学校における正義とは何か?
僕が児童を叱りきれない理由の一つに「正義が何か分からないから」っていうのがあります。
例えば、授業中にノートを取ってない子がいるとします。
叱っても良い場面だと思います。
ただ、その子は以前授業をなかなか受けられていなかった子です。
教室にちゃんと居て、ふざけずに机に座っているだけでも偉いと思える子です。
その子に無理やりノートを取らせることは果たして正義なのか。
また子どもを人格をもつ一人の人間として見た時に、子どもの意に沿わないことを無理やりさせることは果たして正義なのか。
そんなことばかり考えてしまいます。
先生の叱るという行為はある意味刑罰を与えるという行為です。
そして、刑罰には何かしら根拠がなくてはなりません。
その根拠を正義だとします。
先生は何を正義として子どもを叱っているのでしょうか?
「自分がそう育ったから」
「常識的にそうだから」
「大学でそう習ったから」
いろいろな答えが返ってきそうですが、僕は面倒臭い性格なのでそれでは納得できません。(自分でもダリィです😭)
というわけで、今回の記事では僕は何を正義として子どもの教育にあたっていけば良いのかということについて考えていこうと思います!!!
では、よろしくお願いします!
まずは学校教育の大義について考えます。
教育基本法に教育の目的がこのように述べられています。
その目的を達成するための目標が以下の通りです。
続いて、学校教育法です。義務教育の目的がこのように述べられています。
これらを見ると、学校教育の目的は何かしらを「養う」ことみたいです。
ここで一つ生じる疑問として以下のようなものがあります。
これらの資質・能力を養うのは「社会全体の利益」、「個人の幸せ」、どちらのためなのかという疑問です。
みなさんはどちらだと思いますか??
僕はどっちもだと思っています。
ただ、どちらの比重が大きいかと言われると前者の「社会全体の利益のため」なのかなって思います。
もし前者ならば、功利主義的な考えですよね。要するに、より多くの人がなるべく大きな幸福を手に入れられるように・・・という考え方です。
国民全員が真っ当な教育を受けて、多くの人が上記のような資質・能力を身につけられれば社会は安定し、経済も成長するでしょう。
そうすれば結果的に、多くの人が幸福を享受できるわけです。
そう考えたら、”社会全体の利益のために学校が存在する”と言っていいかもしれませんね。
ただし、この考え方をリベラル主義的な立場から見てみるとこんな批判が出てきそうです。
人が何を学び、どのように成長していくかは自由なはず。なんなら、どんな人間を理想の人間とするかも自由なはず。そうであれば、国が勝手に定めた理想的な人格や資質・能力を押し付けられるのはおかしい。
こう言われたらその通りのような気もします。
ただし、上記のような資質・能力は普遍的に大切だと思われるような資質・能力のように思えます。
試しに、学校教育基本法二十一条に書かれている資質・能力を備えていない人間を想像してみましょう。
一 学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
→法律を守らない。社会道徳を無視し続ける。社会に無関心で、自分が良ければそれで良い
二 学校内外における自然体験活動を促進し、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。
→命を大切に思わない。
三 我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
→自分以外の文化の存在を認めない。
こんな人たちが社会に増えたらどうでしょうか??社会は崩壊し、きっと誰も幸せになりません。
なので、学校教育法に書かれていることは別に押し付けても良いのではないかなと個人的には思います。
この資質・能力を身につけることが、結局社会の一員として活躍できることに繋がり、結果的に個人の幸せにつながっていくのではないでしょうか。
だから、学校教育法は先生の正義の指針になりうるものだと思います。
ですが!!!
皮肉なことに、学校という場所が学校教育法に書かれている資質・能力の向上を妨げている可能性はないでしょうか?
その可能性を探っていきます。
皆さんは、一番怖い人間ってどんな人間だと思いますか?
僕は、自分なんてどうでも良いって思っている人間だと思っています。
彼らは無敵です。
嫌われようが、傷つけられようが、なんなら命を落とそうが、意に介すことがありません。つまり、なんでもできるんです。
こんな人間が、先ほど述べたような社会道徳を無視し続けるような人間になっていくのだと思います。
こんな人間はどうやって生まれるか。
愛情を受けなかった。
否定され続けた。
肯定された記憶がない。
このようにして生まれるのだと思います。
そして、学校はこのような経験を多くさせてしまう危険性を孕んでいます。
愛情を受けたくても、先生はたった一人。自分だけを見てくれるわけではない。
自分より優れている人がたくさんいる。だから、注意されることも多いし、勝手に自己否定だと感じてしまう。
こんなことが日常的に起こり得ます。
また、ある本にこんなことが書いてありました。
これ、本当にそうだと思います。
そして、それは小学校という社会にも当てはまります。
6歳までに得た資質がたまたま学校という社会に適していた子どもは学校でもどんどん伸びていきます。肯定される経験も多いため、自然と学校教育法に書かれている資質・能力をもった子に育っていくのだと思います。
一方で、6歳までに得た資質が学校という社会に生かせない子どもはどうでしょうか?
否定される経験ばかりが積み上がり、毎日自信を失い続ける日々・・・。そんな中で、どうやったら学校教育法に書かれている資質・能力が身についていくのでしょうか?
12年間もそんな環境下で育った子どもに身についているのは、そんな資質・能力ではなく、やり場のない、自分でもなんなのか分からない怒り・恨みだけでしょう・
そしてその正体は、おそらく社会への恨みなのでしょうね・・・。
その恨みの正体を彼らが認識した時、反社会的な行為として社会を襲ってくるのだと思います。
これが、学校が抱える学校教育法に書かれている資質・能力の向上を妨げている可能性があるという問題です。
最初に述べた具体例を再び紹介しようと思います。
例えば、授業中にノートを取ってない子がいるとします。
叱っても良い場面だと思います。
ただ、その子は以前授業をなかなか受けられていなかった子です。
教室にちゃんと居て、ふざけずに机に座っているだけでも偉いと思える子です。
改めて考えます。
その子に無理やりノートを取らせることは果たして正義なのでしょうか?
学校教育法に書かれていることを正義とするならば、無理やりノートを書かせることは正義と言えるかもしれません。
しかし、一方でこの子に無理やりノートを書かせることは先ほど述べたような問題につながるかもしれません。
では、ここでノートを取らせないという決断をした場合。それで解決なのか。
否。更なる問題を巻き起こすと思います。
まず、これは問題を先送りにするだけであるということ。
さらに、それを見た周りの子の反感を招き、結局否定される経験を増やしてしまうことにつながること。
っていうことになってしまいます。
難しすぎるだろ!!!!先生!!!
ちょっと話を戻しますね。
先ほどこんな主張をしましたが、こういう子が増えていると思います。
先生なんていなくても、勝手にいい子になっていくだろう。そんな子です。
全く真逆の子も増えています。
先生が何人も関わってあげないと、反社会的な子どもになってしまうかもしれない。そんな子です。
何が言いたいかというと、学校が合わない子が増えているような気がします。小学校入学時点から。
この学校が合う子と合わない子、格差はもはや一つの教室内で、相入れないところまできていると感じます。
後者のような子には、従来の先生のやり方ではもう通用しないのではないかと思います。
学習内容をいくら押し付けたところで、そういった子たちには届きません。だって、その子たちにとっては学校が合っていないから。
魚が陸にいるようなものです。
前者のような子たちにが必要とする教育と、後者のような子たちが必要とする教育はもはや別物なのではないでしょうか?
従って、適応される正義もちがうのではないでしょうか?
「学校における正義とは何か?」
そんなデカすぎるテーマを考えてみました。
結論は
子どもによって違う。
正義が学校内に、なんなら教室内に共存する。
だから先生は難しい。
です。
ちくしょう。解決しなかった。
実はこの頃、信じられる絶対的なものがないことに悩んでまして・・・。
先生をしていく中での正義というかなんというか・・・。
アドバイスいただいたり、色んな本も読んでみるのですが、どれも正しいような気がして・・・。
宗教がまだまだ機能していた時代は学校も楽だっただろうな・・・。
僕も、何か「これに従っておけば良い」みたいなのが欲しいな・・・。
正しさとは、自分のことを強く信じること
強さとは、自分のことを信じ抜くこと
昔はなんとも思っていなかった言葉ですが、今はこの言葉が刺さります。
多分僕は、人からの批判が怖くて、誰かから否定されるのが怖くて、何かを信じ抜くことができていないのだと思います。
弱いなあ。
強さが欲しいなあ。
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