もうちょっと自分を信じてみようと思った話
今日、夏休み前最後の学校でした。
あっという間に時間がすぎ、気付けば帰りの会です。
いつも通り帰りの会が進行される・・・かと思いきや、数人の児童が立ち上がり、急にこんなことを言い始めました。
「自分達、4年○組はたくさん努力をしてきました・・・」
私は、これは記録しなくてはならないと思い、すぐにタブレットを手に構え、録画を開始しました。
しかし、子どもたちが続けて話した内容は意外なものでした。
「でも、一番努力していたのはPu先生です。」
「え?俺ぇ??」
間抜けな声が録音されてしまいました。
その子達は、
私が授業ノートを毎日作って授業に臨んでいたこと
そのおかげで授業が楽しかったこと
数えきれないほどの努力をしていたこと
そういったことを述べた後、みんなで拍手をしてくれました。
私は、こんな子ども達の行動を目の当たりにして感動・・・
ではなく、びっくりしすぎて頭が真っ白になっていました。しばらく脳は麻痺し、変な反応になってしまいました。
そして今、じわじわと喜びが押し寄せてきています。
実は、素直に喜ぶより前に、うじうじとこんなことを考えていました。
・「児童に褒められる先生ってどうなの?」って言われそうだな
・「児童が自分の頑張りよりも、先生の頑張りを評価するのはまずいよ」って言われそうだな
って。実は以前、以下のようなことを言われたことがあったんです。
「Pu先生は子どもに”尊敬する”って言葉をよく使うけど、”尊敬”って言葉は目下の人が目上の人に使う言葉であって、先生が子どもに使う言葉じゃないよ」
って。私は「そうなのかあ」と思いつつも、「まあそうなんだろうな」と思って、”尊敬”って言葉を使うのを避けるようになりました(でも、やっぱり出てしまう時はありましたけどね)。
だから、今回の児童の計らいを素直に受け取れない自分がいたんです。「あなたが子どもに”尊敬”なんて言葉を使うからだ」って後ろ指を指されそうな気がして・・・。
きっとそうです。僕が子どものことを一人の人間として接し、自分にはできないことを尊敬の言葉として伝えたから、子ども達も僕の頑張りを尊敬の言葉として返してくれたのでしょう。
でも・・・それって悪いことなんでしょうか??
「いや、そんなことはないはず」
って今は思っています。
相手が先生であれ、子供であれ、尊敬できるところは尊敬し合い、お互いを認め合う。そこに立場なんて関係ないはずです。
そして、子どもたちが見てくれていたのは僕の能力ではなく、能力の使い方、頑張り、努力です。
先生が頑張っているところを子どもが見てくれている。そして、それを伝えてくれる。それって、子どもにとって悪影響でしょうか?
そんなことはないはずです。
僕はこの1ヶ月、たくさん改めるべきところを指摘されました。
もちろん、そのほとんどが未熟な部分だったし、改めるべきところでした。
でも・・・全てが間違っていたわけではないと、今日一日過ごしていて感じました。
子どもたちが私に対して、尊敬の言葉をかけてくれる。それは即ち、他人をリスペクトする素地が身に付いているってことです。
これは、私が彼らに尊敬の言葉を使い続けたことによる成果である・・・と、そう受け取っても良いですか??笑
そう受け取ることにします笑
僕は未熟だけど、全てが間違っているわけではない。子どもたちの姿がそれを物語ってくれたような気がします。
だから、僕はもうちょっと自分を信じてみたいと思います。
あー危なかった。今日のことが無かったら、大学時代に抱いた理想を全て手放してしまうルートに入っていたかもしれません笑笑
自分を信じ続けることの難しさを、この4ヶ月間で学びました。
よーし!理想を現実にするために、夏休みたっくさん学んで、たっくさん遊ぶぞー!!
完全に余談です。
子どもたちは僕のことを「努力している」と褒めてくれましたが、特段僕が頑張っているわけではないんですよね。
むしろ、サボる方法ばっかり考えているのはいつも記事を読んでくれている人なら知っているハズです笑
では、なんで僕は頑張っているように見えるのでしょう?
それはきっと、ポンコツで隙だらけだからなんだと思います。
リヴァイが巨人一体倒しても「頑張ったねー」とはならないけど、アルミンが倒したら「すごい!頑張ったね!」ってなるじゃないですか??
ポンコツって、結構得なのかもしれません笑笑
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