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長正司の藤棚

説明

 長正司橋の西側の交差点から楢原に向けて100mほど進んだところにコンクリート製の階段があり、そこを20mほど上ると藤の老木の繁った藤棚を備えた公園となっています。毎年5月上旬に藤の花が咲きそろい、見ごろとなります。長さ1m近い花穂が多数下がり、藤色の天井と甘い香りに包まれます。夜はライトアップされ、その下で花見をするのが付近の住民の楽しみとなっています。
 毎年5月5日には荒神祭が行われ、豊田西八幡宮から神輿が出て、藤棚の下の御旅所で神事が行われます。
 藤棚のわきには室町時代から続くとされる観音堂、江戸時代に造られた宝篋印塔など仏教施設があり、少し離れた場所には古い墓地もあります。
 藤棚の奥にはさらに上に登る階段があり、20mくらい上の高台、丘のほぼ頂上まで登ることができます。ここにはかつて上水道の貯水場がありました。また階段のわきや最上部の平地周辺には桜が植えられ、花見ができるようになっています。2022年現在桜の木は老衰しつつあります。また高台からの眺めはとても良さそうですが、生い茂る樹木に遮られ、見える範囲が限られています。(F)

沿革

 鎌倉時代末期ごろ(1308~18年ごろ)、現在の藤棚のある丘は妙見山と呼ばれていたそうです。当時豊田地域を治めていた豊田氏は、居城を一ノ瀬部落の後ろの城山から妙見山に移しました。その後しばらく妙見山には豊田氏の城があったのですが、その頃から周防の大内氏が勢力を拡大し、南北朝時代末期の1363年に大内氏と豊田氏のあいだに和談が成立したそうです。その和談は力の差を反映し、豊田氏に不利な条件だったと伺え、その後豊田氏は衰滅しました。
 藤棚の脇の観音堂に納められている千手観音立像は室町時代の大内氏により奉納されたという説もあります。豊田町史にはこの千手観音像は1760年に萩本藩8代藩主毛利重就公から下附されたと記されています。
 一方江戸時代から大正時代にかけて、藤棚の丘に荒神社がまつられていましたが、1914年に豊田西八幡宮に合祀されたそうです。
 時代は少し遡りますが、当地の藤棚は1879年に地元の伊藤伊兵衛氏が美祢市草井川の庄屋であった藤井氏からもらいうけた鉢植えを移し植えたものだそうです。2021年時点で樹齢142歳以上ということになります。(F)

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藤棚への階段の登り口

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藤棚に続く階段を覆うフジのアーケード、こちらはヤマフジが植えられています

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ヤマフジは個々の花が大きく房が短いのが特徴です。ノダフジよりも1週間くらい早く咲き始め、早く散ります。

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花の見ごろの藤棚、2022年4月27日撮影、こちらは房の長いノダフジです

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中央の藤の大株

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藤棚中央に生え、高く突き出る椿に絡むツルにも咲いています。

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ノダフジは個々の花が小さめで、花の房は長さ1m以上になります。上から順番に咲き始め、最後に穂先の花が咲きます。

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上から見た秋の藤棚

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宝篋印塔

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観音堂

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豊田西八幡宮の御旅所

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場所

〒750-0424 山口県下関市豊田町大字矢田

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長正司の藤棚から見える風景

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