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ワークライフバランスを求めて

僕が1番自分を好きだったのは、いつだろう。
理想的な生活として、田舎暮らしや自給自足がもてはやされている今、そんなこと1ミリも考えてなかったのに、そんな生活になった僕の話をしたいと思う。
東北の片田舎で生まれ、勉強と女性らしさを求めるパチンコ中毒の父親と、酒ばかり飲んで婚期を逃した教員の母と、勉強が取り柄ってことになっているコミュ障の姉と18まで、実家で暮らした。
この時点で僕は、ギリギリのラインだったが毎日怒鳴り散らされ、泣く泣く進学をすることになった。行きたくもない大学と、唯一楽しみの一人暮らし、恋愛の真似事もしてみたし、サークルなんかも入ってみたけど僕の精神状態は悪化するばかりだった。そんなとき、運良く父親が長期入院になりこっそり退学届を出した。逃げ出したかった。それでも、親の呪縛は続き、今度は海外へ行くことを決められる。英語が話せるからとか、高校時代に興味のあった分野だからとか色々あると思うけど、あの頃の僕は嫌だと言えなかった。数ヶ月海外に行って、自分を見つめる時間が増え、更に絶望した。過去を振り返ると辛かった自分ばかり目についた。ホームステイ先の近くでは、働き口も見つからなく帰国した。そこから、友人の家にお邪魔したり転々として北海道で働くことにした。20歳だった。慣れない牧場での仕事は、体力的な辛さを除けば牛たちに励まされる毎日だった。繁忙期の夏が終わり、また地元に戻る。フラフラしていたら、いよいよ精神が限界になり、一人暮らしだけど無職の日々が続いた。また友人のとこをフラフラしていたら、精神科の薬を飲むのを辞めるようになった。その間に、東日本大震災があった。フラフラしながら、派遣会社に応募して静岡の工場で働き始めた。工場の仕事が肌にあって6年近く職場を変えつつ働いた。フラフラしていた時期に行ってた短期の北海道の仕事に再度行きたくなって、静岡を離れた。土地を離れる時はだいたい失恋したときというのは、大学時代から変わらない。もう北海道に住もうかと考えながら、仕事に就いたがなかなか決断できなかった。繁忙期を終えて、どうするか迷っていたら友人から手伝ってほしいと別の地域のバイトを紹介された。二つ返事で向かったのが、今住んでいる場所だ。縁もゆかりも無い、暑いのが苦手な僕が避けたかった場所である。繁忙期が終わった年末、世間はコロナ一色だった。人づてに近場の仕事を見つけてもらい移動、数ヶ月後また移動するか残るか考えながら、物件探しをした。また人づてに紹介されて仕事も見つかりもう4年になる。死にたいと絶望していた僕が、この選択肢しかないと切羽詰まって出した結論が今は、穏やかな日々に繋がっている。逃げ出したいと言ってた僕が、安住することができている。最悪の選択と思われたことも、選択肢がないと不安になったときも数え切れないほどあった。でも今、ここで穏やかに暮らせていることが、すべてだ。

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