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『メンヘラ』は諦め 『ヤンデレ』は憧れ

旅は道連れ
たけやさおだけ




自分軸だと。
主体性が生まれて生きづらさから抜け出しやすい。

他人軸だと。
他人の評価に依存し振り回されて生きづらさを感じやすい。


『メンヘラは他人軸の典型例』って話をどこかで聞いた。

その話を聞いて、ふと。

「ヤンデレって極端な自分軸なんでは?」

そんな考えが降ってきた。




個人的なメンヘラの定義。

『自身の内面からの価値は皆無だと思っていて、他者への依存が唯一の拠り所になっている状態』

とにかく相手が全て。
相手の行動態度ひとつひとつにとても喜び、そしてビクビクしてしまう。
自己肯定感がとても低く自分には一切の価値がないと思っているため、お金とか容姿とか体とかいった外的要因での価値を提供するしかないと思っている。
外的要因だけで繋がっている相手のほうがむしろ納得できる。

だから、内面を好きになってくれた相手と付き合ってしまうと混乱する。
納得できない。理解できない。気持ち悪くなる。
「中身こんなカスなのにそこが好きってなに? は? 意味わかんない。え、無理」
ってなって続かない。

雑な扱いをしてくれる人のほうが安心できる。
外的要因で繋がってくれる相手のほうが安心できる。
でも暴力(物理的精神的どちらでも)を受けて納得する感情と、傷付く感情が同居するからこちらも負荷は半端ない。
つらいしんどい。
ヒスりたい。


『メンヘラ』の四文字の中にこれくらいの情報量が自分の中では詰まっていて、言葉の説明が難しいととるか、この一言でこれ全部伝えられるから楽ととるかはどっちなんだろうわかんないや、とそれはそれ。


さて、『ヤンデレ』。

一昔前に流行った○○デレの流れで生まれた属性。

メンヘラが実在の人に向けることが多い言葉なのに対して、ヤンデレは元の○○デレシリーズからもフィクションのキャラクターに使われることが多い言葉だった。

今ではすっかり使われなくなった概念な気はするけれど、『一昔前ならヤンデレ枠だったろうなこのキャラ』みたいな感覚はちょくちょくあって、
ヤンデレ→メンヘラ
の系譜はフィクション界隈ではあるのかもしれないと思ってた。
他人にすごく依存してるし、病んでるし。

時代の変化でヤンデレといった属性がメンヘラに姿形を変えていった

──とかぼんやり思っていた頃もありました。



「ヤンデレって極端な自分軸なんでは?」



そもそも根本から全くの別物かもしれないこれ、と。
自分軸と他人軸について考えていた時にふと思った。


ヤンデレも確かに他者──特定の個人に強い依存をしている。

でもその相手の一挙手一投足に振り回されるかといえばむしろ逆で、好きな相手がどんな態度や言動をしても問答無用で満たされる。

視野狭窄。
小さなこの世界がすべて。
ではあるけれど、自分の中での『好きな人』の像が明確であり、ブレず一貫性のある行動を取る。
与えられるものに依存しているように見えて、実際は自分の内側から湧く感情で満たされている。
ぶっちゃけ相手のことを見ていない。

よく自己肯定感の低い人の心を穴の空いたバケツに例えることがあるけれど。
メンヘラの場合はただでさえバケツに穴が空いているのに、そこに入れる水が『承認欲求』っていう長続きしないもの。
すぐ蒸発してしまう水を注ぐものだから、それはもう満たしようがない。

対してヤンデレはバケツは頑丈だし、注がなくても勝手に中から水が湧き出すから、そりゃ活き活きしてるわけですわね、と。

うーん。
これは確かに自分軸すごいわ。主体性の塊ですわ。ヤンデレとメンヘラって根本の在り方が違うわ、と。

そりゃヤンデレはフィクションの中の存在だからね、と思っていたけれど。

実在の現象で表すなら『信奉』『狂信』あたりが当てはまる気がする。
だいぶ丸く言って『憧れ』。強火どころの話じゃないが。

フィクションでは愛情にフォーカスして描写される属性だけれど『好きな人』といった個人相手だけじゃなく、『思想』『宗教』あたりに強く執着してる状態もまたフィクションから飛び出したヤンデレなんだと思う。

メンヘラ以上に日常でその状態の人と出くわす機会が少ないってだけで、実在はする概念ではあると思う。

実際、なにかに執着して打ち込んでいるその本人を遠くから見る分には幸せそうだし。


他人軸にも『楽になる』ってメリットがあるし、そもそも自分軸or他人軸、どちらか意思で選択するものってよりかは、自然に働く防衛本能みたいなものだとは思う。



とりあえず、未来日記の由乃の主体性って凄まじかったよなぁってことが言いたかった。

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