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13/成長に強制力は必要か

ツイッターで#いぐちの1日1ポエムと称して、日々の気付きを投稿しています。その「ポエム」の意図などを、備忘録的な意味と、共感してくださるひとがいたらいいな、という目的で書き残していきます。はじめたきっかけなどはこちら

やりたいことだけをやればいい論、ぼくもだいすきです。嫌味なく。やっぱりいやなことよりいやじゃないことだけやりたい。でも、自分の過去を振り返ったとき、本当にそれだけでいいのか、と思うこともあるのです。

自分が歩んだ道を正当化するならば、あの苦しかった時期をも肯定したい。そう思うのが人情です。「憂鬱な気持ちでいやいやながら取り組んだことで得たスキルがいま役立っている!」ということもあれば「成長はしたけど効率的でなかったな…」ということがあるのも、また事実だと思います。

つまるところ、強制的にやらされることには、いい面もわるい面もある。これはあくまで方法論、手段のはなしなんだということがわかってきます。

なにを選ぶかはじぶん次第

そう、どの手段を選ぶかは、じぶん次第なのです。手段のその先の結果や目的をぐっと見定め、その手段(強制的になにかをやらされること)に同意するかを選べばいいだけの話です。

じぶんは意思がよわい(ぼくのように)と思えば、強制性があるコミュニティに飛びこむのもいい方法でしょうし、じぶんはこの分野にはいくらでも没頭できるぜ!というのであれば、たとえば独学を選択することもよいでしょう。

なにを為したくて、なにを伸ばしたくて、どうありたいか。それが先立ってこそ、あらゆる努力が意味をなすと思います。そう考えるとまずは自己分析なのかもしれませんね。

強制性のメリット

得意なことを最大化し、苦手なことを最小化する。これは正しいライフハック。でも、得意なこと、苦手なことってどうやって知るのでしょうか?

じぶんの適正を知るのは、おおよそ、やったことないことをやったときです。そしてはじめての挑戦って強制力が働くことが多いですし、そういう力が働いたほうがスルッと挑戦できる。

強制性は、近頃の文脈ではあまり良いものとされませんが、こういう点での強制力って、ちょっと突出したメリットがありませんか?

さいごに

なにかはじめようとしたとき、スクールとかサークルに入ろうって考えるひとは多いと思います。きっかけとしては体系的に学ぶ、とか、仲間を見つけたい、などの動機はもちろんあると思います。

でも同時に、強制力のベクトルを持つ関係を持ちたい(先生→生徒)、あるいは、ゆるやかな強制性のあるコミュニテイがほしい(みんなでいっしょにがんばろう)という機能性を求めていることがほとんどだったりします。

こういうのをきちんとじぶんなりに抽象化して手段として捉えることはとても大切だと思います。ぼくもNサロンはこのゆるやかな強制性というものを求めて入会し、いまnoteをかけているわけですね。

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