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デカルトについて誤解していたのかもしれない。

野田又夫さんの「デカルト」を読んでいる。デカルトの生涯とその思想をわかりやすく解説してくれている良書だと思う。

デカルトといえば、「我思うゆえに我あり」という言葉。精神を身体から分離して、この世界を「精神」と「精神が意味づけるもの」に分けた。
精神を高位な位置において、精神をもってこの世界を徹底的に利用しようという機械論的、原子論的な世界観をつくった。これが科学という営みにも繋がっていったのだろうと僕は解釈している。

世界を捉えるとき、人の感覚は当てにならない。人は見間違えや聞き間違え、記憶違いをしょっちゅうするからだ。だから、感覚を排除して、論理や数学でこの世界を描き出すというのが科学の営みである。
デカルトはこれを徹底して主張していたのだろうというイメージがあったのだが、野田さんの本を読んでいると、どうやらそうでもなかったらしい。

(デカルトの考えは)もっと人間的状況に即してみとめられた二元論であります。すなわち、一方自己が世界を客観的に見据える科学的知性を行使するとともに、他方その自己はそういう世界の中で自由に意志的に決断する、という、知性的客観性と意志的主体性との二元論であります。(デカルト,野田又夫)

僕は常々、論理とか合理は不自然なものだと考え疑ってかかるようにしている。最近うちの会社でも効率が大事だとかって言って数字で一人一人評価しようとするシステムをつくっている。
それ自体はこの資本主義というルールの中では理に適ったシステムなのだが、これは結果として代替可能な人間を生み出してまうと僕は考える。僕たちはシステムを動かすための歯車に過ぎないのだ。歯車だからいくらでも替えが効く。自分は替えが効く人間だと言われて嬉しい人は居ないだろう?

話が逸れたので元に戻そう。つまり上の引用にある「知性的客観性」で世界を描いていくと、僕たち個人がなぜか代替可能な個人へと変わっていくのだ(ここの論理的な説明をいつかしたいと思う)。そして近代以降、世界中でこの営みが行われてきたのだ。
それ自体は人類に繁栄をもたらした。種の保存を生物の第一義とするのであれば、大成功だ。日本も例外ではない。明治維新以降、こうした近代的な思想を取り入れ、瞬く間に世界の列強国に仲間入りを果たした。これは紛れもなく科学技術のおかげ、つまりは「知性的客観性」のおかげだ。

そして現在、世の中は代替可能な個人で溢れかえっている。経済発展も大きくは進んでいない。貧困世帯が増えている。生き甲斐の無い若者が増えている。この現状を打破するのが、デカルトの言う二元論の片割れである「意志的主体性」ではないだろうか。
世界は科学だけで描けるものではない。昨年のノーベル賞は複雑系の科学に送られた。ある意味「科学の限界を科学すること」を科学界が認めたのだ。
この世は多様な価値観がある。科学を生み出したのはキリスト教だが、イスラム教も仏教も儒教もヒンドゥー教もある。これらの世界観を理解するというよりは、どれを選択するかの方が大事なのだ。それを選択するのが「意志的主体性」である。

僕たち日本人はその「意志的主体性」をもって何を選択すればいいのだろうか?僕は宗教あるいは思想を自分に根付かせることが必要だと考えている。これについてはまた別で記事を書きたいなと思う。
野田さんは、今一度デカルトの思想まで立ち帰ることを訴えている。デカルトの二元論はただの物心二元論ではなかった。とても人間味に溢れ、現代を生きる僕たちが忘れてしまった人間の主体性に気が付かせてくれる。野田さんもここを強調したかったのだろうと僕は解釈している。

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