しおり

まいにちに、そっとしおりを挟むように

ぼくはいまツイッターでまいにちひとつずつポエムを投稿している(#いぐちの1日1ポエム)。とはいっても、ちっともロマンチックではないし、男女の機微は唄わない。社会の不合理なんて叫ばない。正直なところ、だれかの心に染み入るようなこともないと思う。そんな大きなものは求めてもいない。まいにちの中で気づいたことを乱暴な一般論にまとめてツイートする。それをちょっとまろやかにしてごまかすために「ポエム」と名乗っているのだ。すこしずるいタイプの発信だ。

どうもぼくは、記憶するという機能に大きな欠損があるようだ。震えるほど感動した映画も、おどろきの結末だったあの小説も、まったく的を得たりと膝をうった名言も、尊敬する友人の心あたたまる助言も。すべて、すぐに、ぼくの前から通り過ぎてしまう。この毎日のポエムですら、寝て起きたらすっからかんなのだ。

そんなあっというまに通り過ぎてしまう、まいにちのたいせつな気付きに、せめてしおりを挟むように「ポエム」を書いてる。そしてこの乱暴な「ポエム」を書くことは、いつかしらしおりを挟む場所を探すようになるのだ。

せっかくしおりを挟むのだから、そこから発展的ななにかをできたらいいなと思うようになった。せっせと孤独や向上心で着飾っても、やはり人はなんだかんだと共感を求めてしまうのだろう。それはなんかふしぎなのだけれど、親しいあの人のいいねも、インターネットの向こうにいるどなたかのいいねも同じくらいにうれしいのだ。じぶんの存在が許される世界が拡がったような、そんなあたたかさがあるような気がするのです。

結論

そんなあたたかさを求めるように、詩人ならぜったいにやらない「ポエム」の解説というか説明をやっていこうかと、そういった宣言をする初note。

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