就活を終えて
珍しく朝から麺麭を食べた。
窓の外から、昨日の雨をやや残した薄い色の雲を割いて、光の筋がカーテンの隙間から入ってくるのが見えた。空は晴れているというよりむしろ以前曇っていて、雲は落下しそうな、張り詰めた青空がそれを辛うじて支えているような、はっきりしない緊張を有していた。
身支度をして、鏡を見ながらネクタイを締めた。満足のいくディンプルを作るのに三度締め直した。それから糖分の入ったゼリー飲料を飲んで、用を足してから足早に家を出た。
外に出ると地は少し濡れていた。晴れとも曇りともつかない空を映して平気な顔をしていたが、もうあと小一時間ですっかり乾くような予感がした。革靴で歩くのは苦ではなかった。
つくばエクスプレスで快速電車に乗って秋葉原へ向かった。
頭の中で目まぐるしく思考が巡った。今まで1年間詰め込んできた分だけ満ちているようでもあり、何となく空虚でもあるような頭をしていた。それは今日を終えてもまだ今までの活動の終着になるとは限らないという不安からでもあった。終点の駅があって、確かにそこへ向かっているのに、いざ着いてみると、ドアが開かなくて降りられないかもしれない。そしてまた何事もなかったように別の終点に向かって走り出すかもしれない。そんな行先の不確実な列車に揺られているような不安があった。
私は頭の具合からも、身体の様子からも、体調は万全とは言えないような気を感じた。実際私は電車の中で座りながら盆槍惰眠を繰り返した。
1時間ほど経って、電車を降りると、面接の時刻にはまだ時間があるので再び手洗に行ってまた排便した。排便するつもりはなかったが、緊張からか、尋常でない朝の麺麭からか、二度目を致してしまった。私は排便するのに人より余計体力を使う性質である。体が細いからか、便がしっかりしているからか、排便をした後は何だか疲れがどっと来て、活力が出なくなるのである。だから大事な用事の前はなるべく排便をしないで力を溜めておくのが通例になっていたのだが、この日は二回も便をだしてしまった。矢張り少し身体から力が抜けた気がする。
私はなるべく失ったエネルギーを取り戻すために駅のコンビニで朝飲んだゼリー飲料をまた買って飲み下した。まだ時間があったので、近くのオフィスビルの中を彷徨いた。そうしているうちに時間になりそうだったので集合場所に足を運んだ。
一方向の流れを作っている黒い人達の波に乗って大きなビルへ入って、仰々しい受付の前に点在するソファを見つけた。集合場所はこの付近だった。ここは大きな広間になっていて、様々なオフィスが集合しているビルの玄関口で、ソファに行くのにも、そのソファが沢山あって、どこへ座ろうか迷うような場所だった。結局受付の真向かいに座って少し体を落ち着けた。
頭の中で面接で喋りたい事を思案していたが、未だ頭は盆槍していて、今更何も頭に入らなかった。脳から頭蓋骨に揮発する思考は長い時間をかけて飽和していた。すっかり満ちていて、なにを入れても変化はない気がした。
しかしながら、もう直ぐ定刻というのに担当者の姿がちっとも見えないので、私は些か腹を痛くした。予定の5分前になって少し不安心になり出した。集合場所は2階だが、自分がいるのは果たして本当に2階なのかという擬倶さえ抱いた。確認するのも億劫でただ黙然と座っていた。そのうち近くで電話をする人の「今ですか。今は2階のロビーにいます」という声がして、ここが2階なんだと理解した。
それから定刻になった。まだ誰も来る様子はなく、ただ沢山の黒い人が私の目の前を過ぎて、奥のシャトルエレベーターに出入していた。5分が過ぎて、私は背中の終わりの臀部に汗を感じた。私は過度に緊張をするといつもここに汗をかく。元来尻尾が生えていた尾骶骨のあたりである。もし私に尻尾が生えていたら随分不安症な尻尾だったと思わざるを得ない。私の尻尾がいよいよむずむずして立ちあがろうとすると、漸くアテンドの女性が歩いてきた。私は安心すると同時にこれからの不安に圧された。背筋がうんと伸びて、身体中から緊張を促す何かのリガンドが出た。尻尾の汗はちっとも気にならなくなった。
やってきたのは草臥れたようなぼったりとした顔をした若い女の人で、落っこちそうな頬をしている。おっとっと、と手で支えてやらないと肉が落ちてしまいそうだ。とは言ったものの、近くでよくみるとかなりの麗色を感じた。うっかりすると吸い込まれそうな目の大きさと黒さをしている。顔立ちは落ちつつも綺麗に整っていて、眺めていると恥ずかしくさえなる。
私がぎこちない挨拶を済ますと、丁寧にアテンドをしてくれて、オフィスに入ると、冷蔵ケースの中から飲み物を一つくれた。私は何となく麦茶にした。
それからちょっとしたデスクとチェアーのあるスペースで簡単な面談が始まった。女の人はあまり話の盛り上げるような性質ではなさそうな大人しい喋り方をするので、私の緊張から来る発破も少し腰を折られた。入れかけた気合いが萎えて減衰した。しかしながら何となく落ち着いた。彼女は私の提出した書類を見てはいちいち質問したり褒めてくれたりしたので、私の方でも「ありがとうございます」だとか、「うれしいです」だとかいう簡素な返事を繰り返した。それから質問はありますかと聞かれた。私はここに来るまでこの企業のことを念を入れて調べていて、今更人事の人間に聞きたいことはなかったので閉口した。
「ここまで来るときに、笑い声がしましたけど、ここは結構いつもそんな感じですか」
と茶を濁した。
それから別の部屋に行って、今度は少し偉そうな二人と面談をした。一人は頭が禿げていて、ビー玉のような丸い目をさらに剥いてこちらを見てきた。それから生粋の関西弁で挨拶をしてきた。あまりに別種の顔や口っぷりの人間を見たので、私は思わずなんだこの人はとじろじろしてしまった。
もう一人は禿げてこそいないが、目を合わさるたびに大袈裟に目を閉じて微笑んでくる。笑顔を張り付けたどころか、笑顔を彫刻刀で彫ったような顔をフルスイングで振り撒いてくる。私はこの人間にも少しギョッとしたが、先ほど失いつつあった緊張を取り戻して、乾いた口を何度も水で湿らせた。多分、この最終面接で30人ぐらいが残っていて、なおのこと半分以上が落とされる。そう思うと一言にも油断の隙はなかった。
そうして10分ほど面接とそう変わらない話をしたあと、いよいよ最終面接の部屋へ案内された。
重厚で堅固なドアが眼前にあった。最後になるかもしれない扉を前に、私は今までの就職活動を想起する暇もなく、「強めにノックをしてください」と言われたから、強めに指の背で叩いたが、確かにあまり音が響かないで、間の抜けた鈍い音が三度鳴った。多分ノックの音が聞こえなかったんじゃないかと思うと、横にいた鋳型笑顔の男が入って大丈夫ですよと言ってくれた。言われたままに扉を開けて中へ入ると偉そうなおじさんが眼前に3人と、カメラ越しに一人いた。
あとはひたすら喋った。喋っているうちに面接は終わった。かなり雑談ベースで、笑いも起きる面接だった。なんだか不思議な質問もされた。どんな人間か、生まれてから今までどんな人間だったかということを鋭く分析されているような面接だった。覚えている質問は以下のようなことだった。
「就職活動で大切にしていることとその理由を教えてください」
「小さい頃はどんな子供でしたか?」
「中高の頃は何してましたか?」
「将来の夢はありますか?」
「今やっている研究の概要を教えてください」
「マウスと人の研究の違いは何だと思いますか?」
「食経験のない植物を製品に生かす上でどうすべきだと考えていますか?」
「大切にしている考え方、これが生きた経験はありますか?」
あとは事前に提出した資料をもとにかなり深掘りをされた。あばれる君のことを割と聞かれたので少し焦った。
手応えは正直不明だった。うまく答えられなかった質問もあるので、何だか落ちても納得できるし、受かっても首肯うことができるような気がした。
帰りに手土産を貰って、私は再び電車に揺られた。行きとは異なる精魂の尽きたような脱力感を覚えながら、電車の左右に抗うことなく体を任せた。
思えば1年近く就活をした。非常に長い時期だった。人生で一番忙しいと言われていたので少し身構えていたが、まだ少し余裕はあった。それでも多忙に違いはなかった。兎に角理由も不明のまま不採用という否定をされて、一寸先も不透明で、周りの走者からも四六時中圧迫を受けるという異常なストレスが掛かるので辛抱のいる期間だった。
印象に残っているのは、企業のレベルで志望する学生のレベルが顕著に分かれると分かったことだ。夏インターンで出会った人々は、かなり厳しい選考を超えた人間たちで、愛想も見た目も中身も優れていた。話は何でも通じるし思いやりの塊のような人間ばかりだった。この人間たちの中で自分がやっていけるかという不安も芽生えた。しかし少し安全をとってレベルを下げた冬は、少し心配になるような学生も多くいた。人として今まで二十年くらい努力を選ばず何も考えずにのうのうと生きてきたような人もいた。そしてそんな学生のレベルを超えていたとしても選考に通過できるとは限らないということも体感した。結局のところ、人事の人間の中で、採用したい人物像が長年の積み重ねですっかり出来上がっていて、そのイメージと自分が合致するか否かだと悟った。
就活は果たしてくだらないものだった。ES、面接、インターン、全てが形式的で、その殆どは就活のためだけの活動だった。就活対策のビジネスが生じるわけである。あるサービスは初期の頃に利用していて、メンターという、就活の面倒を見てくれる人をつけてくれるように連絡したが、結局最後まで人手不足でつかなかった。時折やるセミナーは、人が集まらない企業の選考に学生を参加させるためだけに開かれていた。やたら納得内定というものを推していた。待遇が良く難しい企業に入れるのはなかなかできないので、その人が楽に入れるところで納得をさせる方に力を入れるのは巧妙だった。人の不安はすなわち金に変換できると思った。
選考自体もくだらないものと言って仕舞えば、矢張りそうだった。グループディスカションやインターンの課題ではやたら意識の高い形式だけの話を聞かされた。そして形式だけの発言をすると評価をされた。私は理系だったからまだそういう類のものは少なく、研究に関することが評価されることの方が多かったので、久しぶりに自分が理系でよかったと思った。研究職は専門性が高く、研究という客観的な成果があるので、割と自由に、自分がやってきた分だけそれをアピールすることができた。文系の学部就職などは地獄の沙汰だろう。もっと意味不明な課題をやったり、頓珍漢な面接をしたり、空虚なアピールをしなくてはいけなかったりするのだろう。...…しかしこの意味不明な就活の中身に対する敵愾心はなんだろうか。どこに根源があるのだろうか。なぜくだらないと思うのだろうか。それは果たしてよくわからなかった。多分、そこまで悪いシステムではないのだろう。能力に見合ったところへ大抵落ち着けるのだろう。
しかし一年近くも研究の合間を縫ってやることではなかった。これなら企業が行儀良くM2の3月まで情報をださないで、6月から採用活動を始めた方がまだ研究に集中できる分いいかも知れない。しかしそうすると早期選考がもっと流行るかも知れない。台湾にいる友人の話では、台湾では就活というものを学生があまりやらないそうだ。みんな卒業してから適当に入るらしい。新卒に重きがないらしい。それもそれでいいだろう。
それから選考を通じて、面接や書類で自分を効果的に伝えるということは、エピソードトークや大喜利、ラジオに似ている、というより同じだとわかった。人に面白く話を伝えるために、どう話の展開を工夫すればいいか、どの言葉を選べばいいか、いかにリアリティをつけられるか、読ませられるか、聞かせられるか、質問させられるか。こういったところはいくらインターネットのものを真似しても、最終的にオリジナリティや口述の点で差が出ると思った。元来こういう仕事は得意な方だったから助かった。
しかし結局もともと第一志望にしていたところは書類選考で落とされたが、本選考では20社くらいにエントリーして書類を出して、7割くらいは面接に行き、辞退をしつつ4つぐらいの最終面接を確保して、人並みに順境のうちにあった。そしてたった今二つ目の最終面接を受け終えた。最終面接まで残った4つの企業のうち最も規模や期待の大きいところだった。実際もともと第一志望にしていたところより種々のレベルが高いので、ここから内定を貰えたら、まあ就活をやめようと考えていた。
もうこの時期になると周りの人間は案外上手く就活を終え始めていた。私と同じように1年前くらいに就活を始めたものは皆第一志望と同程度のところに内定を貰っていた。デリカシーのないKくんも持ち前の話術と肉体で随分上手くやったようで、業界の中ではトップレベルのところへ行くようで、周りから詐欺師と形容されている。私は彼の最終面接の少し前の日に顔を合わせていたので、面接の後日に合否を聞きに行ったが、彼は意外にも顔を赤くしながら「受かった」と言ったのを強く記憶している。賞賛と喜びと尊敬と共に私の中には焦りがあった。
私は只今の電車の中で、そういう焦りが再び萌して私を酷く苛ましていた。
つくばに戻ってからも私はちっとも安楽することができなかった。今日の合否は、合格ならば当日電話で知らされるらしいので、私は部屋を彷徨彷徨したり、寝ようとしてみたり、気を紛らわせるような工夫をしたが、目の前の暗色とその先から差し掛けた光の混じった霞がかった景色から視線を外すことは出来なかった。
それから私は少し外を歩く気分になった。
いつもより視界の狭いような気がする筑波の道をただ歩いた。どこへ向かうわけでもなかった。歩きながら些細な事象に自分の合否を占った。
「あの信号がちょうど青になったら受かっているかもしれない」
「このクローバー畑で四つ葉を見つけられたら受かっているかもしれない」
「この石を蹴って穴に落ちたら受かっているかもしれない」
「カラスの羽が落ちていたので結果は良くないかもしれない」
そのうち日が傾いて、時刻は18時をとっくに過ぎたようだった。何時に電話を寄越してくるのかは知らなかったが、そこまで遅くならないだろうと踏んでいたので、もともと18時までに電話が来なかったら諦めて来週の面接対策をしようと胸算用していた。しかし人間は姑息なものでまだ微かな希望を捨てずにいる。18時以降に電話が来ても遅くはないだろうと心を入れ替えている。まだ内定も来ないうちに、気を紛らわすためにこれから先の将来についても考えを巡らせ始めた。もし内定がでて働くとなったら、研究所が京都にあるので、私は筑波から京都へ越して、ずいぶん長い間はそこへ住むことになる。もしかしたらそこに骨を埋めるかもしれない。まだどうなるかわからないので、次第に馬鹿々々しくなってやめにした。
天久保公園まできて、少し高い丘になっているところのベンチに座って黙然とした。
就活は果して偽りのものだった。自分を偽って、取り繕って、上皮だけで話をした。
「自分は一体何がしたいのだろう」
就活の中で自分について振り返ったり、将来やりたいことについても思案したが、結局一度も仕事をしたことがないのだから、やってみないとわかろうはずもなかった。私は基礎研究や開発研究を志望していたが、その理由というのも、纏めてわかりやすく言えば、カッコ良さそうだからくらいなものである。自分の選択はかなり感覚派だ。良い悪いをかなり直覚的に判断している。高校も大学も研究も、実際深く考えてはいない。なんとなくかっけえからぐらいにしか捉えていない。感覚的に良いという指標は、周囲にとって少し難しいことという相対的な要素と、自分のセンスの中で良いと思える絶対的な要素から成っている。この二つの検量線が人生の中でできているのだ。そういう定量がある程度しっかり機能していて、私の中の輝かしい過去として私を支えている事実から、私は今までの選択や判断を間違えてはいないのだという自負がある。今生まれ直しても今日まではおおよそ同じ方向を歩きたい。私のやりたいことは以前判然としないが、このビビッとくる感覚を信じてもいいのだと考えている。
そうしてみると1年間考えたことは決して無駄にならないような有意義なことだったかも知れない。
......19時を目前にして、やはり携帯は鳴らなかった。一度メールが来たと思ったら先日受けた最終面接の結果で、内々定の通知だった。そこも志望度は高かったが、私はそのメールにはちっともビビッとを感じなかった。
私は私の中での微かな期待の火を、自らふっと吹き消してしまって、もう寝ようかと思った。そう思ってベッドに横になった。目を瞑った。
折角選考に勝ち進んで、挙句に最終面接というゴール目前で落とされるくらいなら、初めから書類を出さない方が気が楽だったかも知らない。この企業のOGと面談をした時は、まるで私とは異なる輝かしいキャリアを積んでいる方が、「私は全然静かな方でもっと凄い方が沢山いますよ」と言った。私はこの人たちは宇宙人か何かかと思った。別世界の人間がいるのだと思った。そんなところの選考で最終まで行けたんだから、まあ良いじゃないか、とも考えていた矢先、忽然通知がなった。知らない番号だった。私は飛び起きて電話に出ると、つい数時間前アテンドをしてくれた先刻の女の人だった。
迅雷掩うに遑あらず。雲の立ち込めた頭の中に稲妻が走った。それは私がずっと霞んだ目を凝らして見たがっていた光だった。光は頭から身体を貫いて全身に電流を走らせた。神の御技かとも思う自然の霊氛を総身に浴びたように、脈が速くなるというより重くなるのを感じた。私はその興奮と諸々によって寧ろ押し黙った。
それから面接官のフィードバックを教えてくれた。どの方も高い評価をしており、研究量や理解度もさながら、真面目で柔和だが芯がある人間性を指摘してくれたそうだ。私はそれを聞いて嬉しく思ってもうまく言葉が出なかったから、ぎこちない返事をすると、彼女も少しぎこちない返事をした。そうして諸連絡をしてから電話を切った。
私の就活はこうして終わった。少しの頭痛を感じながら、私は人生でもう多くないだろう達成感を味わった。視界に見える部屋の景色がいつもと違っていたのを覚えている。喜びを表現するのが下手なので、噛み殺したような声で「yes!」と言ってみたり、大袈裟に力を込めて手を握ってみたりした。OB訪問したあの人にお礼の連絡をしなくてはと思った。選考途中の企業の方には大変良くしてもらったので、なるべく波を立てずに選考辞退をしなくては、それから落ち着いたら両親や祖父母に報告をしなくては、などと思考が滾々と巡った。ぐるぐる頭が回転した。そのうち回転は速力を増して、私の頭の暗闇には火花がちらちらした。
火花のうちに丁度KくんからLINEがきて、飯を食おうと言われたので二つ返事で「あさひや」に行った。彼は多分もう私の合否が来ているだろうと踏んで連絡を寄越したのだったと思う。私を信頼しているのか、けなしてやろうと思っているのかはわからない。
それからあさひやでビールを飲んだ。これほど美味いものは無いと思ったが、残念ながらこのビールは他社のものだったので、それを指摘すると、Kくんが
「きもお前」とニヤニヤしながらいった。
懇親会など
少しになるが、その後のことについて書き記す。内々定の通知の後、懇親会が翌週にあり、私は再び面接を受けた場所へ行くこととなった。
午後18時に集合場所に着いてみると、二人の同年代そうな見た目の男女が立ち尽くしていた。私は彼らの傍に立ったのも束の間、すぐに気まずさに耐えられなくなって、隣の男に懇親会で来られた方ですかと声を掛けた。すると一寸安心したような顔をした男が返事をした。それからその隣の女が話に入ってきた。私が声を掛ける今まで何分かは二人は黙って立ち合っていたのだろうから、意外と静かな人達だと胸中で思った。開始の時刻の15分前だが、周囲に人がいないので、また私は待ち合わせはここで合っているのか迷い出した。
しかし今度はすぐにアテンドの人がやってきた。この人はこの会社らしい明るいニヤニヤした人で、体躯もしっかりしていてでかい。オンラインで話した時はカメラに前のめりに映っていたので一層私の注意を引いた男であった。
彼に連れられてエレベーターを上がると、開けた空間に洋卓とそれを囲う四つの椅子のセットがいくつもずらっと並んでいた。お洒落なフードコートのような雰囲気で、空間の一辺にはキッチンがあった。したがって洋卓を見ると既に料理が一皿あった。キャベツの1/8くらいをそのまま風味良く焼いてあるものだった。
私は自分の名前の書かれている先に座ると、まだ誰もこの洋卓にはいなかった。
私は盆槍周りを見渡した。既に人が集まっている洋卓もあって、色々を話しているようだった。彼らの洋卓には既に麦酒があった。奥にはサーバーがあって、人が集まったところから麦酒を注いで渡しているようだった。まだ口はつけていないので幾らか泡の層が薄くなっていた。
すると、私の目の前に女がやってきた。挨拶をした。少し初対面らしい挨拶をした。軽々しく挨拶を済ませた女は、私が気を遣って話しかけるよりも前に大股で会話を始めた。
「今日ホテルとかとりました?」
私は意味がよく解せなかったので、どういうことか正直に聞いた。
「え、みんな夜通し飲むかと思って、私とりました」
すぐに彼女の人間性がわかった。しかしそれを書き下すのは難しい。ふわふわしているが、我があり、ギャルのようなマインドを持った、かつ無能を嫌いそうな、そして同性に嫌われることもありながら、それを気にとめないが、根回しはするような、好き嫌いがはっきりしていそうな、嫌いな人間には興味をわかないような、そんな人間だと思った。
それから例の彫ったような笑顔の男がやってきて、麦酒かお茶のどっちがいいかと聞いてきた。2人とも矢張り麦酒だった。
酒がくる頃にもう1人洋卓にやってきた。関西人の顔面をした男で、矢張り関西弁を喋り出したが、少し落ち着きがあって、控えめな雰囲気を持った好青年だった。
4人目は最終面接のアテンドをしてくれた女の人だった。今日は彼女が司会をするらしい。少し歓談したあと、彼女が進行をして、人事の人間が挨拶をした。それから不思議な乾杯をした。ここに書くことはしないが、随分変わっているなと思った。とある国の言葉を用いたもので、縁あってその言葉を古くから音頭にしているらしい。
それから事前に提出した自己紹介シートをもとに、1人30秒くらいで自己紹介をした。なかなか皆んな個性的なもので、無論酒の勢いもあるが、短い時間できちんと一つウケを取っていたから流石だと思った。全員が突出して抜群に優れたものを持っているというわけではないが、皆いい顔をしている。優秀で、多様性に富み、客観と主観の両輪で走り、人並みに苦労を経験した顔をしている。
1時間余りで全員の自己紹介が済むと席替えをして、また歓談をしたあと、今度は自由に立ち上がって集まって喋ったりしているうちにオフィシャルな懇親会は終わった。色んな人と会話をした。金持ちの多い地区に住む高身長の男や、片仮名で書きそうな苗字をした、未だにどこの内定を承諾するか決めかねている男、画家に由来する名前だがその画家の絵はあまり知らないという女、北海道の人で、今度の旅行に対して助言をくれた髭を蓄えた男、面接の日に私に似た人をみたという女、、、生産や開発の人間もいたので、実に色んなさかしげな人がいた。意外と酒を飲めないという人もいた。(無論こういう時代だから、適正飲酒を強く勧められるし、飲めない人もやはり飲まなくたって歓迎される)
それからやはりこのままお開きになることもなく、今度は基礎研究の人間で店を取ってまた飲んだ。ありがたいことに、二人の女子が空いている適当な店を探してくれた。少し外で待ったが、それを誰も歯牙にもかけないで、呑気に外で喋っている。そういう当たり前を有り難く感じた。
ここでは少し混み入った話もすることができたが、酒に酔っていたのであまり覚えていない。
私は終電があるので、途中でお暇したが、今後の仕事が楽しみな一夜となった。
外へ出て、磯の臭いのような、べったりとこびりつくような東京の汚い海の香りを嗅ぎながら、鼻をむずむずさせながら帰路についた。
──就活を終えて、私はすっかり暇になった。論文の投稿と、マウスの実験と自分の実験と、学会発表はあるが、とにかく将来の方向がとりあえず決まったことで精神的に自由になった。これは私にとっては非常に大きなことだった。
就活が終わったらやりたいと思っていたことを歩きながら考えると、頭の底から思いの外たくさん出てきた。
・アルツハイマー病に関連する本を図書館で借りて読んでおきたい。折角無料で読める機会がありながら、全然読んでいなかった。
・つくば市のラーメン屋さんや飲食店をすべて巡っておきたい。あれだけ有名で人足が途絶えなかった「くい亭」が閉店したので、うまい店もいつなくなるかわからない。なるべく早く行っておきたい。同時に筑波近辺の観光地はおおよそ行っておきたい。
・英語の勉強をしたい。依然英会話ができないが、できるようにしたい。
・漫画を完成させたい。100 pくらいあるやつの1/10しか進んでいない。
・今後副業ができるようなので動画編集スキルを高めておきたい。あばれる君の切り抜きを再開しなくてはいけない。
・noteも書きたいとおもっている。(研究室のことについて書いてくれと言われて、実際ここにも書こうとしたが、私が各人について書くとどうも悪口っぽくなっていけないからやめにした)
こう考えていると、やる気が満ち溢れてくるが、同時に面倒臭さもじわじわ頭を上げてくる。意外と研究の方でやることは尽きない。なんだかんだ先生の方でやることを寄越してくる。遊ぶにも済まなくって、ぐだぐだ毎日をやり過ごしている。
生温い夜風が吹いた。歩くたびに明滅する街の明かりが月並みだった。
私は就活を終えて傲慢になった。街を往来する人間を見ると、そのくだらない歩き方を見ると、低い鼻を見ると、開いた口を見ると、辟易するようになった。私が何か特別な恵みを受けているのではないかというより、なぜ周りの人間がのうのうと詰まらない顔をして、甘んじているのだろうかと錯覚した。あえて爪先で立って見下した。これではいけない。たった少しの達成感でこうなっては危ういと少し足元が蹣跚とした。
この街の仕掛けはそんな瘋癲な私を寛解させるようなものだった。私は一人で歩いていた。人混みを躱して、駅まで歩いた。また無残な気持ちを取り返さなくてはならない。私は不図そう思い出してしまった。これは私の根っからの痼疾である。孤独や不安心をどうにかするために、体を痛めつけるほど我を嫌えず、首を括るほどの客気もない。だからその代わりに精神的に自らに疑具を有して、自ら好んで無残になりたがっている。なるべく不幸をせっせと拾い集めている。自滅というより外ならない。
孤独感は自らの理想の準位と現実の達成レベルが異なることで生じる。その不和を解消するために二つの準位を大きく負の方向に下げることをしている。いわゆる自傷によって自己の存在を否定するわけでもなく、精神的な自滅を通じて孤独の方に自分を合わせている。その尋常ではない努力と負荷で以て安心している。
ところが今度は就活の終わりとともに生憎理想と現実レベルが一致したので、いつもそばにいたはずの暗澹たる気分が一時的になくなって傲慢になった。しかしそれも案外気持ちが悪くって、もしくは別の種類の嫌悪感が現れて、自滅によって低い位置を得たいという気分が起こった。
こういう癖は治るものでもないのだということは生きてきて理解した。どんなに人のうらやむものを持っていても、人の忌避するものをもっていても、どんな位置にいても、私はそういう人間だった。こころのどこかで孤独に寄り添う方を選んだ。だから陰鬱な気分は消えなかった。私はこの精神的な哲学を嫌ってはいない。この理屈の中で、自分を否定しているが、否定していることを決して否定しない。ということを通じて全てを諒としている。そういうオクシモロニックな弱い強さがある。積極的無責任、自己本位、則天去私、そういうところに通ずる点がある。
だから久しく現れたこの暗い気分を私は嬉しく思った。将来は好んで惨めになることもないかもしれないが、私はこの気分を未だ捨てられずにいる。
そういえば内定の連絡とともに私の京都行きは殆ど確定のものになった。8割の家賃補助の恩沢に浴して良い部屋に住もうと考えているから、京都や大阪に来る機会があったらぜひ遊びにきて欲しい。
京都とはいえ、奈良や大阪の方に寄った田舎のところという噂がある。一体どんなところだろうか。人は良いだろうか。暑くはないだろうか。淋しくならない性質だが、友人と頻繁に会えなくなるのは少し淋しくもある。
空には星はなかった。しかし月があった。酔いが回って、風に靡いた。風に任せて歩くのも良いか知らん。
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