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何回言っても分からないのは、子ども達のせいではなかった!

我が家の三兄弟は、私が同じことを何度注意しても、
ちっとも直してほしいことが直らない。

「ちょっともう、何回言わせるんですか??」
なんて言葉を私は一体彼らに何度発しただろうか?
一体どうしたら三兄弟は分かってくれるんだろうか?
と、途方に暮れることは日常茶飯事なのです。

そんな中、拝聴していた養老孟司先生のYouTubeの中に
「教育って型しかうつせない」と、いうお話があり
私の胸にズドーーーーーーーーーンと響いてきました。

型しかうつせないってどういうこと?

もし大人が子どものことを怒っていたら
子どもにうつっていくのは、その内容ではなく、
「怒っている」という型だけなんだそう。
だから、怒られて育った子どもは、
そのまた子どものことを怒るようになり、
怒る子育てが連鎖していく、と、いうお話でした。 

それを聞いていた私は
そうか!
三兄弟には私が「怒っている」ということしか伝わってないのか!
だから、何回怒っても彼らは同じことを繰り返すのか!
と、超納得!!

型しか伝わってないないのなら、
内容は彼らの心に全く響いてないのなら、
何度も三兄弟が繰り返しやるのは当然だし
何度も私が注意しなくちゃいけないのも当然だ!
と、いう気づきを得て
むしろ「何回言わせるんですか??」って怒るなんて
とんだお門違いだったと猛省しました。

ではではさてさて、それでは一体どうしたら
私の伝えたい中身を三兄弟に伝えることができるのかしら?

と、ここらからは、単に私の考えたことですが。。。

怒ってはいけない

そう、まずは何より怒ってはいけない・・・。

いや、これは本当に難しい!
私から「三兄弟に怒っている時間」を引いたら何が残るかしら?笑
いやいや、もちろん残るものいろいろあるけれど、
でも三兄弟といる時間
私は彼らにぼやいていることがとっても多くて
そのぼやきが積もり積もって怒りが爆発してしまうこともあるくらい。

そうか!では、ぼやきの時点で解消したらいいのかな?
とも思ったのだけれど、、、
いやいやそもそもぼやきさえも抱きたくないな…
と、思う。。。

そもそもなぜぼやく?

日々私は、どんなことをぼやいているかしら?
と、振り返ってあげてみたら
・服脱ぎっぱなし
・靴ぬぎっぱなし
・食器だしっぱなし
・荷物おきっぱなし
。。。お恥ずかしながらそんなことができてない我が家の三兄弟笑。

そして、ここでふと私は、あることに気づいてしまったのです・・・。

・服脱ぎっぱなし(結局私がしまう)
・靴ぬぎっぱなし(結局私がそろえる)
・食器だしっぱなし(結局私がさげる)
・荷物おきっぱなし(結局私が運ぶ)

おぉ。。。
私は結局私の仕事が増えるから、ぼやいていたのか!
いやこうなってくると、なんかむしろ私が身勝手みたいで恥ずかしい笑

思いの深掘りと気づき

そうなると日々の私は、
自分が楽したくて、三兄弟にぼやいていたのかしら?
と、思ったら、自分の身勝手っぷりが怖くなってきたのですが笑。
でも恐る恐るこの思いを深掘りしてみたら、それだけではなく、
三兄弟がそれぞれ自分の身の回りのことをできるようになってほしい
と、願う親心もちゃんとあることを確認できてホッと一安心。

ただし、そういう親心が根底にあったとしても
日々の生活の中で、私の感情が「ぼやく」の方に向き
それが蓄積して最終的に怒ってしまっている以上は
結局、私は「怒りという感情で三兄弟をコントロールしようとしている」
という現実にも、辿り着いてしまったのです。

もちろん三兄弟を支配したい!
なんて思っているわけではないのだけれど
現実の私を客観的にみると
私の言動からは、支配しようとしている傾向が見られるし
きっと三兄弟にはその圧が伝わっているような気がします。

親という立場を利用して、怒りという感情を利用して、
三兄弟に圧をかけて、彼らを駒のように動かしているだけだとしたら
自分の身の回りのことができるようになってほしいという
私の本来の願いからも乖離してしまうので
これはどうにかして改めないといけません。

預かりものと思おう

「神様からの預かりもの」
これは以前、義母がよく言っていた言葉。
義母はよく、子どもは自分のものではなく、預かっているだけなんだ〜
と、言っていました。

これまでは、そっか〜
と、なんとなく聞いていた言葉でしたが
今ならなんだかまた一歩深く分かる気がします。

例えば、我が子にはボヤキたくなる。
よその子なら別に気にならない。
これは多分、我が子には「育てなくては」という責任を感じているから。

一方で、ボヤくという感情は、私の我が子への甘えでしかない。
よその子だと思ったら、ボヤかずに、きちんと伝える努力をする。

我が子との距離感とよその子との距離感のいいとこ取りをしようとすると
関係性に甘えずに、でも責任をもって接することのできる距離感
というのが理想の距離感として浮かび上がってくる。
それを言語化すると「預かりもの」っていう表現になるのではないかしら?
と、思いました。

言葉のあやでしかないのかもしれないけれど
今の私には、これがなんだかしっくりきました。

尊重しよう

預かり物だと思えたら、自然と距離が取れる。
ここで生まれる距離はネガティブな距離じゃない。
相手を尊重している距離感だなぁと感じます。

我が子だと思っていたら
我が物だとは思っているつもりはなくても
ズカズカと踏み込んでいってしまうことがある。
「親」という立場を振り翳して
我が子の気持ちを聞かずに押し付けてしまったりすることがある。

でも、いい距離がとれたら、我が子達と会話をしようと思う。
会話をしようと思ったら、自然と我が子達の話を聞こうと努力する。
こちらが我が子達の話を聞けるようになったら、
きっとそのうち我が子達も私の話を聞いてくれるように、、、なるかな?

すでに出来上がっている関係性から変えていかなくてはいけないから
まだまだ時間がかかるかもしれない。
でも、ついつい関係性に甘えてしまう親子間。
日々のなんでもない小さなことは
特についついいい加減になってしまうけど
こうして丁寧に関係性を築いていくことで
私の思いも三兄弟に届いて、私の口数も減らせるの、かもしれない。
乞うご期待。

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