”自分のため”>”子どものため”
一生懸命なのかは分かりませんが、教師力を高めるために、色々考え、実践してきたつもりです。
でも、私の目からは
子どもの姿が抜け落ちていた
んです。
教師力を高める動機は、もちろん”子どものため”でした。
子どもが楽しいと思える学級を作りたい
子どもに自分を好きになってほしい
子どもが異なる他者と協力できるようになってほしい
子どもの自己実現のためのお手伝いがしたい
そう願って、実践例を探したり、取り組みを考えたり、勉強したりするわけです。
そして、いざ実践、となったときに反応が良くなかったとしましょう。その時自分はどんな気持ちになっていたか。
「なんでちゃんとやってくれないんだよ!」
こんな気持ちになります。もちろん口には出しませんが。
ここで、「あれ??」ってなりません?
何でこの人、自分の願いを勝手に児童に押し付けて、それが上手くいかなかったらキレてるの?
そうなりませんか?
指導で「成功した!」と感じた時にも同じことが言えます。
例えば、昨日「子どもは泣かせたら勝ち」という記事を出しましたが、これが良い例です。
「子どもが泣く」=指導の成功だと思っていた私は、その指導に成功したとき勝手に悦に浸っていました。私の目に子どもの姿は映っていません。ただただ、自分の思い通りになって嬉しかっただけです。
では、なぜそんなことが起こってしまうのでしょう。
典型的な目的と手段の入れ替わりです。
目的が
「子どもの成長を促すこと」
手段が
「先生としての力をつけること」
だったのが、いつの間にか
目的が
「先生としての力をつけること」
それを見取るための手段が
「子どもの成長」
になっていたんです。
だから、一つの指導の成功、失敗に一喜一憂していました。
でも、そんな自分の目に子どもの姿は写っていませんでした。
愚かなり・・・T.Puよ・・・。
ではなぜこのような現象が起こってしまうのでしょうか?
これは、私が成長を求める立場でもあり、同時に成長を求められる立場でもあるからだと思っています。
結局、私自身が成長することが子ども達の成長につながります。それが一番手っ取り早いのです。
なので、さまざまな方面から成長を求められますし、先生方も手厚くフォローしてくださいます。
なので・・・、目的が自分の成長になってしまっていたのかもしれません。
いや、違う!!
環境や他人のせいなんかじゃないぞ。
「他の先生に認められたい」
「管理職に褒められたい」
「早く実力をつけて、安心して学級経営ができるようになりたい」
「この先生すごいって思われたい」
「できなくて、怒られたくない」
「他の先生の迷惑になりたくない」
そんな思いがあるからでしょ?何を、正論ぶって自分を守ろうとしているんですか!
そうです。多分僕は、自分の実力を高めて、優れた実践をして、評価してもらいたいというエゴのために、ある意味子どもの状態を自分の実力証明として考えていたところがあるのだと思います。
子どもは自分の実力を示す鏡ではありません。
子どもは一人の人間であり、自分のエゴのためだけに利用して良い存在の訳がありません。
無意識だったとはいえ、そんな関わり方をしてしまった自分に腹が立ちますし、子ども達に今すぐ謝りたいです。
本当に申し訳なかったです・・・。
(子どものため)「子どものため」に「実力をつける」
(自分のため)「実力を測るため」に「子どもを見る」
ここ、油断していると本当にすぐひっくり返ります。
そして、私はどうしても、”子どものため”に全てを振り切れない・・・。情けないですが。どうしても、
”自分のため”>”子どものため”
になってしまいます。
だから・・・、まずは”自分のため”=”子どものため”を目指します。
Win-Winな関係を目指します。
きっとその先に、真に”子どものため”に働けるT.Puが待っているのだと思います!
ここまで読んでくれて、ありがとうございました!!
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