見出し画像

探究をめぐって 5.NAMはどうして失敗したのか?

柄谷行人とドゥルーズ&ガタリ

『探求Ⅱ』の第三部「世界宗教をめぐって」の「精神分析の他者」において、柄谷行人は、フロイトが神経症を分裂症と区別する基準を感情転移の有無に、つまりリビドー理論による治療の実効性に求めた上で、すべての精神疾患を「神経症」として定義した精神分析運動に、対抗運動の可能性を見ています。しかし、柄谷は、ドゥルーズ&ガタリによる『アンチ・オイディプス』は反フロイトであるとまっとうに指摘しながらも、神経症と分裂症の区別の基準は同一であること、対抗運動の可能性を「神経症」にみるのではなく「分裂症」に見ようとしている点が違うだけだと指摘しています。ここで、ドゥルーズ&ガタリを否定していないのです。

私はこの柄谷の評価は適切なものだはと思います。しかし、それならば、かえって疑問がわいてきます。なぜドゥルーズ&ガタリの試みを認めながらも、自分はフロイトの精神分析運動に固執したのか。なぜ「神経症」に固執したのか、という点です。逆に「分裂症」に可能性を見ることも出来たはずなのに。

答えの一つとして予想できることは、「分裂症」には対抗運動としての可能性があったとしても、結果的にポストモダン右派のような消費資本主義に迎合的な現状肯定に陥る可能性が高く、実際に80年代の思想的状況はそのようなものだった、という点です。

こうした思想的状況に対して、後年に柄谷が明確に主張しはじめたことは、資本主義の本質には命がけの跳躍があるということ、つまりその本質は分裂症ではなく、神経症だということです。命がけの跳躍によって恐慌の可能性を不断に内包したまま拡張を続けるのが、マルクスのいう資本の運動だ、というわけです。だから、資本主義という神経症に対抗できるのは別の神経症によってでしかない、と考えたのです。

この別の神経症が、柄谷行人の言うところの「可能なるコミュニズム」でした。これは、資本主義社会においては、商品交換によって相互扶助的交換が抑圧されているが、強迫的な衝動によって抑圧されているそうした交換が回帰する、というものです。柄谷はこうした交換をアソシエーションとしての交換と呼びました。

柄谷のこの思想の根本には、宇野弘蔵の『恐慌論』の影響があります。これは資本主義の本質を恐慌に見るものです。これが、19世紀当時のリカードをはじめとした国民経済を研究する経済学者たちの最大の課題だったことは間違いありません。しかし、その意味で、宇野弘蔵は19世紀的、いわば古典派経済学的だったのです。彼らにとって、資本主義の問題は循環的な恐慌によって貧富の差を拡大させて、社会問題を不可避的に生み出すことだったのです。

こうした問題が今日もちろんなくなっているわけではないし、むしろ金融恐慌としてグローバルに広がることによって、いっそう深刻化していることは間違いがない。しかし、資本主義の本質を恐慌としてのみ見ることが妥当なのか否かは問われるべきだと思います。

「教える」立場と「売る」立場

そもそも命がけの跳躍は商品交換だけに必須のものでしょうか。私がまずはじめに疑問に感じるのは、この点です。『探求』において、柄谷行人は「教える」立場としてそれを考察していることに注目するべきです。つまり、商品交換における命がけの跳躍は「売る」立場に立つことによって考察されうる、ということを意味しています。それは、言うまでもなく、「教える」立場と「売る」立場とアナロジカルな関係にあるからです。

柄谷行人は「教える」立場によって、ヴィトゲンシュタインについて、あるいはキルケゴールについて語っているのです。つまり、無償の愛、無償の贈与について語っていると言って良い。命がけの跳躍は、「売る-買う」という関係性、すなわち商品交換より前に、贈与において明確なのです。商品交換に命がけの跳躍が含まれるのは、贈与にそれが含まれるからです。むしろ、贈与と同様の立場、「売る」立場に立ったとき、むしろそれは明らかになる。

さらに次のような疑問も生じてきます。商品交換における命がけの跳躍が資本の運動を語るのに欠かせない特徴であるのは間違いないとしても、命がけの跳躍は恐慌という経済現象だけをもたらすものでしょうか

たとえば、前述のように、それは無償の愛をもたらす可能性もある。私が言いたいのは、これは分裂症に近い症状なのではないか、ということです。愛に報いなければならないという義務感は神経症に近いものですが、無償の愛を与えること、たとえば親が子供に時には同化してしまうほどの感情を抱くことは、神経症からはむしろ遠い現象のように思えます。それはむしろ、分裂症に近いのです。

資本主義は神経症的か、分裂症的か

結論から言いましょう。私が疑問に感じるのは、資本主義は分裂症として捉えるべき特徴があるのではないか、ということなのです。たしかに、資本主義経済においては、命がけの跳躍は商品交換がもたらす信用制度へと回収されがちになり、無償の愛、または贈与さえも商品化される、と言うのは正しいでしょう。マルクスの『資本論』第三巻は、そうした贈与の変質について述べたものとして読むべきではないか、ということです。

資本主義経済は、贈与によって、つまり資本によって成り立っている側面を否定できないのですが、しかしその命がけの跳躍は商品交換が抑圧してしまう。貸付資本との競争が、それを同一化してしまうのです。しかし、同時にそこには歴然たる区別がある。たとえば、資本主義経済にある贈与として典型的なのは、債務免除、とくに破産による免責です。注意すべきなのは、こうした贈与によってはじめて、市場経済が健全なものとして、「自由市場」として維持される、という点です。

モースが狩猟採集社会の境界に贈与を見たように、資本主義社会の境界には贈与があります。狩猟採集社会においては贈与がその社会の境界を作り、その内部において相互扶助的交換に変質したように、資本主義社会においては贈与がその社会の境界を作り、その内部においては商品交換に品質するのです。こうした贈与がもたらす現象は、そこに命がけの跳躍が潜むことによっています。

命がけの跳躍は、商品交換に内在するそれでさえ、恐慌のような現象、つまり神経症だけをもたらすわけではありません。それは、消費社会において別の意味で大規模な現象、つまり分裂症をもたらしています。

分裂的なグローバルな消費資本主義の拡大

今日、多くの人は、他者の欲望を欲望し、消費を楽しみながらも、孤独を囲っています。他人と分かり合ったりすることは無理だと諦めながら、他人の言動を否定したり、制限したりすることにも否定的です。他人の欲望や情熱に敏感に反応し、それを賞賛しさえするのです。

しかし、そうした中でも自己肯定を続けるナルシシズムが世界中を支配しているように感じます。こうした現象は、命がけの跳躍が作り出した大規模な現象であり、分裂症的なものだと思います。

『探究』で柄谷が指摘するように、分裂症はナルシシズムに親和的なのです。もちろん、言うまでもなく、この拡大の原動力は、グローバルな消費資本主義の拡大、商品交換の拡大にほかならない。つまり、命がけの跳躍は商品交換を通じて、神経症としての恐慌だけではなく、分裂症を拡大したと言うべきなのです。

NAMと、神経症と分裂症

柄谷行人は、NAMの失敗は、インターネット、とくにメーリングリストを中心にしたことにある、と言いました。しかし、その後の世界動向を見れば、メーリングリストはSNSに姿を変え、世界中にナルシシズムとしての分裂症を拡大したことは言うまでもありません。NAMの失敗の原因は、資本主義の本質を神経症に限定し、分裂症としてのそれを軽視したことにあるのではないかと思うのです。

そして、分裂症としての資本主義は、別の分裂症によってしか克服できないでしょう。ドゥルーズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』とは、まさにそうした動機によって書かれた著作でした。彼らは、そこで資本主義は分裂症に親和的であると同時に、それを瓦解させると主張しているからです。

また、柄谷が資本主義の本質を神経症にのみ見て分裂症を遠ざけたことは、結果として主体を生じさせ、それを強化させました。分裂症が主体性を崩壊に導くのに対して、神経症がそれを強化するのは言うまでもありません。

たとえば、NAMの活動において、柄谷行人は超越論的意識が観念であること、経験的な自己意識ではないことを強調する一方で、資本と国家に対抗するには「中心」が必要だと言い、それゆえ「統覚」が必要なのだといい続けました。それは、「統覚」は経験的な主体性ではない、ということを含んでいます。しかし、彼はNAMの最終局面において、それを自己意識としての、「柄谷行人」と同一化することを隠しませんでした。

アソシエーションと契約

あるいは、対抗運動にはアソシエーションが必要だと言い続ける一方で、アソシエーションには明確な契約が不可欠だという立場に固執していました。そして、その契約とは、彼にとって観念としてあるだけではなく、経験的な事象だった。

このことは、アソシエーションは、たとえばスピノザにおいて、自然=神としての法則が織りなす力の場としてあるようなもの、つまり無限の様態的変容のうちにある有限な様態ではなく、条文や押印などといった経験的表象によって生じる正統性を帯びた組織だった、ということを意味しています。そこには契約という「中心」が、超越的な真理が経験的な領域のうちに存在したのです。

NAMと道徳的な運動

こうした「運動」が主体的な動機に貫かれたものであることは、言うまでもありません。自我と言ってもいい。それによって、NAMは道徳的な「運動」になったと言えます。これは道徳に共鳴する人しか参加し得ない、偏狭な「運動」です。神経症とは、道徳や義務を崇拝する、自己意識の強い人々が陥る疾患であることは、言うまでもありません。

(続く)

(筆・田辺龍二郎)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?