誰もが生きやすく

太文字になっている記事の部分、弁護士「生きやすい社会制度を後押しするような判断期待」、本当にそうである。

性同一性障害という言葉ももう不要だ。
DSM-5からは削除されているし、性別違和という言葉に変更されている。

性同一性が障害されているという意味で使用していたこともあったが、障害されていてもいいのではないかと思うようになった。
障害されていることは問題ではないし、自然科学的にもおかしなことではない。

何度も書いているが、体の性が自認と異なっているのは多様性だということだけであり、障害ではない。
障害という言葉を使っていては、多様性を認めていないことになるであろう。

性同一性障害という診断さえ、戸籍の性を変更するのに不要だと考えている。
自認の性だけで、法的な診断を変更できる国はある。

さまざまな在り様が認められてこそ、真に多様性が認められている社会である。
私の知っている人たちは、問診票などでもMTFやFTMを記述する欄をつくられている。

体の性と自認する性が一致しているという前提が社会にあることを、一人一人がまず気づき見直さなければならない。
無意識に思い込んではいないだろうか。

性別変更の5番目の要件に、その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていることとあるが、性器で性別を判断する人が多いのはなぜだろう?

性器の性別といったところで、元々男女どちらにも分かれていない人はいるし、事故や病気で変わってしまうこともあるかもしれない。
物質は変化する。
変化するものを、要件の要素に定めるというのは何とも不思議な話である。

自認は変わる人はいるが、個人の内側で発生するものである。物質よりは信頼できる。
大切なものは目に見えないという言葉がある通りである。
多くの人は性別について思い込んでいて、考えたことがないのではないだろうか。
性的指向についても同じであり、異性愛だと思い込んでいる人は多いかもしれない。。

マイノリティーが生きやすい社会とは、誰にとっても生きやすい社会である。

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