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多様性はこうして実装される(といいな)

ちかごろよく叫ばれるダイバーシティ(多様性)について。

「あなたがそう思うことを、わたしは同意できないが、認めることはできる」というような言葉をよく聞く。ぼくもよく言う。でもじつのところ、これはかなり難易度が高いものだと思う。ちょっとそのことについてまとめてみたい。

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多様性実装の第一段階

この多様性というものは、一時的(あるいは一次的)には、他者への非干渉や無関心によって達成するのではないかと思っている。これは上述した「あなたがそう思うことを、わたしは同意できないが、認めることはできる。」ということの、消極的な達成だ。

言外に「これでお付き合いはおしまいにしよう」というようなニュアンスを含むものだ。

これによってきっと表面的には、多様な価値観を持つ人たちがそれぞれに活躍できる社会が実現する。ただしそれは分断をもって成し遂げられるのだ。

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分断的多様性と本質的多様性

そう、このレベルの多様性は分断を内包する。これを分断的多様性とでも呼ぶことにする。多様性とは、その言葉のとおりたくさんの価値観があるさまを表現している。なので、それぞれの価値観の差異を示す境界線のようなものはあるのだろう。

それを分断と呼ぶか区別と呼ぶか。そこに分断的多様性と本質的多様性との違いがある、と考えている。

分断的多様性は、バラバラになった球体の破片が、つかずはなれずの距離を保ちながら、かろうじて球体のアウトラインを保っているような状態をイメージしてほしい。それぞれの破片は、その内側でみずからの正しさを主張し、そして同意し合っているコミュニティそれ自体だ。

たいして本質的多様性とは、球体にはたしかに線が引かれ、区別されているが、ひとつの球体として成り立っている状態だ。それぞれの線の内側では、分断された状態と同じようなコミュニティが存在。ただ同時にほかのコミュニティとも地つづきで開かれており、コミュニティ同士のコミュニケーションも起こりうる。

そのコミュニケーションの密度や理解によっては、古い線は消え、あたらしい大きなかたまりになることも可能だ。だって地つづきなのだから。

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分断的多様性の限界

相容れないという事実を、寛容さではなく、忍耐でもって受け入れる。この分断的多様性の状態は多様性の実装とは言えない。これは多様性をめぐる思想の問題ではない。現代は忍耐を前提とした社会は成り立たない時代だ。

分断的多様性の状態では、相容れない価値観の間で、いずれ争いが起きることが予測できるだろう。早い段階で本質的多様性の実装を目指すべきだ。

ではどうすればいいか。結論から言えば、この解決は社会の成熟を待つことになるだろうと思う。しかしながらその成熟を早めるのは、わたしたち一人ひとりの行動に他ならない。

行動が世論を産み、世論が社会を制度をつくると思っている。そう信じたい。だからとても恥ずかしい甘ったれた理想論をここでお披露目して、だれかしらの行動に影響を与えることを祈ろうと思う。

じぶんの価値観のキャパシティを信じて傾聴する

「いやそうじゃない!」「いやこういうことだ!」「まって違うでしょ!」

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やはり相手の意見には到底納できない。よくある話だ。ではそれでおしまいなのだろうか?ぼくとあなたは友人になれない?あっち側とこっち側にわかれて暮らすことしかできない?いや、違う。青臭いが、ぼくは相違するのは意見であって個ではない、という立場を取りたい。意見は、たしかにその人を形づくるひとつかもしれないが、すべてではない。

「意見は〇〇である」ということと「〇〇という意見をなぜ支持するか?」は切り離すことができるはずだからだ。後者はとてもパーソナルな部分であり、前者の意見の是非とは関係がない。もしかするとそこには共感できる理解できる、こう、やわらかくて温かいなにかがあるではないかと思うのだ。

「なぜあなたはそのように信じるのか」を、「もしかしたらぼくもそう信じることができるかもしれない」という前提で耳を傾ける。むちゃくちゃがんばって「反対意見を信じれるかもしれない自分」を構築するのだ。

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否定のための質問はしない。誘導しない。ひたすらに自分の価値観のキャパシティを信じながら傾聴する。こちらが話すときも、意見の正しさや討論のために発言しない。知ってもらえたら、信じてもらえたらうれしいという、相手の価値観のキャパシティを信じながら伝えるのだ。

価値観を受け入れるのではなく、その個を受け入れる

そうすることで、その人をより深く知ることになるだろう。そこに至ったのは、悲しみだろうか?義憤だろうか?それとも個人的な幸福の追求だろうか?

そうやって見えてくるのは、意見のぶつかり合いではわからなかったその人の、人間としての多面的なふくよかさだ。

ああなんだ、意見なんて、そのわずか一面でしかないのだな。わたしたちはその一面をやけにおおげさに考え、それをやけにもったいぶったり大きく振りかざしたりしながら、唾飛ばし叫んでいるのだ、と気づく。

意見は一面的で、個は多面的だ。一面ではどうやっても相容れないことがあっても、あなたもわたしも備えているたくさんの面のうち、いくつかは重なり合う部分があるのではないか。そうすれば、意見ではなくその人、その個を受け入れることはできるはずなのだ。

おわりに

まずは、ぼくからその個を受け入れることをはじめようと思う。じぶんが受け入れられるんだ、感じた人たちはきっと、同じようにじぶんとはちがう他者を、すこしずつ受け入れられるようになっていくはずだから。

*今回はいろいろ考えるところがあって(ぼくにしては)長文になりました。思う所があれば、ぜひコメントなどいただけるとうれしいです。

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