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スポーツの楽しさを知る最初の日

 スポーツにまつわる楽しい思い出が少ない。私がかなりの運動音痴であるからだ。短い距離を速く走るのも、長い距離を体力を温存しながら走るのも苦手。運動会では3位以上を取ったことがない。跳び箱は4段が限界。水泳も25 mぎりぎり泳げるかどうか。身ひとつで臨むスポーツですらこうだったので、道具を使うスポーツ、特に球技に関しては尚のこと苦手であった。

 運動が苦手な私にとっての球技の辛さとは、周りに迷惑を掛けているという罪悪感である。例えばマラソンで自分がビリになったとしても、その分相手の順位が上がるだけで誰にも迷惑は掛からない。ところがバレーボールをやらなくてはいけないとなった時には大変だ。割り当てられたポジションで陣地を守らなくてはならないのに、ボールが顔面に近づいてくると怖くなってぎゅっと目をつぶってしまう。目を開けるとボールは地面に転がっている。喜びの声をあげながらハイタッチをしている相手チームの横で、味方チームに「ごめん」と謝る。最初は「ドンマイ!次いこ!」と声をかけてくれるが、ボールを落とすたびに周りの視線が冷ややかになっていくのを感じ取ってしまう。次第にゲームが進み、平等に回ってくるサーブ。私がサーブを打つ番になるということは、相手の陣地にボールを入れぬまま、相手側に点数を入れ続ける時間が来ることを意味する。とっ散らかった方向にばかり飛んでゆくボール。拾おうとコートから背を向けたとき、スポーツの得意な子たちがとうとう耐えられずにクスクスと笑い、その声を耳が拾ってしまう。罪悪感と恥ずかしさと惨めさがどっと押し寄せてくるのが私にとっての球技であったように思う。

 ならば個人種目の球技なら問題ないだろうと思うかもしれないが、迷惑が掛かっているという罪悪感はやはり拭えない。例えば卓球。ラリーは続かず、ピンポン玉を取りに遠くまで小走りしているうちに時間が過ぎてゆく。私と対戦相手になってしまったばかりにゲームにならなくてごめんねと、毎回決まり文句のように言っていた記憶がこびりついている。

 と、ここまで長々と書いたが、それでも私はスポーツが大嫌いにならずに済んだ。アーチェリーというものに出会ったからだ。

アーチェリー (Archery) は弓で矢を射、標的を狙う射撃競技である。日本語では洋弓と呼ぶことで、和弓と区別することもある。

引用元:Wikipedia

 出会いは学生時代の体育の授業。その授業で扱われるまでアーチェリーというものをよく知らずにいたが、体育の先生が倉庫から持ってきたアーチェリーの弓と矢を見た瞬間、これは私の中に罪悪感が生まれることのないスポーツだと確信した。

 アーチェリーとは、静止すればするほど成功するスポーツだと思う。まず弓を引く前の姿勢づくりが重要だ。姿勢をピンと張り、足、腰、肩の三点が一直線になることを意識する。普段から姿勢が良い人なら何てことのない動作だが、いつも猫背な私はこの姿勢を維持するのに一苦労である。ようやく姿勢が安定してきた。肩を下げることを意識しながら深呼吸をすると、もやもやとしていた視界が、スッと明瞭になった。

 姿勢を崩さぬまま、矢をつがえて弓を引く動作へ。私は右利きなので、左手で弓の本体を持ち、右手で弦を引っ張るイメージだ。弓の真ん中に設置されている台座に矢を乗せ、ノックと呼ばれる矢の後端の溝に、弓の弦をカチリとはめる。矢と弦が垂直にセットされていることを確認したら、矢つがえ完了。人差し指と中指の間に矢を挟むようなかたちで弦に指をかける。ゆっくりと両腕を肩まで上げながら、左手で弓を押し、右手で弦を引っ張る。腕がふるふるしかけたが、先ほど先生が生徒たちの前で見せてくれたお手本の動きをよく思い出し、落ち着いて筋肉の震えを抑える。なんとか上手く出来たようだ。

 目線の先には、床と平行にピンと伸ばした左腕、弓の本体を握る手、台座に支えられて放たれるのを待つ鋭い矢の先端、そして的。片目を閉じ、焦点を腕から的にずらす。的は紙製で、立てかけられた畳の上に画びょうで貼られている。的の中央は黄色。黄色を囲む赤の輪、赤を囲む青、青を囲む黒、黒を囲む白。同じ色の輪の帯にさらに境界線の輪が引かれており、それぞれ点数が割り振られている。中央10点、輪が大きくなるたびに1点ずつ減り、最も外側の白い輪のゾーンが1点。それも外れると0点。

 真ん中の黄色を狙いたい。片目を閉じたまま、的の中央に矢の先端が来るように腕の位置を微調整する。位置を決めたらそのまま静止する。今だ。右手の人差し指と中指を弦から静かに放す。弦は弾かれ、矢が勢いよく弓から離れる。

 サクっと鋭い音がした。矢は、左上の黒の輪の位置に刺さっていた。真ん中の黄色では決してないけれど、確かに刺さったのだ。ボール、飴玉、くしゃりと丸めたティッシュ。自分が投げたものはいつも目標の場所まで届かないのが常であった。でもこの弓で放った矢は、向こうの標的まできちんと届いた。実際のところ、体育館裏の狭いスペースをアーチェリーの練習場所にしていたから、的との距離は大体6mだったと記憶している。オリンピックなど正式な競技で行われるフィールドアーチェリーでは、最低でも30 m離れた場所から矢を放つ。5分の1にも満たない距離で矢が刺さったところで本当にアーチェリーを習得できていたかどうか疑問ではあるが、当時の私にとってこれほど嬉しいことはなかった。

 的に刺さる矢を抜き、元の位置に戻ると体育の先生が近くに居た。今まで集中していて気づかなかった。「フォーム、きれいだったなあ」と私に一言だけ声をかけると、先生はふらりと別の生徒が居る方へ歩いていった。

 その日からアーチェリーにのめりこむようになったのは言うまでもない。毎週の体育の時間が待ち遠しくて仕方がなかった。

 静かに、精神を集中すればするほど、矢は的の真ん中に刺さる。嬉しい。こんな経験は初めてだ。向かってくる球におびえる必要がない。息を切らしてボールを追う必要がない。精神を集中している間、静寂が訪れる。その一方で、じわじわと何か熱いエネルギーのようなものが湧き上がってくる心地になる。溜めて、ためて、よしと思った瞬間にパッと矢を放つ。

 弓を射る際に装着する特別な道具もアーチェリー熱をさらに加速させた。数本の矢を入れておく筒を腰につけ、左腕にアームガード、右手には専用のグローブをはめる。チェストガードはなかったものの、これらを身につけると安心感に満ちて、ものすごく落ち着いた。

 アーチェリーは黙々と行われた。高得点を取ったところで、誰かとハイタッチする訳でもなく、ましてや歓声などあがらない。でも、静寂と情熱の混じりあうこのスポーツが私は好きだ。

 初めてアーチェリーというものに触れ、スポーツの楽しさを知った日。あれから一気に才能が花開き、私は今、オリンピック・アーチェリー競技代表選手最終選考会のグラウンドに立っている…

 …という結末ならば、最高のお話であっただろうが、残念ながら現実はそうではない。当時は目指したい道が他にあった上に、趣味の範囲で道具一式を揃えられるほどの財政力が無かったことから、大好きなアーチェリーを続けることは出来なかった。

 しかし、アーチェリーのおかげで、球技を含めたスポーツ全体を忌み嫌わずに済んだ。ほかのスポーツでクスクスと笑われたって、私にはアーチェリーがあるからいいと思えた。スポーツ観戦を積極的に楽しめるようになったのも、アーチェリーを通してスポーツの面白さと奥深さを知ることができたからだと思う。数は少なくても、鮮明に蘇る大切な思い出が一つでもあれば、充分に日々を過ごせるようだ。

 オリンピックなど公式の大会でも、アーチェリーの選手達は黙々と弓を射る。獲得点数がリアルタイムで示されるので、矢を放つ度に観客席からは歓声があがるが、他のスポーツと比べると控えめに観戦しているように思う。常に声を張りながら応援したい者にとっては、少し物足りなく感じるかもしれない。でも私は、やっぱりアーチェリーが好きだ。選手が弓を引いて、じっと的を狙うその一瞬、応援側の私にまで静寂が訪れる。と同時に、じわじわと熱いエネルギーまで湧き上がってくる。





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