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アートが社会(時代)に寄っているのではなく、社会(時代)がアートに寄ってきているという考え方 その2

アート(美術)はもともとは王族や宗教家などが美術家にオーダーメイドで発注するもので、肖像画や物語(神話、宗教)などを写実するものだった(らしい)。
自分がつくりたいものをつくる、現在でいうところの「アーティスト」のようなスタンスではなく、発注があってから作業にとりかかる「職人」の領域であった(らしい)。


ところが写真の発明で、美術のその役割が奪われることになる。
写真の方が早くて正確で、しかもより多くの人が扱えるからだ。
アートはもともとの役割・存在意義を失ったが、その代わりに多面性、多次元性という新たなものを得ていく。


現代社会は不安定で、ビジネスシーンなどではVUCA(ブーカ)という言葉がでてくるようになった。
VUCAとはVolatility(変動性・不安定さ)Uncertainty(不確実性・不確定さ)Complexity(複雑性)Ambiguity(曖昧性・不明確さ)の頭文字をとったものだそう。


要因はたくさんあると思うが、「IT技術の発達」「社会システムや価値観の変化のスピード感の早さ」「グローバル化」「市場の急激な変化」「求められる多様性」「人口減少社会」などが挙げられる。


「大量生産大量消費、ニーズがシンプル(生活必需品)、居住地や農地の拡大、一億総中流時代、終身雇用制度や学歴社会」

という足し算の時代から、引き算の時代に変わることで

「売れるものがわからない、消費が減る(必需品は揃っている)、ニーズが多様化、空き家問題や地域の過疎、格差が広がる、終身雇用制度の崩壊」

など社会の変化の予測がつきにくくなり、安定という言葉が遠ざかっていく。


他にも「ストレス社会」とも言われており、管理社会や競争社会によるストレス、高齢化社会によって増えたストレス、核家族化による家庭内ストレスなど様々なストレスにさらされているが、これまで安定を得ることができていた人にとっては「不安定」こそが最大限のストレスになるのではないかと思う。


アートは一足先にこの問題を乗り越えたようにみえる。
このアート的な考え方(最近ではアート思考、アートシンキングなどと言われている)こそが様々な現場で役立つのではないだろうかと思えてくる。


アートは不安定なものだし、正解が無いし、多様性に満ちており似たものはあっても同じものはない。
目に見えている部分と、目に見えない部分を併せて作品と呼んでいたりもして、目に見えないものとは文脈だったり、価値観の提示だったりする。
アートスクールなどでは必ず出てくるといっても過言ではない マルセル・デュシャンの「泉」などはその最たるものかと思う。
この感覚、モノの見方の多次元性は人間しかもちえていないのでは?と個人的には感じるし、この感覚を今後AIなどが習得できるかどうかは見ものだとおもう。


様々な現場で「こうしておけば大丈夫」ということが失われている今、人類の共通財産の一つであるアートが社会に侵食していくことはある意味では自然な流れで、社会も知らず知らずアートに寄ってきているのではないだろうか。


現にビジネスシーン・ものづくりの現場は顕著で、世界の経営陣はアートを学ぶという流れが一部でできている(らしい)。
アップルのPCやスマホ、ダイソンの掃除機、スイマーバのベビー用品などの商品は確かにアート的だと言えなくもない。
日本ではウォークマンがそこに該当する商品だと思うが、最近のものだとパッと出てこない。
これはサービスやコミュニケーションツールにおいても同様で、日本の多くの人が使っているSNSであったり、ゲームなども海外製のものが席巻している。


これはつまり「〇〇〇だったら人々は喜ぶのではないか」というターゲットやクライアントありきの思考ではなく、「〇〇〇だったら自分は(世の中は)面白くなるんじゃないか」という自分起点の考え方、つまりは作品作りが重要になってくるのだということではないだろうか。


もっと短くまとめるはずが長くなってしまったが、これ以上書くとよくわからなくなってきそうなので、ひとまずここで一旦筆をおいて、一旦助成金の話に戻るか、それともまた違う方向に飛んでいくか考えることとする。


photo yixtape

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