「僕には持論があってね。期待ほど重い呪いはないよ。」〜主体的に生きるために〜
7つの習慣のうち最初にして、僕が最も大事だと思う習慣。
「主体的に生きる」
僕は今年度これができていたでしょうか??
概ねできていたと思います。
刺激への反応を自分で選ぶことを意識できました。「授業で指摘を受けた」→「ありがたいアドバイスをもらった」「トラブルが起こった」→「子どもが成長するチャンス」と事実への反応をポジティブなものにしました。さしずめ気分は無下限呪術師です。どんな刺激も僕を傷つけることはできません。不可侵のバリアが体を覆っているので。
自分の影響の輪を広げることにだけ集中し、他人や状況や環境など変えられないものに労力をかけませんでした。とにかく自らの人格や技術を磨くことに専念しました。
ただし、この「自分の影響の輪を広げること」に関して、ここ最近葛藤があったんですね。「2年目教員として結果を出すこと」と「2年目教員として成長すること」この2つのバランスで苦しみました。「自分のために子供と接することを蔑ろにしている。」こういう感覚があったんです。
だからもう一度「7つの習慣」を読み直していました。自分のこの葛藤がどこから生まれているのかを明らかにするために。
そしたら割と早く明らかになりました。結論から言うと、「自分自身へのリーダーシップが間違っていた」ことから葛藤は生まれていたのです。ヒントは「第2の習慣 終わりを描くことから始める」にありました。
皆さんはリーダーシップとマネジメントの違いをご存知ですか?この二つは混同されがちですが実は明確な違いがあります。
リーダーシップとは正しい方向を見定め、進む方向を決めることです。
マネジメントとはリーダーシップで定めた正しい方向に、確実に向かう営みです。
正しいリーダーシップが発揮されなければいくらマネジメントが素晴らしくても素早く間違った場所に辿りつくだけです。僕は、この状態に陥っていました。正しいゴールを見失っていたために、間違えた場所に向かおうとし、苦しくなっていたのです。
僕は正しいゴールを定めたはずでした。ミッションステートメントです。僕のミッションは「周りの人をポジティブにすること」であり、それを教員としての行動目標に落とし込んだものが「楽しくて、子どもが成長する授業ができる教員であること」でした。
結局この目標が僕の中でぶれてしまっていたんですね。
以前お世話になっている大学教授にこう言われました。
「Pu先生は○○県を背負って立つ先生になる」
学年主任の先生にこう言われました。
「あなたは素晴らしい先生です。いつかうちの孫をうけもってください。」
教頭先生にこう言われました。
「来年は研究主任やる??(多分冗談)」
「学校に欠かせない人材になったね」
どれも言われてすごく嬉しかった言葉です。だから、「このような期待に応えたい。」そう思いました。期待に応えることを目指して自分をマネジメントしていきました。
一見どこも問題がないように思えます。「期待に応えたいから頑張る。」これは自然なことのように思えますからね。
でも気をつけてください。これ罠です。今の僕には断言できます。
事実、僕は行き詰まりました。急に頑張るのがしんどくなりました。でも、頑張りが習慣化しているため、これを止めることができません。その結果、「2年目教員として結果を出すこと」と「2年目教員として成長すること」この2つのバランスに苦しむという、本来同じ土俵にあることを分けて考えて悩むことになりました。
「主体的に生きる」の対義語が「反応的に生きる」ということです。「反応的に生きる」とは、あらゆる自分の判断が他人や環境に影響されている状態です。
僕は「反応的に生きる」状態になっていないでしょうか?
なってますよね。他人の期待に応えるために、自分をマネジメントしているのですから。
僕は
「○○県を背負って立つ教員」
「学年主任の孫を受けもつに相応しい教員」
「研究主任」
「学校に欠かせない教員」
になりたいわけではないのです。
僕が目指しているのはあくまで「楽しくて、子どもが成長する授業ができる教員であること」です。これが僕が主体的に決めた僕が進むべき道なんです。
きっと「他人が決めた目標」に従っていても「僕が決めたミッション」に従っていてもマネジメントの仕方は同じだったでしょう。どちらも大きく捉えれば「授業が上手になること」が目標です。あまり大きな差ではないと感じるかもしれません。
でもこれが、びっっっっっくりするくらいの大きな差なんです。きっと行き着くところも全く違いますし、事実として心境が全く違います。進んでいる方向がずれているのに気づいたその瞬間から、2年目教員として結果を出すこと」と「2年目教員として成長すること」ことの悩みから解き放たれました。
今思えば他人の決めたゴールに向かうことが苦しくなって、逃げたくなって、こんな悩みを作り出していたんだろうなって思います。
それだけ「主体的に生きる」ということは大切なことなんです。僕は自分自身の経験からこれを実感しました。
西加奈子さんの小説「サラバ」にはこんなセリフが登場します。
僕はnoteの中でこの言葉を度々引用していますが、過去の引用とは言葉の解像度がまるで違います。
僕はこの言葉を常に意識し、ゴールがずれないよう、意識して生きていこうと思います。
ここまで読んでくれてありがとうございました!!
補足ですが、僕は別に他人に期待することが悪いとは微塵も思っていません。実際、今回僕に期待の言葉をかけてくれた先生方は何も悪くありません。
ただ僕の受け取り方が悪かったです。勝手に「こうならないと」と思ってしまった。ここが大きな間違いでした。
皆さんもこの罠に引っかからないように生きていきましょうね!!
さらに補足です。「期待をかけることは微塵も悪くない」とは言いましたが、「期待の仮面を被ったコントロール」は本当に良くないと思います。
「このようになった方が自分に都合がいいから期待の言葉をかけておこう」
これはマジで相手にとって呪いになると思います。
自分も子どもにやりがちです。その奥で子どもは苦しんでいるかもしれません・・・。気をつけないといけないですね!!
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