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自分の好きなものと、余地と、ずるさについていつも考えている、でも、やっぱ時代のせいでしょう

大学院時代の友達から、ある相談事を持ちかけられ、ランチに行った。

まあ本題そっちのけで雑談ばかりしてきたけど。最近、世界も社会もマスコミも、もはや、バラバラになりすぎている、という話をしていた。かといって、アカデミアの世界も内にこもって居るような気もするし、でも、知性や前提を共有しない人との会話は困難が伴うし、どうしたもんかね、とか話していた。

彼女は口をひらく。

「そこには自分を客観視しているgodサイカがいるわけじゃん、最近の下の世代、大学生とかと関わると、それがない子が多い気がするんだよね。そのままでいいって言われすぎてて。」

私は言う。
「でも、私も私が思ってる世界を世界だと強烈に認識している側面があるよ。そこに対しては目が据わってる、狂気が潜んでいると思うし。あと、結構主観の力、それこそエッセイみたいなもののエネルギーを信じてるからさ、下の世代のそれって問題なの?とかは思うよ。」

「違うのよ、その自分が思ってる世界を世界だと思ってるっていう、1つ上の階があなたにはあるじゃない?それがない人がいるのよ。」

「ヒョエ〜。ビジネス魔法少女(自称、魔法少女になりたい26歳女性、東大院修士卒、金髪ショート、ミスiDファイナリストをやる、の意)やってる場合じゃないな。そんなん、生きてりゃメタ認知と陶酔の入れ子ばかりですよ。自我に階層がない人がいるなんて信じられない!」

「ほんと、1階しかない人いるから!」

「そうだよね、私はさ自分がいろんな場所に行っていろんな体験をするたびに、その場にいる人と同じ自我でいなけりゃいけない気がして自分が別の階にいることがとても罪のように感じる見下してるのではないかとすら思う。だから今日はあなたと会えてさ、精神が同じ階の人と話すと、帰ってこられる感じで安心するのよ。」

「真面目だねぇ〜。なんかでも、考えすぎなくていいんじゃない?憐れみは時に暴力になりますからね。」

「怖いこと言わないでよ!メモするけど!」

「やっぱさ、今一番安定性があるのは、競争社会で勝てるけど、それを否定できる人、なんじゃないかな。その上で、違う世界を見られる人。」

「確かに、強さも大事だよね、この前あなたが勧めてくれたスラムダンク見て思ったよ…。競争も勝負にも魅力があるよね…。日々いろんな場所に行っては、迷うことばかり。自分の存在が不用意に他者を傷つけるんじゃないかとか。持ってるものを還元しなきゃとか、逆に好きなものだけで世界を封鎖していいのかとか思うよ。私、見てきてないものが多いんだ。小4で中学受験塾入ってから、頑張って先に進めば進むほど周囲の人の偏差値が高くなる世界、濃度の上がる世界にしかいたことがないのよ。それを問題だと思ってる。戸惑うことも多い。私は偏った部分があるから世間を見た方がいいと思ってるのよ。」

「いやー、私は地方から出てきたけどさ、公立中学校には多様性の全てがあったよ。動物園だった。地元の友達話合わないもんな、帰っても。」

「でも、私は成績別編成のクラス分けの私立の中高に通ってたけど、下のクラスの子が上のクラスに遊びにくると、上のクラスの子が『頭悪いひとは入らないでください!』って言ったりしてて、すごく嫌だった。なんか倫理は終わってたよ。」

「うわ!どっちもどっちだな!そんなひどい人はいなかった!」

「いやー、こうして出会えてよかったっすよ。なんかローティーンの頃からの友達と一緒に映画観た後、(あ、ここって家父長制の象ち…)って感想言いたくなって、(伝わらん、やめよ)と、思って引っ込めるとか、あるもんな。1人で見に行って、後から感想あなたにLINEで送る方が自分、って感じがする。ローティーンの時と自分が変わって、話す言葉が変化して、同じ言葉で話せない時、私はずっと嘘をついてる気がしちゃう。私は同じ言葉で話せる時に一体感を感じるの。この前のスラダンだって、あなたが私に『父亡き後の男の子がどう生きるかの話だよ』って送ってきたから、あ、いいレコメンドだ!と思って観に行くことにしたんだもん。」

『兄もおらんやん!聞いてない!』って観た後さいかちゃんすぐツッコミ送ってくれたよね笑 依るべきものがなくなった後の成長譚というかさ〜。」

「やっぱね、ハウル(自身の世界に閉じこもり、責任を引き受けず母性への依存をやるの意)ばっか肯定してたらいけないと思いました。私は、大学院出ました顔で、ケアの重要性とか、語ってるけど、ほんと現実は難しいっす。以前、表象メディア論学会のテーマが「食べること、生きること」だった時があって、タイトルに感銘を受けて、結構遠いところまで足を運ぶわけですよ、それで、「孤食をへらす!」とか、「地域の食卓をつくっていく!」とかそういう類の話をきいて、「本当に素晴らしい、ぜひ、それを!それで!それをやっていきましょう!!」(パチパチ)みたいな気持ちになるわけですよ。でも、実際地元の飲食店で働いてみたら、日々は、そのお店をひとつ切り盛りするためにすごい負担がかかってるからさ、そういう余裕はないんですよ。なんか、余地のフェイクを生きてた気分になって…。概念ってフェイクですかね?フェイク概念の知的ぶった遊戯をただ綴って、文筆で発表して、それって、虚構の世界じゃないんですかね?

私だって、そりゃ、ミシマ社の本とか読んでさ、料理家の土井善晴先生の言葉を大事にしてさ、「料理と利他」「一汁一菜で良いという選択」とか言いたいよ!好きだもん!きれいごとを言える余地の中にいたい。それから文化的食卓の中だけ例えば、雑誌の『dancyu』読んでその中にいたいみたいなのもあるよ!いいの!?!?一部の文化的人間たちがつくった物の中に本当はずっといたい。その手段を、ただ自分のために探して、生きていきたい、それでも、いいの!?!

いいんだよ!ほんと優しいねぇ〜、なんかそういうこと考えたり書いたりするなら、既存の社会みたいなところから少し離れたシェルターみたいなところにいてもいいんだと思うよ。本当に大変な問題を最前線で扱う人はプロがいるし。さいかちゃんは、なんかいろんな場所に行ったりいろんな人に会ったりしてるけど、基本的にずるさといやらしさがないよね。」

「ああ、ないね、ずるさといやらしさ、ないです。そこ、自信ありです!嬉しい、メモします!気分がいい!」

──まあでも、このずるさといやらしさがないのも、いろんな余地の中で暮らしてきたゆえであるから…とか、そういうタイプの気のいい恵まれた友人が多かったりして、そういう子たちが結局好きなんだよな…とか、考え始めたら、キリがない。

目の前の彼女曰く、

「さいかちゃん、想像力豊かだから目の前の人の背景とか物語とか色々考えちゃって、考えなくていいところまで気にしてるでしょ。」

とのことなんだけど。でもそうなると──

「わたしね、本当に文化資本のことが好きなんです。かなり家庭の階層とか、受けた教育に依拠した、文化資本が高い人を周囲にいる人として好む傾向があって、これって、めちゃめちゃ顔のいい女の子しか好きじゃないとか、胸が大きい人しか嫌だとか、年収1000万越えじゃないと嫌だ、とか、CAと付き合いたい、商社マンが好きとか、そういう類の鋭利さと残酷さみたいなのを孕んでる気がしてね。自覚するとなったらガチですから…差別心が…。」

と、宣うた。

私は実家の近所の素敵なお宅に住んでる友人の家にお邪魔して、ケーキと紅茶をもらって、その家のお父さんと彼女と私の3人で、近所の映画館に『トップガン・マーヴェリック』とか見に行って、帰りにお蕎麦ご馳走になって帰ったりすることが、好きだ。私にとって、最も好きなこと。大好きなこと。でもそれは彼女たちの文化度が高いからではなく、もらった愛情、相手への尊敬、気にかける態度、知性、いつもおうちをきれいにして迎えてもらえるところ。そのすべてであり、私はそれを大事にしたいものとして選んだというだけなのだ。選びたいのだ。それ以上のものが見つからなかった。

かねてより、生活に余裕のある家庭の中の主婦や娘、みたいな人たちととてつもなく気が合う。彼女たちが好き。私は婚姻や家庭に依拠せずにそういうことをできる余地を探している。そのことを目指すのが悪いことのような気がしてしまうのは、多分、社会に余裕がないからだ、と、書きながら気がついた。80年代の雑誌とかフリーペーパーを読んでいるとそんな余地なことだらけだし、大正時代の少女向け雑誌の表紙には美しい服を纏った愛らしい少女たちが出てくるのに、それから後の昭和期の戦時中の雑誌の表紙はもんぺを着せられた丸々とした顔の童女が描かれていたりする。私は自分にもんぺを履かせていたと思いました。貧乏な時代だとしても、メルカリで質の良い服が中古で買える時代に、強制労働が問題になってるSHEINの服を買う人のことを軽蔑するし、嫌いだなと思う。まじでガチで友達やめたくなる(過激、友情より倫理を優先)。思って良いのだ。それは、魂のある場所をどこに定めるかだから。過度に同情しなくて良い。志の保ち方なんてたくさんある。私の友達には「たんぽぽハウス」からおしゃれを見出す人だっているんだから。

やっぱり、貧しい時代には、文化的なことをすることとか余裕があることが悪いことのような気がしてくるんだと思う。悪びれないでいたいなと思う。ずるさといやらしさがなく、ただ『dancyu』の夢の中にいたい26歳女性が、何階層にも自分の立ち位置のことを考えて苦しんでるのかわいそうな気がしてきた。さらにメタ認知。

だって80年代のanan、赤毛のアンのいるグリーンガーブルズのことを想って家事とか料理をしてる謎記事とかありますからね。あ、雑誌の図書館大宅壮一文庫おすすめです。ワンコインで昔の雑誌いっぱい読めます。なんか500円しか使ってないのに、これすらも贅沢な気がしてくるのなんなんだろう。文化的なものへの自罰感が伴う時代やばくないですか?あと、人の好きなものを悪く言っちゃいけないというのが染み込みすぎている。

でもこれ、時代のせいじゃなくて、私個人が感じなくて良いものを勝手に感じてるだけだったりするのだろうか。心のどこかでこういうものを愛好することに対して選民性をもっていて、だからなんか、見下してる感じになるのだろうか。友達が言った「憐れみは時に暴力」という言葉を思い出す。

私、コラボカフェとかで適当にコンテンツのメニューが作られて、どんなコンテンツでも変わらないコースター、アクスタ、アクキー、缶バッジばっかり売ってる時代が嫌い。消費者が、なめられてるなって思う。推し活も、投票も、ランキングで消費を煽るのも嫌い。消費者側が主役のコンテンツの方が好き。

欲しいものがあんまり見当たらない。マガジンハウスの雑誌は、昔の方が面白い。冒険心を感じるコンテンツが減った。つまらない、退屈している。頑張ってる人たちも、それらが好きな人もいるかもしれない。知人の中には作り手に回ってる人もいるだろう。外野がいろいろいうのはダサいかもしれない。それに、私が探しに行ってないだけ。でも、私は自分が20代を過ごす社会がこんな感じだと思ってなかった。私の幸せは、ラバストを集めることでも、整形することでもなくて、500円払って大宅壮一文庫に行って、幸せになることなのだ。

興味関心の違う過去の友達が、マッチングアプリで会う人の話や誰と誰が先に彼氏ができたら報告し合う会とかのことを、つまんない、と思って良いのだ。お茶代の500円を持って、大宅壮一文庫に行きたい。

「閉じられた虚構の中で自らの幸せを希求して良いのだろうか」と、一緒にランチをした友達に問う。

「開け閉めは大事、あと、さいかちゃん、結局そこだけじゃつまんないから外側にあったりしてるんだと思うよ。退屈するんでしょ。」

と言っていた。虚構で閉じられた中の文化的空間仕草みたいなのはなんかフェイクしいなと思ってしまう。ストリートの輝きと、トラディショナルな輝きはその両面で輝くものだし、なんか動き続けてる方があんまり人のことを嫌わずに済むと思うんだよな。移動が少ない場所ってほら、吹き黙るから。まあ、珍しくいろいろ言いましたよ。

うさんくさいもの、うさんくさいビジネスの匂いを持ってくる人も嫌い。名刺に肩書き裏面までびっしり描いて
る人も嫌い。自分が何をしたくないかがわかってない人が嫌い。嫌いなものたくさんある。嫌われたって良いし、嫌われても良いのだと思う。

庭を広げる、自分の気に入った庭で私の生きるを埋める方向に私は舵を切ることにした。また変わるかもしれないけど。

あ、トップ画像はこの前のスナックで差し入れにもらった千疋屋の箱。どんなプレゼントでもうれしいけど、私がダントツで1番嬉しくて、欲しいものはこれです。これが好きです。こういうのを愛好していきます。







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