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いっぱいの肉体と本物の感情:岬の兄妹

この映画を、口に入れるものにたとえるならばなんだろうなあ、と考えていた。強いていうなら、鶏胸肉か。この白いのは、管か、血管なんだろうか。このぶつぶつのあるところに、羽が生えていたのか。目の前いっぱいに、むちむちと広がる肉。そういう、生き物の雰囲気。血の気配。おそろしくてコミカルな、あの感じ。味で言えば、ヤギ乳みたい。立ち上る獣の香り。いつまでもしつこく口の中に残る。

映画.comより、映画のあらすじを引く。

ある港町で自閉症の妹・真理子とふたり暮らしをしている良夫。仕事を解雇されて生活に困った良夫は真理子に売春をさせて生計を立てようとする。良夫は金銭のために男に妹の身体を斡旋する行為に罪の意識を感じながらも、これまで知ることがなかった妹の本当の喜びや悲しみに触れることで、複雑な心境にいたる。そんな中、妹の心と体には少しずつ変化が起き始め……。

(公式サイトでも使われている表現なのだけど、上記のあらすじの「本当の喜びや悲しみ」という表現が気になる。それについては後述するので一旦置いておく。あ、カバー画像は、公式サイトからお借りしてるものです(今更))

観ているあいだじゅう、様々な疑問が炭酸のようにしゅわしゅわと湧いてきた。

例えば、「性にはなぜ高い価値がつくのか」について。
造船所の食を失った良夫は、ティッシュに広告を入れる内職をする。1つ、1円。真理子の体を自由にする権利は、1時間、1万円。

努力して手に入れたわけではない、ただそこにある肉体を売ることに高い価値があるのは、なぜか。
売春はすべきでない、のは、なぜか。
なぜ、見ず知らずの人に体を許すこと、誰でもいいというスタンスが、悲しいことで恥ずかしいことだとされるのか。
売春している本人が気持ちが良くてもだめだとされるのは、なぜか。
性と尊厳が強く結びつけて考えられるのは、なぜか。

例えば、「真理子の本当の喜びや悲しみ」について。
最初から最後まで、「真理子は、何を考えて生きているのだろう」と、そのことが気になった。もちろん個人差はあるだろうけど、自閉症の人の感覚について、知りたいと思った。
花火を見て、「きれいね」という真理子。彼女は、きれいだと思ってそう言っているのか、こういうものを見たらきれいだと言うと、刷り込まれているからそう話すのか。仕事のセックスをしながら、「私のこと好き?」と聞く真理子。人に好きになってほしいのか。彼女の中の「好き」とはなんなのか、好きな人に何かを望むのか、望むとしたら何を望むのか。
彼女が、道路いっぱいに手足を広げて泣き叫んだのは、なぜか。
そもそも私が感じている、と自分では信じている感情は、「本当の喜びや悲しみ」なのか。「偽物の喜びや悲しみ」とはなにか。

例えば、「人間の美しさとは何か」について。
例えば、「自分で自分を世話できない人が、生きる意味」について。例えば、「自分で自分を世話できない人が、子供を持つこと」について。例えば、「正しくない、とだけ指摘するけど、その正しくない道から引っ張り上げる労を執ることは決してしない人たち」について。「二人のお母さんは、何を考えてどんな人生を送ったのか」について。

疑問に次ぐ、疑問。これは、危険だ。

私は基本的に、出口のない疑問を考え続けないようにしている。例えば、祖母の認知症のこと。なんで人間は、死ぬ間際に自分の人格をぽろぽろこぼしていかなくちゃいけないんだろう、ということ。一回手に入れた「できること」を、また手放さなくちゃいけないのか、ということ。

なんで、と思ってもそこに理由はない(たぶん、理由がないことにやりきれなくなった先人たちが苦心して生み出したのが、宗教なんだろう)。

出口のないトンネルはただ暗いから、居続けるとおかしくなりそうになる。頭が痛くなる。

それでも、時々そこに潜りたくなってしまう。
なんでだろう、そうせずにはいられない。

目を背け続けることが、できないのだ。


【その他1】
印象的なシーンが多い映画だった。
まず、真理子の入浴シーン。唐突である。唐突にあの存在感。滝のような髪の毛。
しげる。特にガムテープの貼られたしげる。
肇くんと口論するシーン(近すぎ)。
良夫が公園をエンジョイするシーン(ぶつ切りされる音楽が怖い)。
中学生?に上から目線でにやにやする良夫の、うざさ(の輝き)。
真理子を買ったおじいちゃんが言う、「じゃん」(ぐっときた。あのシーンは真理子もよい、とても)。
造船所の人が良夫を連れ戻しにくるシーン。離れていくカメラの揺れ方で、あ、これはフィクションなんだった、とふいに思い出せた(あれがなかったら危なかったかもしれない、向こうの世界に引き込まれすぎて)。
肇くんが真理子の肩を抱くところ(ほんとは性的な目でみてるのかしらと私は思ってしまった。肇くんはとてもよい脇役だ)。
あのシーンでずっと流れ続ける水(お願いだから止めてくれー心に残っちゃうじゃないかー)。
そしてやっぱり、道路で真理子がばたばたするところ。圧倒的な手足。ただそこに真理子がいるだけなのに、語られるものが多すぎて、見入ってしまった。
あと、タイトルの書体も気になったな。え、この感じ?意外!なぜ!と思ったわ。

【その他2】
他の方はこの作品について何を書いてるのかなあ、と思って検索したところ、碇本学さんのnoteにたどり着いた。

「コンプラどうこうみたいなことを言う製作委員会もなんにもわかってない広告会社も関わってないから、ここまでできるのか! と観た人は思うだろう。」とあったが、そういうことをまったく考えずに作品を観終えた。そうか、ここで描かれているようなことは、描けないのか、多くの日本の映画では。漫画や小説の表現に慣れすぎて、そういう感覚はなかった。noteを読んでいると、表現の受け取り手としてレベルの高い人がわんさかいるから、それに応えられるものが当然用意されているという気持ちになる。世の中全般で見れば、みんなやらかいもが食べたいんでしょう!ムードが主流なのか。どうか、日本の文化が細りませんように。

皇室の人々が視察にみえるときにはホームレスの人たちが隠される、という話のことを、なんとなく思い出した。

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