が上手くできないことが、「失態」に変わり、自分の存在が「異質」なものになっていることを受け入れることを強要される。

そこでは、「店員⇔客」という分かりやすい関係性はなくなる。
その店員だけでなく、他の店員や客を巻き込んだ総力戦に巻き込まれるのだ。

たとえ自分が悪くなくても、相手に非があっても、それを主張してはならない。
なぜなら、あなたは「異質」であり、マイノリティであり、あなたの周りに味方はいないからだ。

このような過程を経て、私は「注文が上手くできなかった」という「失態」を受け入れ、反省し、次の来店では上手く注文することを否応なしに求められる。

だから私は、二度とその店に行くことはないだろう。

孤独死について考える

あいの里教育大駅からバスで戻る途中、孤独死について考えた。
私は、もう10年以上も友達がおらず、家族以外に私の連絡先を知る人は(仕事関係を除けば)1人もいない。

そんな私がもし命を落とすことがあれば、誰がそれに気づいてくれるのか。
幸い私は天涯孤独ではないので、家族がそれに気づくことになるだろうが、それはいつになるだろう。

実家暮らしではないので、死後数時間~数日程度は放置されるだろう。
そして1週間~2週間程度が過ぎ、私からの連絡が完全に途絶えたことを心配した家族が、警察に連絡する。
警察が私の部屋に入ってきて、ようやく私が「発見」される。

もし私が、バイトや普通の仕事をしていれば、欠勤が数日以上続いたことを以て、不審に思った同僚や上司が、自分の家に来てくれるかもしれない。

しかし、今の仕事の場合、一応やり取りをしている人はいるものの、彼らは私の住所を知らない。
なので、仮に連絡が途絶えたとしても、仕事をバックレたか、何かあったと心配してくれても住所が分からないのだからどうしようもできないはずだ。

したがって、もし私が孤独死した場合、少なくとも2週間程度は発見されない可能性が高いことになる。
孤独死そのものに関しては、独身者の宿命のようなものだと思うので、それ自体は仕方がないことだと思う。
しかし、死後暫くたっても自分が発見されないことは、世の中にとって
自分が生きていても死んでいても変わらないことを意味しているようで、何とも言えない気分になる。

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