小説:坂の途中
初めに宅間さんが立ち止まったのは、改札を抜け、階段を下りてすぐだった。
目を細め、なにかを確認するように、雲の切れ間に覗く太陽を見上げていた。
私の方はというと、太陽を見上げる宅間さんを見上げていた。
「行こうか」とふいに宅間さんが言って、私は「はい」とうなずいた。
歩きだしてからも、私には紡ぐべき言葉がなかった。というか、言葉を探す努力をしていなかった。私たちの周りにあるのは、平凡を極めたような町並みだった。こっそり取り替えても誰も怒らない、大量生産された模型の町といった風情。もちろんそんなことは口には出さないが、仮に出したとしても、先行く宅間さんの足取りに支障はなさそうだった。
宅間さんも黙ったままだった。後ろをついてくる私の存在を忘れているようだった。目的地についたとき、彼は初めて振り返り、私を一目見て眉をひそめ、「なにかご用ですか?」なんて言いだすんじゃなかろうか。そんな光景を、半ば本気で思い浮かべてしまった。
二度目に宅間さんが立ち止まったのは、なんでもない道端だった。
なにをしているのだろう。
怪訝に思って隣に並ぶと、足元に水たまりがあった。雨が電車の窓を叩いていたことを思いだす。宅間さんは無言でそれを見下ろしていた。私もなんとなくそれにならう。とげとげしい陽光のなかに、小さな黒いしみがひとつ。羽虫が一匹、水面に漂っていた。
三十秒ほどすると、宅間さんはまた出し抜けに「行こうか」と言って、今度は私の返事も待たずに歩きだした。私は首をかしげつつ、彼の後を追った。
宅間さんはいわゆる上司である。
四十代、平均より少し身長は低めな感じだけど、まあ一般的なサラリーマンと言っていい。上司のなかでは唯一独身で、事あるごとにそれをからかわれているけれど、本人は笑って受け流している。なにか理由がありそうだとは思っていたが、同僚たちのうわさ話に加わる気はなかった。要するに、私にとって彼はその程度の存在だった。
そんな彼が、数週間前、唐突に電話をしてきた。
「夏休み、ちょっと旅行に付き合ってくれないかな」
行き先は彼の故郷。日数は適当でいいが、二人きりで行きたい、とのこと。
不思議なことに、私はさほど戸惑わなかった。流されるままに承諾し、流されるままに今日という日を迎えた。
彼は結局、なにも説明をしてくれなかった。はっきりとした目的があるのかどうかもわからない。もしかしたら、手頃な女と故郷をぶらぶらしてみたかっただけなのかもしれない。男の人はたまにそういう気分になるのかもしれないし、それならそれで、立派な目的なのかもしれない。
三度目に宅間さんが立ち止まったのは、ある坂道の真ん中だった。
思わずおむすびを転がしたくなるほどの急勾配。その長い坂を越えた先になにがあるのか、私たちの立っている場所からでは見通せなかった。
宅間さんはまた、目を細めて見上げていた。ただ、そのときの彼の表情には、これまでとは違うなにか、影のようなものが垣間見えた。
どこからか蝉の鳴き声が聞こえた。
野球帽の少年が水色の瓶を片手に宅間さんの横を駆け上がっていく。瓶のなかに閉じこめられた透明な液体と泡が少年の腕の上下するたびにぶつかり、混ざり、弾け合う様が、瞬間、スローモーションになって見えた。
少年が坂の上の陽炎を踏み越えて視界から消えるころ、宅間さんは額に手を当てぐらりと崩れかけた。私はとっさに彼の腰のあたりを支えた。
「大丈夫ですか」
「ああ。ごめん。大丈夫だ。それより、少し話をしていいかな」
「話?」
「うん。つまらない昔話なんだけど」
つまらない、という修飾詞は、どう考えても本心からではなさそうだった。目を見ているとわかった。彼の視線は、坂の上でも、まして私の顔でもなく、どこか遠く、それでいてすぐそばに感じられるたぐいの場所へと向けられていた。
「蝉に、サイダー。陳腐だな」
彼はそうつぶやいて、語りはじめた。
小学五年生の夏、ぼくはスイミングスクールに通いはじめた。恥ずかしながら、その年まで25メートルも泳げなかったんだ。小学生のうちはそれでも馬鹿にされるだけで済んだけど、中学に上がると泳げない人には補習があるという話を聞いて、ようやく、というかやむなく奮起した。
スイミングは五つのクラスに分かれていた。ぼくは下から二番目のクラス――息継ぎできない人用のクラスからだった。そのクラスに属するのはほとんどが低学年の子たちで、図体のでかい自分が一人紛れこんでいる様を他の生徒や保護者の人たちに見られるのはとても恥ずかしかった。それでとにかく早く上に行かなきゃ、と思って、がんばった。必死だったよ。週一回の授業だけど、毎回全力を尽くした。その力みっぷりが、傍から見ればまた滑稽だったんだろうけど。ともあれ努力の甲斐あって、ぼくは入学して最初の進級テストで一つ上のクラスに移ることができた。授業の内容はややハードになるけど、これでやっと心の平穏を得られる、と思った。
ところがそれは間違いだった。
新しいクラスになって少しして、曜日を変えたんだ。土曜に通っていたのを、日曜にした。
そこでぼくは茂宮くんをみとめた。
ひと泳ぎした彼がプールから上がろうとした、その刹那。
今でも鮮明に思い出せる。
体重を支える二本の腕が小枝のように突っ張って、濡れそぼった髪の毛から滴るしずくがうなじを這う。擦りガラスに弱められた太陽の光が、どこまでも白くなめらかな背中の上に広がり、小さな運河に戯れる。痛々しく浮き出た肩甲骨が皮膚を突き破り羽になる光景を幻視する。人魚と天使の合いの子。そんなことを本気で思った。
少し息を荒くした彼が生ぬるい水をまき散らしながら目の前を通り過ぎるとき、全身にふるえが走るのがわかった。頭がくらくらして、その日は何度も溺れかけた。
授業が終わり、更衣室で着替えていると、
「ねえ、きみ」
くすぐったくなるような声がした。
声の主を見て驚いた。茂宮くんだった。そこに茂宮くんがいたこと、彼がぼくに話しかけてくれたこと――もちろんそれもあったけど、なにより驚いたのは、彼の声、仕草、かたちづくられた表情と、彼の容姿との間に、大きな落差があったことだった。
ぼくは内心の動揺を抑えきれないまま答えた。
「なに?」
「はじめて見る顔だなあと思って。先週まではいなかったよね?」
「あ、うん」
そこから先は覚えていない。端的に結果を言うと、ぼくたちはすぐに打ち解けた。
最初の印象どおり、話しているときの彼は、泳いでいるときとは別人だった。彼の喋り方には、常に人をからかうような調子があった。人によっては快くないのかもしれないけど、ぼくには魅力的に響いた。それは彼がけっして相手を傷つけないよう心がけていたからかもしれないし、そのからかいが彼自身にも及んでいたからかもしれない。
それでもやっぱり、ぼくは泳いでいるときの彼の方が好きだった。最初の最初にみとめたあの姿こそが、本来の茂宮くんなのだと確信していた。彼はそれほど速く泳ぐわけではなかった。手を抜いていたのだ。当時のぼくには手を抜くという考えがなかった。いや、知ってはいたが、間違ったことだと思っていた。石頭だったんだ。彼にもそう言われた。それであっさり自分を翻した。利口にならなきゃ、と彼は言った。利口というのが正しいのか正しくないのかはわからなかったが、すぐにどうでもよくなった。彼の言うことがすべてだ。それでいいじゃないか、と。
手を抜いたからといって彼の美しさが損なわれることはなかった。むしろそうして故意に余裕を取り入れることで、彼のクロールには怠惰な優雅さが宿っているようだった。先にプールを出て、彼のその、無意識に凝縮された美しさの垂れ流しを観賞する。泳ぎ終わって、へらへら笑いながら歩いてくる彼を迎えて、お喋りをはじめる。授業中はずっとその繰り返しだった。泳ぐ、喋る、泳ぐ、喋る、泳ぐ、二人の彼が目まぐるしく入れ替わる。ぼくはたびたびめまいを感じた。単なる酸素不足だったのかもしれないけれど、ともかくそこには、弄ばれるような、自分を見失うような、おそろしい多幸感があった。一度味わえば二度とそれなしではいられなくなる、禁じられた快楽に身を染めているようだった。
月日は飛ぶように過ぎ去った。習いごとってはじめて数か月もすれば飽きてくるものだと思うけど、スイミングだけは別だった。毎週毎週待ち遠しかった。理由はいわずもがなだ。
あるとき、ぼくは風邪でスイミングを休んだ。休みたくなかったけど、39度では仕方がない。
「宅間くんがきてくれなきゃつまらないよ」
翌週、全力で休んでなんとか復帰したぼくに、茂宮くんはそう言った。
「これからは、勝手に休むのはやめてくれ」
さりげない言葉だったけど、体の芯が熱くなるのを感じた。
それまで、茂宮くんが話しかけてくれたのは、結局憐れみからだったのではないかと思っていた。新しいクラスになじめずにいるぼくを気遣ってくれたのだと。だけどその言葉で、それは違うとわかった。彼にはぼくでなければならなかったのだ。ぼくたちの他にも同年代の子はたくさんいたけど、ぼくたちはぼくたちでしかつるまなかった。ぼくたちの信頼は、依存は、互いに同じ重さだったのだと思えた。
茂宮くんの学校生活をぼくは知らない。ここでの学校とはもちろんスイミングスクールではなく、小学校のことだ。茂宮くんは私立の学校に通っていた。ここいらでは割と有名な小中高一貫校。冬がくると、制服がダサくて嫌だ、この季節になっても短パンなんだぜ、と彼はよく愚痴をこぼしていた。学校に制服があるということ自体、ごく普通の市立小学校に通っていたぼくからすると驚きで、他にどんな違いがあるのだろうと興味津津だったんだけど、茂宮くんが話すのは制服のことばかりで、当時のぼくは、制服、よほど気に食わないんだろうな、かわいそうに、自分は私立じゃなくてよかった、なんて話をそらされているのにも気づかず呑気に考えていた。
二月にはこんな話題が出た。
「宅間くん、チョコいくつもらった?」
「……ふ、ふたつ」
「それって、お母さんとおばあちゃん?」
ぼくは渋々うなずいた。
「おすそわけ、いる?」
「え?」
「下駄箱がいっぱいになるくらいもらったからさ。食べきれずに捨てちゃもったいないだろ」
「ダメだよそんなの」予想外に大きな声が出て、自分でも驚いた。「……くれた子がかわいそうだ」
元から白かった茂宮くんの顔が、さらに白くなった。口をパクパクさせて、「ご、ごめん」と喉に何かつかえているみたいな声で言った。
茂宮くんはしばらくの間謝り続けた。ぼくがいけなかった、ぼくの配慮が足りなかった、軽率だった、悪気はなかったんだけど、でもぼくが悪い、ぼくが悪かったんだ、ごめん、ごめん宅間くん、本当にごめん、だから、だから。
ぼくの赦しを得たとき、彼はまるで、出産が無事成功したことを告げられた父親のような顔をした。それが少し怖かった。その怯えは、気取られずに済んだけれど。
いつの間にか、彼と出会って二度目の夏が訪れていた。ぼくがスイミングをはじめて一年。七月の下旬。
その人の存在に気づいた。白い肌をした、背の高い女の子。女の子にしては、筋肉のついた、引き締まった体をしていて、見るからに泳ぎが得意そうで、実際そうだった。一つ上のクラスで、彼女はイルカというよりはモーターボートみたいに、定められた距離を機械的に往復した。楽しむためではなく、鍛えるために泳いでいる。そんな感じがした。
こういう人は、周りの人間に興味を示さないのが普通だと思う。そう思っていたからこそ、彼女がやたらとぼくの方を見てくることを、意識せざるをえなかった。最初は隣の茂宮くんを見ているんだろうと思ったけど、彼が泳いでいる間も彼女はお構いなしにぼくに視線をぶつけてきたので、どうやら勘違いではなさそうだと考えるに至った。
初めての接触は、向こうからやってきた。
「めずらしいね、あんたが男と仲良くしてるなんて」
授業後、校内のベンチでアイスを食べていたぼくと茂宮くんは、同時に振り向いた。彼女の目が茂宮くんに向けられていることはすぐにわかった。
「悪い?」
目の前で、茂宮くんの喉がごくりと動いた。
「全然。いいことじゃない。そうだ、今度うちにきてもらえば?」
「え……」
「お母さんも喜ぶでしょ」
「でも」
「きみは?」と彼女は――茂宮くんのお姉さんは、ぼくに言った。「遊びにこない? 広いし、高いお菓子もいっぱいあるよ、うち」
ぼくはすっかり舞い上がって、茂宮くんの反応を確かめることもなく返事をしてしまった。今なら多少は想像がつく。彼がそのとき、どんな表情を浮かべていたのか。
翌週、スイミングの後、茂宮くんのうちの車で、彼の家へ向かった。ぼくと茂宮くんが後ろに座るものと思っていて、実際そうしようとしたんだけど、お姉さんが茂宮くんを押しのけてぼくの隣に陣取るものだから、ひどく居心地が悪かった。お姉さんは明るく、優しく話しかけてくれたけれど、運転手のおじさんは黙ってるし、茂宮くんは助手席から恨めしそうにこっちをにらんでいたからね。
茂宮くんのお母さんは、茂宮くんにそっくりだった。生き映し、と言っていいと思う。鶴みたいにすらりとして、始終やわらかな笑みをたたえていて。
「パパは仕事ばかりでめったに帰らなくって、いつも寂しい家だから、宅間くんがきてくれて今日は嬉しいわ」
お母さんはぼくにお菓子をすすめながら、早口で言った。そう言われて気づいたけれど、広く高い茂宮くんの家には、ぼくの家にはないからっぽの静けさがあった。誰もいない学校の体育館を思い出した。
「誠二ちゃんも、そう思うでしょ?」
「ちゃんはやめてよ、母さん」
ぼくは笑いながら二人を見ていた。こちらがからかわれるばかりだったから、慌てふためく茂宮くんの姿は新鮮だった。嫌がって見えるけれど、心の中は違うんだろうなと思っていた。和やかで微笑ましい、親子の光景。
そう思っていた。
「この子ったら照れちゃって」
お母さんの指が、茂宮くんの髪を梳かして、そのまま首筋を撫でた。
「女の子みたいな髪をしてるのよ、誠二ちゃんは」
言葉は半分、ぼくを向いていた。でも彼女の目には、彼しか映っていなかった。
彼女は何度も同じことをした。
そのたび、彼の髪は小川のようにさらさらと小さく音を立てた。
ぼくが知る茂宮くんの髪は、いつも濡れていた。乾いているのを見るのは、そのときが初めてだった。
茂宮くんのこめかみを、一粒の汗が伝った。彼はうつむいて、自分の両膝を固く握りしめていた。震えないように抑えつけているのだと思った。
口を開いて、何か言おうとして、閉じた。
ぼくも茂宮くんも、それを繰り返した。
酸素が足りなかった。息継ぎのやり方を必死に思い出そうとした。体に染みついたはずの一連の動作。ぼくたちが積み上げて、積み上げて、当たり前になっていたはずのもの。
何も通じなかった。
「あのさ」送りの車に乗り込もうとするぼくに、茂宮くんは尋ねた。「気持ち悪かった?」
「え? なにが?」
「母さん」
「……なんで?」
「ベタベタしてさ」
「ああ……ううん、気持ち悪くなんかないよ。きれいなお母さんで、うらやましくなっちゃった」
「そっか」茂宮くんは笑ってみせた。「よかった」
次の約束はしなかった。
夏休みも半分が過ぎた。当たり前だけど、ぼくの泳ぎは上達していた。100メートルくらいなら休まず泳ぐことができるようになっていたし、速さもクラス内では上の方だった。ただしそれは本気を出せば、の話だ。進級テストやタイム計測の際にはあえて手を抜いた。先生方の目を上手に欺く技術を教えてくれたのは、いうまでもなく茂宮くんだ。
「ねえ、なんで本気出さないの」
その日、茂宮くんは休みだった。
「夏風邪だって。ほんと、貧弱なんだから。もやしみたいなやつ。……で?」
お姉さんは人目につかない廊下の隅で、ぼくに詰め寄った。
「なんでなの?」
ぼくは答えなかった。
「ふん」お姉さんは鼻を鳴らし、少し考える素振りを見せた。それからふいに唇を曲げて、ぼくの顎に手を当てた。「きみに見せたいものがあるんだけど」
白い顔がすぐ上で見下ろしていた。顎を持ち上げられて、逃げることはできなかった。なまめかしい白が視界を圧迫した。
醜い、とぼくは思った。茂宮くんにも、お母さんにも似ていなかった。同じなのは肌の色だけだ。
「秘密よ」彼女はささやいた。「あの子には秘密」
この生き物はなんだろう。醜いのに、ひどくいい匂いがする。
気づけばぼくはうなずいていた。
そして、ぼくは坂道を上った。一度通ったはずだけど、車と徒歩じゃ印象がまるで違った。おそろしく急で、長い長い坂道だった。
あの坂の上に住むやつらはな、宇宙人みたいなもんなんだ。近くに住む親戚のおじさんが、いつだったか、そんなことを言ってたのを思い出した。やつらはおれたちとは全然違う生き物なんだ。見下してやがる。いや見下してすらいないのかもしれん。おれの言ってる意味、わかるか?
わかりたくはなかった。
蝉の声がうるさかった。サイダーが燃料だった。あれがなかったら、麦茶を求めてあっさり帰宅していたと思う。だけどあいにく、ぼくの手には百円玉が一枚握られていて、坂の下には駄菓子屋が一軒立っていた。
お姉さんは汗にまみれたぼくの手を取って、意気揚々と歩き出した。何か企んでいるのは目に見えていたけど、体中が火照っていて、逆らう気力は起きなかった。
広い庭の隅っこに追いやられるようにして、小さな林が繁っていた。お姉さんはそこへぼくを引きずり込んだ。頭がぼーっとして、童話の世界に迷い込んだみたいな気がした。地面に群がる細かな花の群れを容赦なく踏んづけて歩いた。
誘われるままに奥へ奥へと進んだ。どこまで行くのだろうと思っていたら、唐突にお姉さんは立ち止まり、茂みに身を隠すようにしてしゃがみこんだ。手招きに従って、彼女の隣に腰を下ろした。しーっ、と唇に手を当ててみせてから、彼女は茂みの向こうを指さした。ゆっくりと、ぼくはそちらへ目を向けた。
小さな池が――いや、大きな水たまりがあった。
そこで、二つの影が絡み合っていた。
同じ色の真っ白な肌に、無数の水滴が浮かんでいて。彼らが動くたび、伝って、落ちて、弾けて。
どちらも人魚のように見えたけど、足はちゃんと生えて、そして交叉していた。
体が溶けていって、目玉だけが残った。そう、ぼくは見るのをやめられなかった。
「あれね、ただの水浴びなんだって」耳に熱い息がかかった。「でも、あたしは入れてくれないの」
その言葉は、壁の向こうの雑音のようなものに過ぎなかった。
だけど、交わり合う彼らの姿を介することで、それは毒を含む棘となりぼくに刺さった。
「ねえ、怒ってる? あたしのこと、卑怯だって思ってる? 違うよ。あいつが言い出したんだよ。きみに見てほしいって。嘘だと思う? 信じる信じないは、自由だよ。でも事実なんだよ」
蝉の声と心臓の鼓動が爆発して暴れ回って、外から内からぼくを叩き壊そうとしていた。
馬鹿みたいに血が騒いでいた。頭が沸騰して割れそうだった。体の底から、抑えきれず昂ってくるものがあった。
「おいで」と彼女が言った。
こんなの偽物だ、と思った。
それでもぼくは、逆らえなかった。
無理とは知っていても、あんな風に壊されてみたかったんだ。
それから、抜群に泳ぐのが速くなった。置いていかないでくれよ? と茂宮くんが繰り返すたび、大丈夫だよ、とぼくは答えた。彼は心の底から安堵しているみたいだった。
そうして、夏休みの終わりの進級テストの日、全力で泳いだ。上のクラスへ行くことになった。
「正当にがんばって、正当に評価されただけでしょ。きみは正しいんだよ」
彼女はそう言って、ぼくの頬を撫でた。
「おかしいのはあいつの方じゃん」
茂宮くんはすぐに気づいたようだったけれど、ただぼくと距離を置くだけで、すれ違えば笑顔でやあ、なんて言ってきた。いっそのこと、なじってくれればよかったのに。
ひとりでプールサイドを歩く彼の背中を見ながら、彼女はぼくといるどんなときよりも満足げな笑みを浮かべていた。そこでようやく、自分が取り返しのつかないことをしてしまったのだと気づいた。
夏の終わりとともに、ぼくはスイミングをやめた。彼にも彼女にも、何も告げなかった。
半端な良心と半端な欲望だけが残され、一番大切なものを失った。人に心を預けてしまうことをやめた。それはきっと利口なことだった。完全な依存は、いつか破滅をもたらすだろう。ぼくは利口な選択をしたんだ。だけど、たとえ利口でも、正しいことだったとはどうしても思えない。ぼくにとって、利口と理想とは、けっして相容れないものになってしまった。
あれ以来、定期的にある夢を見るようになった。夏がくるたび繰り返す。
目の前には、あの25メートルプールがある。水底、中央に、ゆらゆら白いものが漂っている。
茂宮くんの死体が。
無数のチューブに繋がれて。
ぼくを告発する。
「きみはそのままで生きていける人間だったんだ。誰でもよかったんだろう。声をかけてくれるなら誰でも。おぞましい。虫のようなやつだ。耳の穴から入ってきて。ぼくの心を餌にして。食い潰して。満足したら、傷つく前に出て行って。どうしてだ。どうしてなんだ。きみはぼくを信じてくれたんじゃなかったのか。ぜんぶぼくの勘違いだったのか。だとしたらぼくは何を信じればいい。何に縋ればいい。もうどうしようもない。どうしようもなくなってしまった。なんてことをしてくれたんだ。きみがぼくを殺したんだ。壊し尽くしたんだ」
ぼくは激しい痛みに泣きじゃくりながら――途方もない喜びを感じている。
きみの言う通りだ、とぼくは思う。
そうだ、ぼくは虫だったんだ。
そして、私たちは立っている。坂の途中に。
ずっと立ちっぱなしで足が痛い。でもその疲労が、蝉の鳴き声と重なって頭をぼーっとさせて、上手いこと私を宅間さんの話に没入させていた。体がすうっと見えなくなって、私が私でなくなって、あとはただこの坂道だけが灼熱に揺らいでいるような浮遊感。戻ってくるのには時間がかかる。ゆっくりと地に足をつけて、適切な距離感を取り戻していく。
「彼は」と私は尋ねる。「彼はその後、どうなったんですか?」
宅間さんは黙って首を振る。顔を上げようとはしない。かわりに私が上を見る。
今もまだ、彼はいるのだろうか。この坂の向こうに。広くて高いお屋敷に。庭の隅の、林の奥に。
だけど、今更宅間さんがそこへ行ってどうなるというのだろう。古傷をえぐるだけじゃないのか。乗り越えられたとしても、なにが戻ってくるわけでもない。自分を変えられるわけでも。平静が訪れるわけでも。
甘美な蜜だけを吸いとって、飛び去って。でも、はじめから萎れる運命にあった花だったのだ。宅間さんはそれを少し早めただけで、本当の意味での責任はない。私ならそこで、妥協する。だってそれは、意味のない苦悩。どうしようもないこと。早々に自分から切り離して、そして――
ああ、そうか。私は気づく。宅間さんはもっと昔から、気の遠くなるほど長いあいだ、ここに立っていたんだ。子供のまま。理想を捨てきれず。そして、今日、やっと――
野球帽の少年がこぼしていったサイダーのしずくのなかで、羽虫が死んでいる。幸せそうに。
ふいに宅間さんが後ろを向く。足を踏み出そうとする。
私は私の役割が終わったことを理解する。
視界の端でなにかが動く。
死んだかに見えた羽虫が足掻いている。おとなしく死んでおけば、苦しまずに済むものを。利口じゃない。全然スマートじゃない。足掻くくらいならはじめから飛びこまなければよかったのに。
でも飛びこまずにはいられないし、足掻かずにはいられないのだ。結局のところ。
私は決意する。私に新しく役割を与えよう。
坂道のてっぺんを見据えて、今にも下りはじめんとする彼の手を取る。
引き留める。
私たちは立ち止まる。坂の途中。
どこからか蝉の鳴き声が聞こえる。