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わたしと魔王

 魔王とは小学校で一緒だった。
 しゃがんで飼育小屋のうさぎに餌をやる魔王の顔には笑顔が張りついていた。わたしが後ろから声をかけると立ち上がって振り向いた。笑顔は完全に剥がれていた。
「なんで入ってやらんの」わたしは飼育小屋を指差した。「やりにくいやろ」
 魔王は金網のあいだから野菜を差し込んで食べさせていた。
「怖いん? 魔王のくせに」わたしは笑った。
「おれは昔、うさぎの足をつかんで逆さにして、ナイフで腹をかっさばいた。腸がぼたぼた落ちた。ハエがたかった。酷かった。それを見てじいが拍手した」
「じいっち誰」
「お前も見たことあるだろ。この前うちきたときにお菓子出してくれてた、ハゲの」
「あー、なんかおった気がする」
「あいつは、おれの教育係なんだよ。で、ウサギ殺させた」
「大変なんやね。うさぎに復讐されるのが怖いん?」
「かもな」
 そんなことを言ってたけど、ある日魔王は飼育小屋に入った。夜だった。赤い目の白兎が一匹、うずくまっていた。魔王は入り口に立って、距離を取ったままうさぎをみながらタバコをふかした。
 夜空は青く見えた。満月が雲で途切れていた。
 わたしは家でゲームをしていた。弟もいた。
 部屋の窓を茶色い怪物がノックした。
 外は雨が降り出していた。
 雨の夜の闇を、わたしと弟を背中にのせた怪物は四本足で走った。
 怪物の角は二本あって、一本折れていたから一本しかなかった。その一本を右手でつかんで、左手でランプを掲げているのがわたしの役目だった。弟は後ろで私の腰にしがみついていた。
 ランプは古い茶色のやつで、物置で埃をかぶっていたのを直してもらった。
 直してくれたのはヨクニさんだった。ヨクニさんは小屋に一人で住んでいる若いお兄さんで、青い作業服に、帽子もかぶっていた。とても肌が白くて、小屋には暖炉があり、ヨクニさんは指の出た手袋の手を暖めていた。
 作業服は長袖で、夏はとても暑そうだった。ヨクニさんの汗は透明できれいに見えた。それから、顎にかけての輪郭もきれいだった。長いタバコをくわえていた。
 怪物を庭に停めて、わたしと弟は小屋へ入った。
 小屋のなかは明るくて、ベッドのなかで子供が苦しんでいた。
 音楽の教科書にのっている魔王が自分をさらいにくると言って熱にうなされていた。
(呼ばれとうよ、魔王)とわたしは胸のなかで言った。
 魔王は腕を組んでうさぎとにらめっこしていた。もうタバコは吸ってなかった。
 わたしは祈るのがうまかった。十字を切って手を組み、祈りをささげた。目を閉じて額を手につけていたけど、家の天井に神様の黄色い光が光るのが見えた。成功だと思った。弟も隣に並んで、わたしの後から見よう見まねで祈りを捧げていた。正直弟はいてもいなくてもよかったけど、後継者を育成しておかなければならなかった。というのもわたしは、そう遠くないうちに紫のミニカーみたいな車にはねられて死ぬことになっていたからだ。
 もちろんそのときわたしは天国へ行く。道路で大の字になって口から血をこぼしているわたしを、過剰なまでの日光が照らす。強すぎる光でわたしの体の輪郭線は見えなくなっている。弟がやってきてそれを目撃するけど、眩しくて目をこすっていて、まだわたしだとは気づいてない。気づいたときにはわたしは事切れている。弟の片手に握られた黄色い風車がくるくると回った。
 魔王は天国にはこられない。入ろうと思えば少しのあいだは入れるだろうけど、門番と一悶着起こしてからでないと無理だろう。
 地獄の大魔王はいつでも両手を広げて魔王を受け入れようとしている。何が基準かは知らないけど、魔王は高く評価されているみたいだ。
 祈りの効果が出て、子供の熱病はしずまっていた。まだ汗びっしょりで眉間には皺が寄っているけど、呼吸はそれなりに落ち着いている。
 保護者が礼を言って金貨を差し出した。
「日本じゃ金貨は使えませんよ」とわたしは言った。「せめて五百円玉やったらいいんですけど」
 保護者は掌のお椀のなかの金貨を見下ろした。
 翌日、青空の下、庭に深い穴を掘ってその金貨を埋めた。そして合掌して深々と頭を下げた。花が咲くことを願っていた。
 魔王が胸に激痛を覚え教室でのたうちまわっていた。掃除中に、迷惑だった。
 やがて花が咲き、笑顔とともにうちへ届けられた。
 うちに飾ってある花を見て魔王が言った。
「おれの養分を吸った花か」苦そうな顔で睨んでいた。魔王の養分は赤かった。
「あんたを吸って育ったわりにはきれいやね」
 花はピンクで、緑色の虫がよじのぼっていた。
「うさぎと和解できたん?」
「できるわけないだろ」
「魔王の権力でさせれば」
「それじゃ意味がない」親指の爪をかじった。
「ゆるしてもらいたいなら土下座すれば」
「した」
「え」
 土下座した魔王の頭に茶色い土と落ち葉がのっていた。ウサギは一羽しかいなくて、かろうじて微笑んでいると思えなくもない顔で魔王を見ていた。
「それで特に何もなかったんやったらゆるしてもらったっち勝手に思っとけばいいやん」
「思ってるだけじゃ」
「事実そういうことにしてしまうんよ」
 新聞部の人に頼んで号外を出してもらった。
 魔王、ウサギと和解。
 男子は誰もそんなことに興味がなかったから渡されてもすぐ捨てて、風に飛ばされていった。飛ばされた先で、近隣の老人や主婦にもそのことは広まった。
 女子は人だかりをつくって魔王を祝っていた。「うちのウサギあげるよ」とまで言う子もいた。魔王は少々迷惑そうな、戸惑っているような面で固まっていて、囲まれてるから出口はなかった。出口をつくろうとしても塞がれるだろう。そういう一つの生命体に女子たちはなっていた。それでも、無理やり叫んだり突き飛ばしたりすれば道は拓かれるだろうに、魔王はそれをしなかった。魔王のくせに、人間に気を使っているのかよ、嫌われたくないのかよ。そこは廊下で、わたしはガヤガヤやっている後ろから離れて見ていた。
 にこにこ笑っている女子たちのなかには、魔王の表情が否定的なことに気づいてる人も多そうだった。優しくおとなしい子は、「もうやめようよ」と言いたいけど当たり前ながら言い出せなかった。
「女子だって馬鹿よね」と友達がやってきて言った。
「馬鹿をわかってやっとんやないん?」
「そういう言い訳を用意して結局はたから見れば同じことやっとんやけ馬鹿よ」
「おー」わたしは小拍手をした。
「樫原」と友達の横顔がわたしを呼んだ。「もし、あの子らの誰かが魔王と付き合ったらどうする?」
「祝福?」
「ほんと?」
「うん、藁人形で」
「あんたさ」と言って友達がわたしを見ると、わたしの顔は真顔をしていた。「素で言っとんよね」
 真顔は歪んだ笑みに変わった。窓からの光がわたしの顔の肌を実際より白く見せていた。

 ヨクニさんは大きな藁人形をつくってくれた。青い夜だった。試しに大きな釘も打って、効果のあることを確かめた。屋敷で、バスローブ一枚で揺り椅子におさまっていた資産家が発作を起こし、口からワインを垂らしながら絶命した。享年五十二歳だった。
 その人の壮大な葬式に出席し、やたら大きな白い玉が連なった数珠で合掌をささげていたわたしは、隣に立っているヨクニさんに目をつむったまま「ありがとう」と言った。「いつか体で払うね」
 霞のように線香の煙が漂いまくっていた。
「冗談でもそういうこと言っちゃダメだよ。俺つかまるから」
「大人になってからやったらいいんやろ?」
「あまりよくはない」
「そうかな。ヨクニさんにとってはいいことやない?」
「君にとってよくない」
「それはわたしが決めることやろ」
「いいと思うの?」
「うん別に」
「実際にしてみたこともないうちから何も言えないよ」
 じゃあ早くしてみようと思った。
 まずは夜中にテレビでアダルトを観ることから始めた。片膝を立てて、缶ジュースを飲みながら観た。音量はとても抑えてあった。するとそういう行為もなんだか控えめで普通のことのように思えてきて、つけっぱなしで寝てしまった。起きると口からよだれがこぼれていた。
「さて」と携帯で相手を探した。あ、でも、見知らぬおっさんとかは危ないか。安全で、どうせなら綺麗な人の方がいい。良い思い出になってほしい。
 眩(めくる)くんがいいかなと思った。でも、眩くんは嫌だろうな、セックス。それとも、案外ハマってしまうのかな。眩くんをそういう風にしてしまうのは嫌だな。
 眩くんのお母さんは、コンビニとかで、卑猥な雑誌が目に入らないように眩くんを誘導したり、目を覆ったりしているのかもしれない。
 それとも、すでにずっと前から、生まれてすぐのときくらいから、他の人に汚されないように、お母さん自らしてしまっているのかもしれない。
 だからそれは当たり前のことで、いくらしようが眩くんはあの綺麗さを失わないのかもしれない。
 そう考えるとなんだか勇気が出てきた。
 学校でしよう。それ以外に場所がない。
 カレンダーに「X」と書き込んだ。セックスの「X」だ、と思ってくだらなさに一人で笑った。紅潮していた。
 眩くんの白い顔も、体育のときとか、白いベッドのお母さんの上とかでは紅潮している。いまのわたしみたいに、赤い斑点を頬に撒き散らしている。
 お母さんは眩くんに、「これは体育よ」って教えているのかもしれない。それもおかしくて笑った。
 うちのお母さんは魔王に同じことをしても、そんな嘘はついてあげないんだろう。
 事の後、お母さんは体を起こしてタバコを吸っている。魔王はベッドの外を向いて寝転び、どこでもないところを見ている。
「吸ってみる?」とお母さんがタバコを差し出し、魔王は少しそれを見た後で、受け取る。最初は咳き込むけど、だんだんと、煙の使い方がわかってくる。事後のざらついた体の内側の、砂漠のような空洞にそれは染みこんで、ヒリヒリさせる。そのヒリヒリが心地よい。
 ぼさぼさの頭のまま暗い階段から魔王が下りてくる。わたしはすでに食卓について、水を召し上がっている。魔王が少し立ち止まって食卓を眺めた後、わたしの向かいに座り、そこに置いてある透明なコップの水をまた少し眺めてから、飲む。
「はだけてるよ」とわたしは魔王の鎖骨のくぼみを指さして教える。食卓を上から照らす明かりが、魔王の肌を黄色く見せていた。わたしはそのくぼみに、薔薇の花を挿したいと思った。
 一輪の薔薇をくわえて、唇から血を流しながら這って進み、玉座に座った魔王の胸の上へ、卒業式のワッペンのかわりにそれを挿す。挿されると魔王も血を流すから、それを舐めとるまでがわたしの仕事だ。
 将来そんなふうになれないかなと、空港で手帳に構想を書いた。って、わたしはそのときスーツを着ていて、もう「将来」を持たないと思われる大人だった。だったらわたしがそのとき書き留めたものは何なのか。
「過去のわたしが思いつかなかった将来」を、未来のわたしが書き足している。
ということは、「選択肢」?
 魔王を殺しますか?
 はい
 いいえ
 違うよ、魔王は「殺す」じゃなく「倒す」ものだ。
 だから魔王が殺されたことは間違いだったんだ。

 ある夜、鬱蒼と茂る緑に抱かれて大雨に打たれていた魔王の死体を、懐中電灯が照らして見つけた。懐中電灯の主は黄色いレインコートを着ていて、それがわたしだったのかどうかはまだわからない。ただ、魔王の体を伝い落ちる雨が、幾筋も分かれて流れをつくり、小さな運河になっていた。
「魔王くんは優しい子でした」誰かがごく小さな原稿を手に持って読み上げる。
 魔王はなんと、灰色の遺影のなかでピースをしていた。笑顔と言えるのか言えないのかも微妙な顔で。
 誰だよこんな写真撮ったの。どうやったの? 脅したの? 写真館で、後ろからナイフでも突き付けて?
そんなことで笑わせられる魔王じゃない。
人質でも取ったのかな? 次はあいつを殺すぞとか言って。だから、この写真を撮らせたのも犯人なんだろう。
その遺影にどういう背景があろうと、結果として出来上がったそれを見てとにかく、わたしは腹を抱えて笑い出したかった。実際そうして、外へ叩き出されて、魔王の死体みたいに大雨に打たれながら、それでも亀みたいにうずくまって地面をこぶしで叩いて笑うのをやめなかった。
 雨の降る外は、ガラス瓶みたいに透明だった。背中に降り注ぐ雨が、いつまでもやまないガラスの破片だった。それは何かが割れてできたのではなく、初めから破片として生まれ来るものだった。
 わたしたちは破片。
(どうだ、馬鹿者ども)とわたしは思った。(この、雨に打たれる姿によって、お前たちの誰よりも、わたしは魔王と繋がっている)
 でもそれは、魔王の死体でしかなかった。
 死体は生前の本人とは別のものなんだと、生の死体をよく知る人が言っていた。
 じゃあどうすればいいんだよ。
 わたしはもう笑うのをやめて、ただ転がっていた。雨の上に、大きな白い光があった。それは半球で、ウニのような棘が長さを変えながら表面を動いていた。光がわたしの半分を照らして、かわりにもう半分を影にしていた。

 大雨の日に、透明のレインコートを着て、水たまりをつくりながら写真館の暗い蓬(よもぎ)色のロビーへ入ってきたわたしが、大きな青いビニール傘を錆びきった傘立てに刺した。傘立ては数十本の傘を受け入れることができたけど、他には一本も刺さってなくて、わたしの傘は金魚鉢に似ていた。
 受付のタキシードを着た老人に頼むと、あっさり客の名簿を見せてくれた。わたしが名簿を見ているあいだ、老人の皺の刻まれた硬い手がわたしの髪を撫でていた。
 名簿はびっしりと顔写真で埋め尽くされていて、魔王もそのなかにいた。
「この人」とわたしは指さした。「誰か付添人がいませんでした」
「いい笑顔だったよ」
「笑って、て言ってませんでした? 付添人が」
「んー……」
「脅されてたんですよ。殺されたんですよ」
「そうか、遺影を撮りにきていたのか」老人は掌を合わせ頭を傾けた。
「そんなのいいから、教えてください。付添人について」
「それを知って何になる?」
「わかりませんけど、知らないと何も始まらないんです」
「始まる必要はないんじゃないかね。私はそう思う」
「わたしはそう思いません」
「そうかい、じゃあ、我々は交わらないね」
「……交われば教えてくれるんですか?」
 わたしと老人はしばし見つめ合った。
 老人がわたしの手を取り、受付の横の真っ暗闇へ、二人の姿は吸い込まれた。
 そのわたしがどうなったのか、わたしは知らない。
 次に目を覚ましたのは、森の小川の透明なせせらぎの中だった。わたしは棺のなかの死体と同じ格好で寝ていた。
 死んでいたのかもしれない。
 わたしが蘇れるのに、なんで魔王が蘇れないんだろう。
 地獄へスカウトされてしまったんだろうか。
 地獄の大魔王から魔王を取り返したらいいのか。
 せせらぎに座ったまま、わたしはシャボン玉を吹いた。ぽかんとした様子だった。リスが硬い木の実をかじりながら、陰から見ていた。

 イエスキリストの復活について。
 わたしはキリストと違い誰も知らない場所で誰にも望まれてない死と復活を行った。死と復活とのあいだに何があったのかはわからない。いまはただ闇が横たわっている。
 これがキリストなら自分が死んでいるあいだの記録も弟子がつけてくれていた。
 わたしに信者はいない。大体の場合、誰にもいない。
 記録は残されず、そのあいだ世界は途絶えている。
 足跡を探しに行こうと写真館へ戻ると老人はいなくなっていた。
(これからここはわたしのものになるのだ)と思っていた矢先、後ろでドアが開いて険しい顔の女の子が入ってきた。青で縁取られた白い傘を勢い良く傘立てに突っ込んだ。左右に目を動かしてからわたしを見て言った。
「じいちゃんは?」
「さあ。わたしもいまきたところで」
「客?」
「えーと」
「いいよ私が受ける」
 そういう流れになってしまったので、わたしは乗った。
 説明をする声が水の向こうみたいにぼやけて聞こえるなか、その子の鼻先をぼんやり見ながら、(おじいちゃんはもう帰ってこないと思う)と胸の内で言った。
「えっなんか言った?」その子が顔を上げた。
「え?なんか言ったわたし?」
「え??? まあいいや」
 速い子だった。
 撮影もてきぱき進めた。「もっと笑って」とか「背筋伸ばして」「顎引いて」とか、そんなことは何も言われずばきばきフラッシュだけ盛大に焚かれた。いっそ暴力的だった。実体を持たないけど馬鹿でかい光の怪物が、何の防備もしていないわたしへ次々ぶつかってきた。意識は圧倒されているのに体に傷がついたりはしないから奇妙で、だんだん麻痺して浮遊して、かろうじて残されていたわずかな現実感も失われていった。
「どうかな」と出来た写真を突き出してきた。写真のわたしは蒼白なこわばった顔で、輪郭は死に際の病人が描いたように震えていた。どうもこうもない写真だけど、何か印象的ではあったのでお札を出して買った。お見送りのときには笑顔を見せてくれた。体の前で両手を重ね、かわいいおじぎをしてくれた。外に出るととても晴れていて、青空で、振り返れば写真館の中は暗く見えた。隣にファミレスが立っていた。外へ出て初めてそのファミレスの存在を思い出した。


 魔王は窓の桟に座り、曇り空へシャボン玉を吹き上げていた。醜く肥えた天使たちが、虹の膜が張った青空の下、のぼってきたシャボン玉と戯れた。魔王はしかめ面をした。何かの事故で天使が落ちてきたら、地上のわたしたちはあっけなく潰されて死ぬだろう。

 暗い広い屋敷の玉座に魔王が座っていると、じいがひざまずいて、足にくちづけをした。
 魔王はそれをじっと見下ろしていた。魔王は裸足で、いまやじいはその指のあいだを舐めていた。人並みにしょっぱかった。

 魔王の屋敷で首吊り人が出た。まだ足をじたばたさせている灰色の体へ向かって、魔王はタバコの煙を吹き上げた。
 じたばたしているまま、灰色の地面に埋められた。うつ伏せに置いたので、泳ぐ練習をしているみたいだった。地面はぬかるんでいて、まだ柔らかいセメントだった。
 いまも地中で泳ぎ続けている。わたしたちはその上でボール遊びをした。地面はしっかり固まっているけど、耳をすませば小さいモーター音みたいのが聞こえる。

 魔王はうちへきて弟とゲームをしていた。あぐらをかいた魔王の背中は曲がっていて、頭から画面の中へ入り込もうとしているみたいだった。
 わたしは盆に麦茶を入れて運んできてやった。白と青のチェックのエプロンをしていた。客にお茶を出さなければ笑顔で殴られるのが我が家だった。そのときも座ってコーヒーを飲んでいるお母さんが後ろからわたしを監視していた。
 どうせすぐ死ぬわたしをちゃんとしつけして育てることに何の意味があるのかわからなかった。
「でもぼくもいつかは死ぬやろ」と弟が言った。「長いか短いかの違いやん」
 弟がそんな風な見方をするのは魔王の影響なのかなと思った。
 魔王は長いこと生きることができた。場合によってはずっとそのままの子供の姿で。
 魔王ほどじゃなくてもわたしよりは長生きするはずなのに、弟はあまりちゃんと育ててもらってなかった。
 ポテチの袋に手を突っ込んで鼻くそをほじっていた。
 こういうのがダメだと気づくまではモテないだろうなと、見ていて思ったけど何も言わなかった。
 でも死ぬまでには言ってやっといた方がいいんだろうな。
 やることリストに加えた。
 あ、にんじんを買いにいかないと。
 自転車で薄い夕日のかかった坂を滑り降りていった。
 へろへろのランニングシャツを着たガリガリの男子が手を振っていた。
 この子はサバエ(五月蝿)といって、シャボン玉を吹くのが上手く魔王も教わっていた。二人はよく草むらで練習をしていた。レッスンのお代として魔王は青い炎のような模様が入った赤い球体を出した。これが魔王の体内で精製されたものだとサバエは知っていたんだろうか、夜に窓際でこの球をねっとりと舐めていた。長くて厚みのある、ティラノサウルスの舌だった。
 最近やたら近代化が進んだ、黒い宇宙物質のようなものでつくられた明るいスーパーでの食材選びに、サバエは付き添ってくれた。付き添っただけで何もしなかった。
「あら、小っちゃい夫婦やね」とおばさんが言った。
 わたしたちは白けた顔で互いを見た。
 駐車場の石ころを蹴飛ばしながら、サバエは歩いた。石はよく飛んだ。わたしは自転車のかごに食材を入れて押していた。
 道に出ると道路は左右どこまでも伸びていた。田んぼだった。サバエは道の先をじっと見て吸い込まれそうになっていた。そこから子供が太鼓を叩きながら歩いてきていた。
 わたしたちは音楽室に忍び込んで勝手にセッションをした。といっても楽器は誰もできなかったから適当に叩いて音が出るものばかりだった。立って太鼓を叩いているその子のリズムだけちゃんとしていて、わたしとサバエは床に座り込んでいた。サバエはとても眠そうで、頭を落としかねないうつむき方で、自分の影の中であくびをしていた。それでも手は動いていた。
サバエは灰色の鳥打ち帽をかぶっていることがあった。そんなおしゃれなものをかぶっている男子は他にいなかったから、ときどき用具倉庫に吊るされて白い体を鞭打たれていた。打たれるたびに赤い液が飛び散った。これは厳密には血じゃなくて、魔王の養分と同じものだった。血よりはジャムに似ていた。
「サバエ、もう人間やないんやない?」と、「お仕置き」が終わった後でまだ息の荒いサバエに言った。奴隷や拷問されるのがサバエには似合っていた。
「え、そうなん。でも、望むところやわ。おれ、人間から外れときたい」
「魔王のことも嫌い?」
「いや? ていうか、これといって嫌いなやつおらんよ。大体みんな嫌いやけ、人間ってだけで」
「やけ魔王もわたしも嫌いなんやろ?」
「魔王は人間やないやん」
「わたしは?」
「樫原は――」と言って首をかしげた。「何やろな?」
「何なん。人間やろ」
「でも将来魔王の嫁になるんやないん」
「は? なんで?」
「ちがうんか」
「その前に死ぬし」
「いや、樫原は、高校生になるよ。白―い制服着て、夕日の屋上におる。ボロい椅子自分でもってって座って、パピコを吸っとる。けっこうほっそりしてスタイルいい。モテるやろ。彼氏だってすぐできるけど、あんま本気になれんですぐ別れる。面倒くさくなってきたらすぐ振る。白い雌狐っち呼ばれる。
 おれそういうの見えるんよ」
「わたしも見えるけど、そんなん見たことないよ」
「自分のことなら自分で全部見えるってわけでもないやろ。背中は見えんやん」
「でもわたし天国行くし」
「おまえには翼が生えてないかもしれん。やけ昇る途中で魔王に足首掴まれたら落ちるやろ。地獄で結婚式やん」
「やめてよ」
「おれに言わんでよ」
「……サバエは、女になるよ。
 魚の煮付けみたいに、ぱっくりバツじるしの傷がついとる。胸らへんに。恋人はボクサー。激しいセックスの、サバエはいつも受ける側。めちゃくちゃに襲いかかられながら、笑っとう。やけたぶん、サバエの方が勝ちなんやね。『何笑ってんだ』って、顔殴られたらさすがに涙出るけど、それは体の反射で、真っ赤に膨れ上がった顔でも心は笑い続けとう。カタカタカタカタ壊れた人形」
「おれはフルートの演奏者になるんよ。お前が見とうのは違う」
「なればいいやん、演奏者。でも、ねずみ色のワイシャツのボタン外したら、胸にさっきの傷がある」
「あーっ」サバエは頭を抱えてしゃがみこんだ。「そうとしか思えんくなってきた」
「わたしの勝ち」いつでもそうだった。
 未来が先にあるのか、いまここで創られたものが後で未来になるのか。
 べつにどっちでもいい。

 お母さんは魔王を誘っていた。
 食卓に魔王を座らせて、その頬を柔らかな花のように掌で包んだ。
 魔王は目の前にあるお母さんの顔から目を背けていた。
 無抵抗で手を取られ階段をのぼっていった。
 ベッドのうえでお母さんに跨がられた魔王は腕をだらっと投げ出して、手首から先がベッドの外へはみ出ていた。お母さんの動きに合わせてそれは揺れた。ドアの隙間からわたしが覗いていた。
 お母さんにもらったお金で、魔王はわたしに駄菓子とかを買ってくれた。魔王を通じてお小遣いをもらっているようなもので、魔王はそういう役割を果たす自動販売機みたいなものだと言えた。
 魔王には力があったけど、それは使わず、人間の世界で、人間のやり方でやることにこだわっていた。
 男の子の姿をした魔王が金を稼ぎたければ、そういう方法が一番手っ取り早かったのかもしれない。知らない。

 夏休み、お母さんは魔王を緑地の別荘へ連れて行った。
 二人が手をつないで、玄関から光溢れる外へ出て行くのを、わたしと弟が並んで見送っていた。
 別荘は白くて四角くて広くて、二人で独占するようなものじゃなかった。
 お母さんは魔王を、水色のプールに浮かべた。よく晴れていたけど、やがてくもりになって、茶色い落ち葉が風に吹かれて飛んできた。水面に乗って、漂っていた。魔王もずっと同じ姿勢で浮かんでいた。雲の薄いところを、雷が明るく白く透かしているのを見上げていた。寒かった。内側を這いまわるような寒さだった。
 魔王はびしょ濡れのまま、電気のついていない別荘へ入ってきた。お母さんはソファに座ってコーヒーを飲んでいた。魔王に気づくと、立ち上がって抱いた。魔王は反応しなかった。お母さんの体の向こうの床を見ていた。お母さんは魔王の濡れたつむじにくちづけをした。頭から顔へ、顔から首へ、下がっていきながらいろいろなところにキスをした。魔王は相変わらず呆然と立ち尽くして床を見ていた。薔薇の花が一輪落ちていた。
 わたしと弟はそんな良いところへ連れて行ってもらったことはなかった。でも、そんなところへ行ったらわたしも弟もはしゃいでしまって、お母さんの思う雰囲気を壊してしまうだろう。お母さんにとってそこは、何かを避けるための場所だった。
 連れて行ってもらえたのは、せいぜい廃墟のような遊園地だけだ。錆だらけのメリーゴーランドは風でくるくる回っていた。お母さんはわたしと弟の手を握り、変な笑いを浮かべていた。
「遊んできなさい」と言ってわたしたちを放すと、自分はベンチに座って化粧を始めた。初めての遊園地で案内人もなく、どうやって遊べばと思ったけど、遊ばなければ叱られるのは目に見えていた。わたしたちはだんだんコツをつかんだ。ちょっと豪華な公園くらいに思えばいいのだ。そう、子供に遊べない場所なんてない。戦場でだってわたしたちは遊べた。
 その年の夏も仕方なくわたしたちは遊園地へ行った。もうお母さんに連れて行かれなくても、自分たちで来れるようになっていた。
 メリーゴーランドの足元に花が咲いていた。黄色いような白いような花、
「ハルシオン、」としゃがみこんで花の首に手をかけた弟が言った。「食べたら幻覚が見える花」
「あんたなんでそんなこと知っとん」
 と言ったときにはもう弟は花の頭をもいで食べていた。何も言わずぱったり後ろに倒れた。眠っているのか死んでいるのかわからない。わたしは確かめず、そばにしゃがんで弟の顔を眺めていた。
 夢を見てるんだろうか。
 幻覚じゃなくてさ、ただの夢なんじゃない?

 学校の緑の渡り廊下を、弟はふらふら歩いていた。白昼夢のなかにいるみたいだ。授業中だった、弟はたぶん授業に戻ろうとしていたんだろう、でも、渡り廊下の出口に白い服の女子が立って、塞いでいた。その子を決してなぎ倒して行けないことが、弟にはわかっていた。だから仕方なく、その場にあぐらをかいて、時が過ぎるのを待った。
 時は過ぎなかった。
 永久に静止していた。
 テレビでやっていた学校の怪談を思い出した。
 時間の止まった校舎に閉じ込められて永久に出られなくなった話。
 閉じ込められた子がどうなったのかまでは語られなかったけど、きっと年をとることも餓死することもないんだろう。
 天国にも地獄にも、弟は行けなかった。
 きっと外側からなら、破壊することができる。
 弟をその学校から救い出すことはできなくても、せめて楽にしてやることは。
「べつに、永遠が嫌って決まったわけでもないやろ」サバエが言った。「止まったままの、誰もおらん曇りの世界を、ずーっと一人で旅していくのも楽しいんやない。電車とか船とかは、人がおらんまま動いとんやろ。南の島まで行ったら晴れとうやろうし、世界がおってくれたら、人間なんかおらんでも怖くないんやないか」
(うちの弟はたしかにそうかも)と思った。「なんか、無常観あるんよね、こいつ」まだ眠っている弟を見下ろして、わたしが言った。
「魔王もあるやん」
「まあね。わたしより、魔王の真似しよんかなこいつ。でも無常観であっさり死なれたら困る。わたし亡き後の跡継ぎやけ」
「別にいいんやないん。お前が引き継ごうとしてるもん、大したもんでもないやろ」
「それはあんたが言うことやないけど、そうかもね。じゃあどうしたらいいん。することないやんわたし。何を指針にすれば」
「やけ、魔王の嫁になるんやろ?」
「それ、どうなんかな。楽しい?」
「幸せなんやない?」
「幸せって楽しい?」
「知らん。おれに幸せのこと訊くな」
「そうやね。誰に訊いたらいいんやか」
「普通にクラスで訊いてみたら」
「そうやね」
 ちなみに弟は三時間くらいしてから普通に起き上がった。首を振って、頭についていた木の葉を落とした。
「帰ろう」と誰かが言って、わたしたちはボロボロの、運転手以外誰もいない傾いたバスに、三人ばらばらに座った。わたしは一番後ろの席の真ん中で膝に手を乗せて前方を見つめ、サバエと弟はそれぞれ右左に分かれてサバエは窓際に頬杖を突き、弟はわたしと同じ姿勢を取りながらも窓の外を見ていた。かくしてわたしたちはバスの右側の外を流れていく景色と左側の外を流れていく景色、それからガタガタ揺れているバス車内という三つの光景を三人で各々カバーしていた。べつにそんなことに意味はなかった。後で共有を行うわけでもない。でも毎秒移り変わっていく世界のことを考えればみんなが同じところを見るよりなるべく取りこぼしないよういろいろなところを見ている方が、視力と意識を持つ人間という機構の存在意義が世界や神様にみとめられやすかった。こうして日々ささやかながらポイントを積み重ねておくことが最後の審判のときに効いてくるはずだと、言い出したのは誰だっただろう。

「ねーえ、たかこちゃん」
「何?」
「幸せ?」
「へ?」
「毎日が幸せですか?」
「う、……うん……」
「幸せで楽しい?」
「うん……」
「そっか~そうなんやね~」
「どうしたんかっしー。大丈夫?」
「わたし魔王の嫁になろうかな」
「えっ……」ずいぶん間を置いてからたかこちゃんは言った。「……あのね、かっしー。わたしも魔王くんのこと好きなんよ……」
「えっそうなん? わたしは別に好きやないよ?」
「え?なんで?」
「なんでっちなんで?」
「好きやけお嫁さんなりたいんやないん」
「いや、楽しいのがいいけお嫁さんなりたい。楽しいっちゅうか充実、的な?」
「……お嫁さんは、充実してないと思うよ……」
「そうなん?」
「だってうちのお母さんとか、毎日家でお菓子食べながらテレビ見とるし……かっしーのお母さんもそうやない?」
「うーんうちは充実しとるっち自分に思い込ませとうって感じかな~」
「えっきびしい……」
「お母さんはもうお嫁さんやないんやない?」
「かっしーもお嫁さんになったらそのうちお嫁さんやなくなるんよ」
「あ~……じゃあやっぱやめとこうかな」
 たかこちゃんは胸を撫で下ろした。窓の外を見れば良い小春日和だとわかった。わたしはぽかんとOの字に口を開けて見ていた。

 弟はハルシオンを売っていた。首から木のお盆みたいなのを下げて、それにいっぱい並べていた。
 よその学校の通学路や、ときには校舎に現れることもあった。一人とか二人のところを狙っているようだった。花畑の中に立っていたり、下駄箱で靴を履き替えていたら気づけばそばに立っていたりした。
 十円で売ってくれた。なかったら五円でもよかった。実は一円でもいけることを試してみて知った人もいた。
 慣れてる客はお金と交換で花を受け取ったその手をそのまま口へ持っていってむしゃむしゃ食べた。ときどき小さな赤い芋虫が入っていた。
 初めての客には「この花食べれるんよ」と教えた。ちゃんとした女子だと「汚い」と言ったけど、弟は「大丈夫」と何の根拠もなく、けど女の子なら誰もが夢見るような素晴らしい笑顔で言って、結局食べさせてしまうのだった。
 そんな弟の笑顔をわたしは見たことがないし、そんな笑顔を作れるということさえ知らず、見ずじまいだった。
 いくつかの学校では弟に関する警告が流れた。
 うちにまで押し寄せてくる人がいた。
「あの子はいません」と玄関でお母さんは言った。それは本当だった。弟はあまり帰ってこなかった。
 夜、ちょっとした買い物の帰りにふと公園を見ると、弟が小さな箱に座って、ホームレスたちと大声で笑いながら喋っていた。
 売っているとこに出くわしたことはあった。
 森の中だった。
「これは、天国へ連れて行く、花だ」と弟は言った。
「あれのどこが天国なん」夏休みに弟がハルシオンを食べて行ってきた世界のことを思い出し、わたしは言った。
「天国は、永遠だ」
 永遠は、停止している。
 そのままわたしの目の前を通りすぎて、茂みをかき分け、木々のこんもりした薄闇のなかへ進んでいく弟を、わたしは見ていた。
 誰もいない一人一つの天国を叶えるために、弟は今日も花を売る。
 この世をほっつき歩いている。
 たまに太陽でくすぐったくてくしゃみをし、鼻をこすっていたらある時、白い猫が見ていた。
弟も猫を見た。
 二人のあいだに永遠の時間が流れた。
 外から見たらひとときの、その場にいたら永遠だった。


 学校の英語の授業でハロウィンパーティーがあった。
 窓をぜんぶ暗幕で閉めきって、いろいろ飾りつけをして雰囲気を出していた。準備は大体女子がやった。男子は遊んでるのが多かった。おっさんになると男子はそういうのを「男の甲斐性」と呼んだ。
 魔王はドラキュラの仮装で、わりと女子にキャーキャー言われていたけど、無表情に斜め下を向いて陰があった。
「無理やり着せられたん?」
 みんながわいわいやってるとこから離れた窓際に寄っかかり、わたしは訊いた。
「お前のお母さんだよ」
 魔王は白いフリフリのシャツの襟に人差し指を引っかけて隙間をつくっていた。
「ああ。……すまんね」
「いいけど」
 魔王がお母さんのことをどう思っているのかよくわからなかった。
 周りの女子は男子って馬鹿だよねと言ってるけど、馬鹿だったらわかりやすいはずだから、魔王は馬鹿じゃないのかもしれない。
 わからない。わたしが馬鹿なだけかもしれない。
 舞台では魔女が踊っていた。舞台とは並べた机の上だった。天井で照明が回転し、色とりどりの光の鱗を壁の上に泳がせていた。活発な子は手を叩いて踊り狂い、おとなしい子はその陰で膝を抱えて座っていた。仕方なくではなく、そうしているのが居心地よくて好きだった。森の茂みにも似た、机たちの下の暗がりで、二人のおとなしい子が身を寄せ合い、顔と顔をすぐ近くにして喋っていた。喋り声は二人以外の誰にも聞こえなかったし、聞こえてはいけなかった。ある場合には、そこから夏の小さな恋が始まった。青空と太陽の光と草原と風と森の陰。
 さあ、わたしたちも何かを描かねばならない。
 しゃがみこんでいたわたしは、急にやる気になって立ち上がった。けれど、歩き出すと人が障害物のように点在していて進めないし、その原因となっている机の上の魔女を見上げれば、下半身がストリッパーみたいになっていて暗澹たる気持ちになった。
「ちょっと、魔王」と魔女が言った。
 こっそり外へ出ようとしていた魔王の、灰色のTシャツの猫背がぎくっと固まった。
 みんなの注目を集めていた魔女に呼ばれて、魔王の芋っぽい背中にすべての視線が集まり突き刺さった。かわいそうに。けど、王になるなら大勢から見上げられるのに慣れないといけなかった。
 魔王も魔女もそのことをわかっていて、魔王はうつむいたまま十戒のように二つに分かれた人の波の間を歩き、死刑囚のように汚れた上靴を脱いで白靴下で机へ上った。上るときに魔女が王子様みたいに手を差し出して、うつむいているから見えてるはずがないのに完璧なタイミングで魔王はその手を取り、引っ張り上げられた。
 円舞が始まった。
 魔王はしばらくうつむいたままだったけど、光に当てられ、黙って見上げているみんなの期待を感じとり、ようやくきっとした表情になって顔を上げ、ずっとまとっていた濃い影を晴らした。魔女は満面の笑みでそれを受け取り、二人のステップは情熱を増した。シャープなオレンジの軌道が描かれ、交差し、幾重にも積み重なった後、摩擦で一気に燃え上がり、白い鳩たちが飛び立った。
歓声さえ奪われていた。
 わたしは腕を組み、壁にもたれかかって見ていた。コーチか何かのように。
「ありゃ、敵わなんね」隣で友達が言った。
「敵うって、何。べつに最初から――」
「あんたの話はしとらんけど?」
「!」友達の方を向いたわたしの顔は赤かった。
「りんごみたい。熱に当てられとんやない」
 終わった後の魔王は、すっかり消し炭に見えた。顔や体に影が戻っていた。でも、そばを通り過ぎるとき、陽炎のような熱の余波が走って、声をかけようとしていたわたしの手は止まった。袖を引くこともできなかった。

 あの日魔王が着ていた黒い光沢のある衣装をわたしは嗅いでいた。不思議なにおいがした。夏の木立の光のような。両目から涙が流れていた。悲しいんだろうか?
 もう魔王はいなくなってしまったのかもしれない。どこにも。それかわたしには行けない場所へ行ってしまったんだろう。
「死ぬこと自体が悲しいんじゃなくて、幸せが取り戻せないから悲しいんだ。
 あの人といて楽しかったな、もう一度あんな風になりたいなって思っても戻れないのが」
「わたしは悲しいんかまだわからんけど」
「取り戻せなくなってからあーあれって幸せだったんだな、悲しいなってなることが多いんだよ」
「じゃあわたしも悲しくなるんや。いややなー、怖い」
「怖い?」ヨクニさんは微笑んだ。
「怖くない?」
「うーん、そうかもね。そうだな」
「わたし、悲しくなりたくないな」
「じゃあ、忘れるのが一番だよ」
「そっか。じゃあ、魔王のこと忘れよー」
 わたしは忘却につとめた。一番危ないのは、夜、ベッドで横になって目を閉じているときだった。白いあぶくの波がすぐそこまで打ち寄せていて、それに触れてしまうと記憶がよみがえる。寝たふりでやりすごすのは大変だった。
 灼熱の白い日光を背に、魔王の黒い影が片手を上げた。あるいはそれは影ではなく、太陽に焼き尽くされた真っ黒焦げだったのかもしれない。涙を垂らしているようにも見えた。
 応えようとするわたしの右手を左手が必死にとどめていた。
 お母さんがやってきて見ると、寝ているわたしは歯をくいしばってこらえていた。つけっぱなしの電気を消して、わたしに布団をかけ、お母さんは出て行った。歯磨きをしながら。そしてお父さんが帰ってきて、食卓で二人お酒を飲んだ。
 お父さん、知ってる? その椅子に魔王が座ってたこと。
 お母さんが魔王に手出したこと。
 お母さん、地獄行き確定なんだよ。
 ずっとお母さんと一緒がいいなら、外で女の人と姦淫したら?
「姦淫」は聖書にのっていた。
 聖書は学校の図書室の奥の棚にあって、窓の外は青空だった。
「聖書を読んだらいいよ」と教えてくれたのは眩くんだった。
 眩くんは先生に好かれて、信頼されていたから、図書室の鍵を預けられていた。
「内緒だよ」と口に人差し指を当てて戸を開けて、お休み中の暗い図書室に入れてくれた。
「ほこりっぽいね」
「そうだね。マスクなくてだいじょうぶ?」
「うん。なんかどきどきする」それはいつもと違う図書室の雰囲気に。そして眩くんの優しさに。
 わたしは眩くんの腕に抱きついた。
 眩くんはいつもにこにこしてて、ずっと後になって読んだ『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャに似ていた。
 きっとお父さんお母さんが、眩くんの生まれる前から、生まれた後も、毎日カラマーゾフを読み聞かせていたんだろう。眩くんの頭上にはいつもその物語の天球が浮かんでいて、眩くんはその中からアリョーシャを選んでなぞったんだ。
 わたしは眩くんのことが好きだと思っていた。初恋の人だって信じていた。
 だから訊いてみた。
「セックス?」眩くんは振り向いた。
「っち知っとう?」
「うん、まあ」
 ああ、知ってるんだ。
「してみん?」
「どうして?」
 考えてみたけど思い出せなかった。
 なぜか浮かんできたのはベッドの上の魔王と、魔王の上のお母さんだったので、それを話した。
「ふうん」と眩くんは言った。「魔王くんと同じになりたいの?」


 ヨクニさんの恋人は墓地にいて、具合の悪い人魚姫みたいな姿勢で墓に腕を乗せていた。ものすごい大雨でワンピースが体に張りついていた。
 光がその人を照らした。懐中電灯を持っているのは――

 ベッドに寝転んだヨクニさんは、自分の胸で寝ている恋人に本を読んで聞かせていた。木でできた小屋だった。四角く繰り抜かれた窓の外は眩しすぎて真っ白な光、小屋のなかには天使の白い羽根がひらひら降ってきていた。

 眠りと死の違いはどこにあるんだろう?
 永遠かどうか?
 永遠って、誰が判断するんだろう?
 いつか蘇らないとは誰にも言い切れないのに。

 サバエとヨクニさんは同じ人だって誰かが言ってた。一つの幹から分かれた二つの枝。よくわからない。じゃあわたしと魔王も同じ人だったりするんだろうか。
「それはない」とサバエが言った。「だって樫原、魔王のこと好きやろ」
「じゃあサバエとヨクニさんは憎しみ合っとるん?」
「まあね」
「なんで?」
「似とうけ」
「ええー。似とったらふつう好きにならん?」
「嫌なとこが似とったら嫌やろ」
「あ~。
嫌なとこって何?」
「そうやな。弱いとこかな」
「弱い?」
「なんもかんも弱いけど、一番は心が本気やないとこやな。にせものっぽいんよ。これは大切やと思っても、結局」
「そういうのは思春期の病気っち本で読んだよ」
「そうか? 俺はにせもの本物ってあると思うけどな。他の人見とって、この人のいまの気持ちは本物やなっち思うことあるよ」
「そんなん外から見えとるだけやしわからんやん。それに、サバエも他から見たらそうかもしれん」
「樫原にはどう見える?」
「そんなにサバエのこと見とらん」
「そうやろな……」がっくりため息をついた。
 そんなんで悩んでいるサバエは、阿呆だけどたぶん立派だと思った。

 地獄の渦の上で踊ってるお父さんとお母さんを、うつ伏せになったわたしと弟が天国の穴から見下ろしている。
 わたしは天国の門番に気に入られて、黄金の鍵をもらっている。
 眩くんが図書室の鍵預けられてるみたいに、わたしも天国の鍵預けられてるんだ、って眩くんに言いたかった。
 おそろいだねって言って鍵と鍵をコツンとやりたかった。
 少しの間なら互いの鍵を交換したっていい。
 わたしの鍵で眩くんがわたしを開け、眩くんの鍵でわたしが眩くんを開ける。
 開かれた場所から光が溢れる。
 どうして眩くんが天国にいないんだろう。
 わたしが見つけられてないだけなのか、それとも。
 カラマーゾフの兄弟には続編が構想されてたって聞いたことがある。
 主人公はアリョーシャ、波乱万丈の人生の物語だ。
 そこで人を殺したり、悪い女と姦淫を犯したりするのかもしれない。
 ああ、わたしは眩くんの首に白い糸を巻きつけておくべきだった。
 どこでどうして見失ってしまったんだろう。
 魔王はほんとにわたしの足首を掴みにくるんだろうか?
 背中に小さな悪魔の羽を生やして、地獄の赤い山脈の狭間から飛んでくる。
 わたしまで地獄に行ったら、弟だけ天国に取り残される。
 いじめられてしまうよ。
 天国にいじめがあるわけないって?
「あるんだな、これが」と魔王が言った。「天使がどんだけ意地悪か、お前ら知らないだろ」
 今日も今日とて、日差しを必死に塞いでいる岩のような黒い雲の下、回遊している太った天使たちを、憎々しげに魔王は見上げた。
「おれが一人前になったらまずあいつらを空から殲滅する」
「地獄におるのに空届くん?」
「まあ、手伸ばしたら神様に灼かれるかもしれんけど、いい。
 それはあいつらを葬るための名誉の負傷だ」
 こういう魔王の凶暴な信念を、わたしはけっこう好きだった。
 黒くて硬い物質が、手首か茎かの形を取って、力をこめればぽっきり折れる。
 誰にでも折れるわけではないけど、わたしなら折ることができただろう。
 祈るだけじゃなく、わたしは折るのも上手かった。
 空を見上げる魔王の横顔を、目を細めたわたしが見ていた。口元はわけもなく緩んでにやついていた。
「いつでも折れるんよ」と言葉が言った。
「何?」魔王の顔がわたしを見た。眉間に皺が寄っている。
「あんたの芯、わたしならいつでも折れる。……あれ、おかしいな。こんなん言うつもりなかったのに」
「ふん、こぼれたな本心が」鼻で笑った。「折ってみろよ」
 対峙する二人のあいだに沈黙が挟まり風が通った。濃く短い草たちがざわめいていった。


 日曜日、お母さんがわたしの手首を掴んで玄関を出る。
 おかめの面でも被ってるような笑顔でまっすぐ前だけ見て歩いて行く。
「そんな強く掴まんでもちゃんとついて行くって」と訴えるのはとうの昔にやめた。
 毎週わたしの手首にはブレスレットみたいに痺れた赤い痕が残る。
「聖痕だ」とアホな信者は言う。でも、ほとんどの人はアホじゃなくてちゃんとしている。心配そうな目で、哀れみの目でわたしを見てるけど、誰も助けることはできない。助けてくれようとした人はいるけど、お母さんが全部あの笑顔ではねのけてしまった。
 祈ること自体は好きだった。心が落ち着いた。でもこれに熱中しすぎたらお母さんみたいになっちゃうんだと思っていた。
 だから、祈ることと折ることをバランスよくこなした。
 信仰が硬くなってきたら、本当に固まって折れなくなる前に膝で叩き折る。
 鎌のように残忍な笑顔。
 プラスチックで出来たチュロスみたいなアダムの肋骨が、草の上に散乱していた。
 わたしの本質は信仰者ではなく破戒者で、芯が歪んでいたから特別な役目をこなせた。
 でも歪んでいたから使われるだけ使われて捨てられた。
 いつもそうだ。選ばれるのは結局、周囲から善と愛を受けて育った純朴な人間。
 お母さんはそうなることまで知っていて、使えるうちにわたしを使ったのだった。
 惚れ惚れする。
 ショッピングモールの屋上駐車場へ出ると、青空だった。風を受けた。
 選ばれなかった人間の受け皿になってくれるのは、誰だろう。
 受け皿なんかじゃなく、自分の意思で、選ばれなかった人間へ手を伸ばそうとするのは誰だろう。

 サバエの言った通り、高校生のわたしにはたくさん彼氏ができた。
 窓の青空を背景に彼氏×号がシャツを脱いだ。その裸を弁当食べながら見ていた。教室に電気はついていなくて、青空はやたら鮮やかに見えた。
視線に気づいた×号が言った。「どうした?」
「いや、けっこう立派な体しとるなと思って。馬みたい」
「触る?」
「そうやね」
 椅子ごと引きずって近づき、触った。撫でた。指で脇毛をほじくった。
「わはは」
「乳首は気持ち悪いな」
「えっまじで? けっこうきれいやと思うんやけど」
「いや見た目やないで感触がね」
「それは仕方ないやろ。……樫原のは?」
「わたし? 乳首あるんかな」服を捲ってみた。
 ×号がわたしの胸を凝視した。その×号の顔を見ているから、わたしに自分の胸は見えない。
「どう? ある?」
「…………」
「ちょっと」
「…………」喉を鳴らした。
「穴でも空いとるん?」
 穴が空いていたら、わたしに心臓はない。
 心もない。
「心臓が心とか、いつの時代の人間だよ」
 誰かが言った。彼氏ではなかった。
 それは夢の中のことだったかもわからない。
 肩と水平に伸ばした自分の腕のあまりの白さを目の当たりにした時とか、水泳でプールから上がってぼーっとしてる時とか、あ、これは別の時のわたしが見てる夢なんだって感じがした。
 だから何をしても大丈夫。どうせ夢の中なんだから。
 物を壊したっていい。心を壊したっていい。
 お母さんはなんて言うだろう?
 それだけが楽しみで、体育倉庫に仰向けに寝ているわたしは気持ちの悪い笑みをつくった。唇はぷるぷるした真紅で、ほっぺたに灰色の破片が付いていた。立ってわたしを見下ろしていた男が屈み、曲げた指の背でそれを拭った。この年頃の男子の指の背がわたしは好きだった。硬さと雄としなやかさと優しさが中途半端に混じった、におい・形・肌触り。

 お母さんは何も言わなかった。ただわたしを立たせてぶった。わたしはその間硬直していなければならなかった。
 魔王魔王とわたしは思った。わたしの周りには誰もいなくなっていて、魔王くらいしか呼ぶ相手がいなかった。
 魔王は答えない。
 かわりにフクロウが一直線に飛んできて囚われのわたしの窓にぶつかって落ちた。部屋は暗く、わたしは白いワンピースを着させられていて、裸足だった。ついでに言うと、椅子に縛られていた。縛られたところが赤くなってきている頃合いだった。フクロウは草の上でぴくぴく震えている。大きな冷たい風に乱暴に撫でられながら、絶命しようと目を見開いている。ごめんね。わたしが呼んでしまったばっかりに。

「お母さんはどうせ地獄に行くんよ」
 お母さんは目を少し見開いて、にんまりと笑った。「あなた、勘違いしてるみたいね。魔王と交わった者は地獄へ行く。それはたしかにそう。原則はね。でもあの魔王はまだ幼かった。私のしたことは性的虐待とみなされる。虐待の加害者と被害者を一緒にしておく理が、どこの世界にあると思う?」
「じゃあ――」
「そう、私は魔王と引き離される。強制的に。魔王の行く場所は地獄と決まっている。自動的に、私が行くのは天国」
 地獄に行こうとわたしは思った。
 呼ばれなくても行ってやる。
 これは逃避ではない、前を向いての選択だ。

 ヨクニさんはすっかり痩せこけて無精髭が生え、おっさんに近づいていた。教科書で見た阿片中毒者に似た姿で、タバコではなくパイプを吸うようになっていた。きっと肺だけじゃ吸いきれないんだろう、煙で顔の色まで悪くなっていた。自分が吸っていると思っていたら、自分の生命を吸われていた。ヨクニさんはとっくにそのことに気づいていた。タバコ屋のおばあちゃんが自分の掌に生まれて初めての一箱を落としてくれた時、すでに覚悟は決めていた。
「久しぶり」
「久しぶり」
「何か、つくってほしいものがあるの?」
「お母さんを殺せるもの」
「地獄に落ちるよ」
「落ちたい」
「そうか。いまの俺じゃ、上手くつくれるかわからないけど……がんばってみよう」
「ありがとう」
「かわりに一つお願いがある」
「もう体で払えるようになったよ」
「それはいい」ヨクニさんは笑った。「君にやってほしいのは、過去をめぐること」
「それって、ヨクニさんの?」
「いや、君自身の」
「わたしの? そんなことしてヨクニさんに何になるん」
「自分のためにしなきゃいけないのかな? 頼みごとって」
「わたしのため?」
「君のためにはならないかもしれない」
「じゃあわたしを不幸にするため?」
「そう思う?」
「全然」
「そういうこと」
 誰のためでもない、透明な願い。
 ヨクニさんは目を閉じ、気持ちよさそうに微笑んだ顔を上に向けて、動かなくなった。

 サバエもわたしの言った通りになっていた。 
 売れないボクサーに支配され、さびれた路地裏の陰から肩を抱かれて建物の中へ入っていき、傍から見れば不幸な恋としか言われないようなことをしていた。
 わたしたちは一時の思いつきで望まれない未来を互いに押し付け合ったわけだった。
「もうやめようや」とナチュラルな喫茶店の白い丸テーブルを挟んでサバエが言った。
「やめられたらやめとうやろとっくに」
「どうしたらいいん」頭を抱えた。
「あんなん言わんかったらよかったねー」
「一度出した言葉は口ん中には戻せん」
「忘れるしかないよね」
「忘れられるか?」
「サバエの場合まず離れんとね」
「できるか……」
 わたしは離れても忘れられない。離れられるのと、られないのと、どうせ忘れられないなら、どっちがマシだろう?
 喫茶店の天井では大きなファンが回っている他、コウモリが逆さにとまっていた。
 弟がコウモリを踏みつけていたことを思い出した。夜で、弟の足は濃い水色のサンダルをはいていた。
「ようつかまえたね」わたしはしゃがみこんで、チューリップみたいに顎を両手で支えて見ていた。必死にもがいているコウモリの姿は濡れた黒い革の袋みたいだ。
「地面に這いつくばっとった、こいつ」弟は吐き捨てるように言った。「せっかく逃がしてやったのに」
「苦しそうよ。息がヒューヒュー言っとる。放してあげたら」
「放したらちゃんと飛ぶと思う? 次飛ばんかったら、本気でゆるせん」
「ゆるせんかったらどうするん? 串刺しにして焼いて食べる? 後悔するかもよ」
「魔王みたいに?」
 何も殺したくなかったと魔王は言った。
 そんなことを言う魂を、なぜわざわざ魔王の器に注(つ)いだのだろう。
 躊躇なく殺しができる魂は他にいっぱい浮遊しているのに。
「できないからこそじゃない?」本を片手に開いて、眩くんは言った。
曇りの日で、眩くんは冷たい直方形の光が差し込む窓を隣にして立っていた。ドーム型の屋根を持つ図書館の中は薄暗く、人々は一様に下を向いていた。「書く」も「読む」も、「下を向く」という同じ一つの動作に置き換えられるんだと思った。
「殺せないってことは、命の重さをわかってるってこと。価値がわかってる者にやらせないと、殺戮は意味を持たない」
「意味とかいるん?」
「権威ある者には、いると思うよ? 王は大衆を納得させなきゃならないから」
「有無を言わせず、雰囲気で従わせる王もおるやろ?」
「たしかにそれも必要な資質だけど、時代じゃないよね」
「時代」とわたしは言った。「地獄にも時代があるん」
「時間は流れてなくて、永劫のままあるにしても、王が替わったら時代も変わるんじゃないかな」
「え? 時代が変わったのに合わせて、王も変わるんやないん?」
「どうだろう? 手をつないで一緒に階段を上るのかも」
 手をつないで一緒に。
 夫婦みたい。
 でも階段は上るものじゃなく、下りるのかもしれなかった。
 一緒に堕ちていきたい。
 わたしもずいぶん弱くなった。
「ずっと弱いんだよ、人間は。弱さを認められるのが、大人になった証拠だよ」
「眩くんも大人みたいなこと言うようになったね。ショック」
「あはは。いま、ぼくが住んでる家ね、地下室があるんだよ。石の手術台と、電極があるんだ」
「どうしたん。夜な夜な人を拷問しとん」
「いや。ただ眺めてるんだ。椅子に座って、コーヒー飲みながら。その台の上で繰り広げられたドラマのことを、考えてる」
「暗い」
「ぼくは昔から暗いよ? 知らなかった?」その白い微笑に、皺と陰がある気がした。
 薄暗い図書室で一人じっと本を読んでいる眩くんの真っ白な心が、本の中に記録された人間の暗部に少しずつ侵されていくところを想像した。落ち葉が舞い、空の青が濃さを増した。図書室の戸口にわたしが立っていた。眩くんは本からわたしへ振り向きながら、いつもの微笑になっていた。
「本なんて何のためにあるんやろ。本が眩くんを侵したんやん」
「すごいこと言うね」笑った。「たしかにそうかも。でもぼくは、侵されてよかったよ。何も知らないままじゃなくて、よかった」見えない赤子を胸に抱えているみたいに、静かにうつむいて微笑んだ。やっぱり綺麗だ、と思った。
 小さく手を振って別れた。まだ誰も起きてない、青い暗い朝に降る雪のようだった。

 地獄行きのバスに乗った。当然のように車内は電気がついてなくて、青い曇りの外より暗かった。その、ほとんど影の塊のような車内で、わたしの姿は浮いていた。
 窓の外を見ているわたしの隣へ、影の形をした人が座ってきてささやいた。
「あんた、人を殺してきたね」
「うん」
「においがする」
「いまちょうど死んどるとこやと思う。台所で首抑えてけいれんしながら、時計みたいに足で回りよう」
「殺して地獄に落ちるんじゃなく、地獄へ行くために殺したんだね? 気が狂っている」
「そうかね。現世の方が地獄っち人、けっこうおると思うよ。わたしはそうでもないけど」
「そう言ってられるのも今のうちだ。後悔するよ」
 ふふっとわたしが笑うと、その影は離れていった。
 わたしの携帯電話には、あらゆる方向から彼氏たちの電話やメールがひっきりなしに届いて鳴り止まなかった。息継ぎの暇がなくて死んでしまうんじゃないかなと思っていたら、電話は灰色の煙を上げて死んだ。かわいそうに。後ろへ放り投げた。きっとお前は天国に行ける。

 地獄の分かれ道に水色の看板が立っていた。
 あっちに行ってもこっちに行っても、どうせ広がるのは炎の海で、マグマが龍のように水面(火面?)の上で、アーチを作っては潜り、泳ぎ、飛び出し、という円環の運動を永劫に続けているだけだ。
 道を歩いていると、巨大な鬼とすれ違う。鬼は時折思い出したように、わたしの背中や腹を氷柱のようなもので貫く。黄ばんだ白い襤褸をまとったわたしは吐血する。痛みでしばらく動けない。倒れていると黄金の光が顔を照らし、天国へ行きそうになるけど、なんとか地面にへばりついてとどまる。光が止んでから、頭を振って立ち上がり、足を引きずり歩いて行く。

 わたしが魔王を折りに行き、魔王がわたしを奪りにきて、わたしたちは地獄の小道でかち合った。

 さすがに魔王は裕福だった。白いプールサイドの陰に座り、たっぷりと張られた水色の水が揺れるのを眺めながら、冷たいデザートを食べた。水は何の変哲もないただの水だけど、久々に見るとその色や感触、涼しさだけで天上の娯楽だった。金魚やら珊瑚やら、そんな余計な装飾はいらない、水は水だけでいいんだと思った。
 魔王は臙脂色のアロハシャツに白い短パン、サングラスというふざけた大人の格好をしていたけど、相変わらずちんちくりんの小学生の姿のままだった。並んだわたしが大人に見えた。魔王はわたしに遭う前の自分の話をした。

『巨大な地獄の大魔王のお膝元で、日なたの猫のように丸まって撫でられていた。撫でる手は神を塞ぐ岩のようだった。
ある日、潜りこんでいた大魔王の懐を刺した。大魔王からすると、内臓から棘が生えて刺されたようなものだった。大魔王は血の噴き出る腹を抑えて倒れた。その時にはもう魔王は悠々と歩き出していた。鍵を通した輪っかを指に掛け、くるくる回しながら。』

「てそれほんのさっきの話やない?」
「うん」
「大丈夫なん」
「いや、大騒ぎだし、俺を叩き殺そうとうろついてる鬼もいるだろうな。でもここは静かだ。それでいいだろ」
 ストローでジュースを飲みながら青空を見上げた。
「あの青空、本物? 作り物? なんか青が濃すぎて、簡単に落ちてきそうやね」
「それならそれで、いいだろ」
「なんでもいいんやん」
「そうだなー」
「老人みたい」
「ああ」
「わたしと結婚してもいい」
「しなくてもいい」
「けっ。もうちょっと、なんかなかったん。けっこう長い歳月が流れたと思うんやけど」
「そうだなー、岩の板を何枚も背負って、歩かされたりした」
「修行?」
「かな。だんだん、白い煙の、小さい仙人みたいなのが闇に浮かび上がってくる。疲れたら、汗だくのまま夜の森に寝転がって、星を見る」
「森とか星空とかがあるん」
「さあ、あんときは地獄じゃなかったのかもな」
「地獄の話してよ」
「いいんだよ。どうせ最後は全部俺のものになるから、境なんてなくて。名前をつけて、言葉で区切るからややこしいんだ。それをやめたら、みんな同じだ」
「あんたとわたしの境もどうでもいい?」
「……結婚式をした。馬鹿げたことだった。余興で、赤い煮え湯の釜に亡者を放り込んで、絶叫しながら這い出してきたのをまた放り込んで、あまりの苦痛で泡吹いて反応しなくなったら別のに替えて、ってのを延々と繰り返し、それが本当に楽しいと思ってる鬼の連中の精神性には頭が腐る」魔王はタバコをふかした。「花嫁もそれを、味わうように微笑んで見てた。ふと隣を見て、驚いた」
「魔王ってピュアだよね。相手は?」
「魔女」
 魔女は、紫がかった黒い薔薇をイメージしたドレスに収まっていた。
「奥さんはいま何しとん? 置いてきたん?」
「若い男妾をはべらせて、好きにやってるよ。書斎で火の犬を飼ってるからな、あれを性戯に使ってんだろ」魔王はスパスパ煙を吐く。
「割と惚れてた?」
「あ???」やっと振り向いた。瞳孔が開いていた。
「うわ、キレた」わたしはにっこりしていた。「そういやさ、ごめん、わたし天国の鍵持ってないわ」
「何のために祈ってたんだよお前」
「少なくとも自分が天国行くためではない」
「そういう姿勢で祈ってたら普通行けるんだけどな」
「『俺は神を認めないわけじゃないんだ、アリョーシャ、ただ謹んで切符をお返しするだけなんだよ』」
「あの本は嫌いだ」
「そりゃあんたが似とるけやろ、カラマーゾフに」
「ふざけんな」
「嫌いと好きは一体やろ。やけ、台詞まで覚えとんやん」
「それは?」
「これね、学校の図書室の鍵」
「へえ。俺は天国の鍵なんかより、そっちの方が好きだ」
「そうやろ?」
「小学校へ侵攻しよう」
「白い瓦礫の山にするん?」
「さあ、どうかな」
「わたしたちの思い出の場所」
「思い出なんて、あそこにしかない」
「狭い世界やね」
「そうだな。なんでだろう」魔王は自分の掌を見た。この世のすべてを掌握できる掌。それは黒くて、類人猿に似ていた。
「あいつはどうしてる?」
「サバエ?」
「そうだな、俺のただ一人の友達だった」
「え?わたしは?」
「お前はわからん」
「それサバエにも言われたな……」
 魔王は鼻を鳴らした。「何なんだろうなお前」
「わからん。もうなんでも良い」
「そうなるんだよ、結局」
サバエは縁側に座り、青空へシャボン玉を送っていた。魚の切り身みたいに傷がある顔は、涙を流した後のように見えた。
白い雲が横へ流れていく。空は河に似ている。
シャボン玉は空に届かず、いつのまにか消えている。
わたしたちは空で繋がっているし、空で隔てられている。
そういうものだ。何もかも。
また魔王がタバコを吸った。
「そういえばさ、ずっと訊きたかったこと」わたしは魔王の手と口とタバコと煙を凝視しながら言った。「あんたを殺してここへ送ったの、誰」
 魔王は少しうつむいて鼻で笑った。口がおむすびみたいな笑みをつくっていた。
「誰がいるんだよ、お前以外に」こっちを見ないまま言った。
 魔王とはずっと一緒だった。
 そう書いたっていいだろう。

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