無題のデザイン

09/挑戦は、しばしば滑稽に映るものだ

ツイッターで#いぐちの1日1ポエムと称して、日々の気付きを投稿しています。その「ポエム」の意図などを、備忘録的な意味と、共感してくださるひとがいたらいいな、という目的で書き残していきます。はじめたきっかけなどはこちら

つよい決意を持って、なにか新しいことに立ち向かう。チャレンジする。そこにはどんな秘めた想いがあるだろうか。温めつづけたアイデアだろうか。その行動がなにであれ、たぶんすごく勇気をふりしぼってはじめるのだと思う。

なのに、それは、まわりの人に滑稽に映ることがある。

この現象って、たぶん身近な人に顕著で、いつも通りのその人じゃないことが、なんか滑稽に見えるんじゃないかと思うのです。まわりの人たちも、けっして笑いものにしたいわけではない。足をひっぱりたいわけでもない。ただただ違和感が滑稽さとして目に映ってしまう。

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さもありなん、と思う。

勇気を振り絞ってやるそのチャレンジは、たぶんいままでのじぶんからは大きく逸脱しているだろう。だからこそ覚悟がいるし、勇気がいる。それがチャレンジたるゆえんだ。いままでのじぶんとの決別なのかもしれない。

必死であればあるほど、いままでとの相違はより顕在化し、チャレンジが大きいほどにそれは目立ち、滑稽さとして映る。

意外にも、じぶんのもっとも身近なファーストコミュニティよりも、そのもうひとつ外側にあるセカンドコミュニティのほうが、そのチャレンジを評価してくれたり、意義を理解をしてもらえることが多いように思う。

よく知らない、ということは、ときにちょうどいいリスペクトを生むのかもしれない。

おわりに

そしてそれはいつか逆向きのベクトルになり、ファーストコミュニティに向かって影響を及ぼすと信じている。そうであってほしい。ほんとうに意義のあるものであれば、必ずいつか評価されうる。なぜならいちばんの仲間たちは、いちばん心配性で、いちばんの理解者のはずだから。

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そんな正の影響が、起きることを信じて、続けることしかできない。


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