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『探究』をめぐって 3.「教える」立場と資本主義論

資本の運動

マルクスは交換における外部の他者性を明示するという必要から、『資本論』の第1巻を「価値形態論」からはじめました。

外部の他者性とは、ここでは商品が内面を持たない他者のために生産されて、そして交換される、ということを意味しています。他者は生産体制の外部にありますが、しかし同時に商品交換における買い手となることによって、内在化します。

これは、生産体制の外部にある買い手(消費者)が同時に労働者もあることによって内在化する、という意味でもあります。資本の運動は、外部と内部の境界を設定しつつそれを動かすところに生じるのです。これが資本に転化する剰余価値の原点でした。剰余価値が生まれるのは、売るときは労働者は生産者として生産体制の内部にありますが、買うときは労働者は消費者として生産体制の外部にあるというしくみによってだ、という意味です。

ところで、産出された剰余価値は、まず初めに貨幣へと転化します。つまり、貨幣が自己増殖するかに見えるのです。これは、G-G‘(貨幣-貨幣 の交換)という形態において典型的に表れます。

マルクスが繰り返すように、これは資本とは貸付資本である、ということを意味しています。貸付資本においては、貨幣は商品として扱われますが、貨幣が商品となりうるのは、それが剰余価値を生むからにほかなりません。

ここにはG-W-G’(貨幣-商品-貨幣 の交換)を簡略化したG-G‘という命がけの跳躍があります。貸し付けられた貨幣が、生産過程に投下されることによって利潤を生み、それが利子として回収されるには、長い道のりがあると言わねばならないでしょう。

マルクスは、『資本論』第三巻において執拗にG-G‘という形態について論述します。というのも、資本主義社会においては、貸付資本のこの形態が、株式投資と配当の関係にも投影され、それを変質させるからです。

柄谷行人はあちこちの著作において、(純粋)贈与が狩猟採集社会においては構造的な返礼を伴うこと、つまり相互扶助的な交換形態に変形されてしまう、とモースの『贈与論』に言及していますが、マルクスが『資本論』第三巻で述べているのは、これとアナロジカルな事態にほかなりません。

資本主義社会においては、(純粋)贈与としてあったはずの株式投資が配当を伴う商品交換の、つまり貸付資本G-G’の形態に変質してしまうという事態について、その現象を克明に記述しているのです。

贈与が交換に変質する

贈与が交換に変質するという事態は、モースやマルクスが指摘するように、何も珍しいことではありません。社会構成原理として機能する行為としては、当然ながら、交換は贈与に比べてずっと強力なのです。

それゆえ、ある特徴的な形態に社会が構造化され、組織化される局面においては、贈与はその社会において支配的となる交換形態に回収されるかに見えます。古代の狩猟採集社会においては相互扶助的な交換に、近代の資本主義社会においては商品交換に、贈与は変質されます。

しかし、ここで注目したいのは、マルクスが『資本論』第三巻において執拗に述べているのは、この変質、つまり株式投資が貸付資本と同様のG-G‘という形態に変質してしまうプロセスであり、そうした力が働く経済システムについてだ、という点です。

具体的に言うならば、株式が金融商品に変貌し、債券市場における金融商品、つまり貸付資本と競合することによって、それは生じます。マルクスは、資本主義社会は、そうした力が働く資本の運動の表現であり、変容である、ということを述べたかったのです。

このことが、最終的に、マルクスをして、株式会社とは資本主義的生産様式の現実の揚棄である、というテーゼに導きます。マルクスに言わせれば、資本主義社会も共産主義社会も、資本の運動の無限の様態の一つなのです。それは、贈与がどのように変質を受けるかによって区別される様態だ、といっても良いでしょう。

株式会社は資本主義的生産様式の現実の揚棄である

実際、貸付資本、すなわち債権債務関係と資本投資との間には無限といっていいくらいの金融制度があります。

社債は債務にほかなりませんが、多くのケースでワラントという新株予約権が貸し手に特典として付与されます。一定期間は資本と同様に扱われ、その期間が過ぎると負債に代わる資本性劣後ローンと呼ばれる仕組みもあります。これらは総じてメザニン、すなわち中二階と呼ばれる金融制度ですが、これは1階(融資)と2階(投資)の間という意味です。

資本主義社会においてこうした無限の様態が出現するのは、資本、すなわち贈与が商品交換へと変質するからであり、資本の運動がそのシステムを通じてG-G‘という形態に潜む谷間に、つまり命がけの跳躍に、無限を導入するからにほかなりません。

さらにいうならば、債務免除という贈与の形式にも注目が必要です。

債務免除は不良債権処理に利用されることで、信用制度を健全に保つ働きがあります。破産を伴う債務免除なくして、資本主義経済は数ヶ月と持たないでしょう。破産とは信用制度が危機に陥ることを事前に防ぐための、小さな処置に過ぎませんが、債務免除には原則として贈与税が課税されることから明らかなように、これも贈与の一種だといえます。

破産とは贈与の一種なのです

「売る‐買う」という関係性にある命がけの跳躍は、信用を生み出します。そして、この制度もまた無限の様態をまとう。ハーヴェイが指摘していますが、労働者は企業家から支払われた賃金を銀行に預金し、その信用をもとにクレジット会社が消費者金融として買い物資金を消費者に、すなわち労働者に付与します。命がけの跳躍こそが信用創造の、すなわち資本が自己増殖する仕組みの原点であり、ここには無数と言っていいほどの信用制度が創設されうる。

さらに付言すると、制度派経済学に学ぶならば、資本主義社会(ないし資本主義経済)とは、こうした無限の様態としての無数の法制度の集積であり、これが資本の運動の様態である限り、来るべき共産主義社会もこの点で何一つ変わることはないと言えます。だから、制度派経済学は、共産主義経済から資本主義経済への移行を研究できたと言うべきでしょう。

とはいえ、資本主義社会と共産主義社会の間には、おそらく何らかの境界があるだろうし、またあるべきだと言えるかもしれない。しかし、資本の運動は、そうした無限の境界を設定すると同時に浮動させ、その無根拠性を明らかにするのものとしてあります。その意味で、資本主義社会に外部はない。しかし、贈与が資本主義社会における変質とは別の形態を取るとき、資本の運動は別のものに姿を変えたということができるでしょう。つまり別の社会が出現したということができる。

贈与とは、「教える」立場のみに注目した

ここで、大事なのは、贈与とは、「教える-学ぶ」という関係性においていうならば、「教える」立場のみに注目したときに析出される行為だという点です。『探求』において、柄谷行人は「教える‐学ぶ」という関係性と「売る‐買う」という関係性をアナロジーでとらえています。

このことは、「教える」立場と「売る」立場とがアナロジカルな関係にあることを意味していますが、ここで重要なのは、「教える‐学ぶ」という関係性が「教える」立場からとらえねばならなかったように、「売る‐買う」関係性、つまり商品交換は「売る」立場からとらえねばならないということです。

「買う」立場からそれをとらえようとしたとき、命がけの跳躍は消失します。このとき、それは、生産体制の外部にある消費者が労働者として内在化する資本の運動を、つまり剰余価値の産出の原点を見失ってしまうのです。剰余価値を見るならば、「売る」立場、すなわち贈与について注目することが不可欠です。

「商品生産」は「命懸けの跳躍」であり「贈与」形態を変質させる

もちろん、「売る」立場は商品交換において以外にあり得ない。しかし仮に、商品交換に回収される贈与について、商品交換から贈与それ自体を析出したいと考えるなら、資本主義社会においては「売る」立場に執着することによってそれは為されることになるでしょう。つまり、贈与への執着は、資本主義経済においては「売る」立場への執着に結実するのです。

別言するなら、それは、商品生産に執着する、ということにほかなりません。マルクスが資本主義社会について語るのに、価値形態論から始めたにもかかわらず、商品生産への論述に移行したのは、そのためのように思えます。これは、命がけの跳躍に執着することを意味しますが、これこそが贈与を別の形態に変質させる可能性を含むからです。

(続く)

(筆・田辺龍二郎)


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