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「返事はいらない」のは、呪いがかけてあるから ー松任谷由実 デビュー50周年に寄せてー

松任谷由実が、デビュー50周年を迎えた。半世紀にわたってこの国に君臨している魔女の最初のシングルに想いを馳せる。

1972年7月5日 シングル「返事はいらない」でデビューした、荒井由実18歳。

スーパーマンのTシャツを着たあっさりとしたあどけない顔の少女は、のちに80年代の日本の景色を次々と変えていくことになる。

八王子の呉服屋の娘に生まれ、小学6年生で横田米軍基地内の店で洋楽のレコードを買い漁るような早熟な子供だった。中学の頃は真夜中に家を抜け出し、当時の文化人たちが集ったレストラン、六本木「キャンティ」に出入りしてデビューのチャンスを掴む。

最初のアルバム「ひこうき雲」のレコーディングで当時「キャラメル・ママ」の一員だった、松任谷正隆と出会う。アルバム内の一曲「雨の街を」の収録でディレクターに、ピッチを重視しビブラートを取るように指示され、苦戦する由実だったが、正隆と二人で散歩に出かけた井の頭公園で「好きな花は?」と尋ねられ、「ダリア」と答えると、後日収録の場には正隆が用意したダリアの花が一輪牛乳瓶に挿してあったという。*(1)

それから二人は付き合いはじめるのだが、由実がデートの待ち合わせに向かう途中で具合が悪くなってしまい1時間以上遅刻をしてしまったことがあった。まずは新宿まで一気に行って待ち合わせ場所の荻窪に行く方が早いと考えた由実は特急に乗るのだが、荻窪を通り過ぎる瞬間に車窓からベンチに腰掛ける正隆が見えたという。その姿を思い出すと大概のことは許せてしまうというから微笑ましい。数年後にその時のシャツの柄と色を鮮明に覚えている、という話をすると「これかい?」といって正隆がそのシャツを出してくれて...という話を以前ラジオで話していた。*(2)

まだ恋にさまざまな余地があったころの話だ。

1976年横浜のホテルで正隆と結婚式を挙げたユーミンは、「松任谷」由実として、猛然と突き進んでゆく。苗場のプリンスホテルでのリゾートコンサート。逗子マリーナでのコンサート。サーカスに、シンクロ、フィギュアスケートが融合した1999年から始まったSHANGRILAツアー。毎年2枚アルバムを出していた1979年〜1983年。どれも人間としてのエネルギーが強すぎる。

ユーミンが作った時代。あの頃、時間と空間は不自由な中に閉じ込められていて、だからこそ日常は舞台として機能した。

真夜中の高速道路を走り抜ける車の中に、真っ白なゲレンデときらめくリゾートでの時間に、彼の草野球やサーフィンを見守る休日に。ロマンとユーミンがあった。

街中がユーミンの曲を聞いて、ユーミンの物語をやろうとしていた。私は、やっぱりそれをどうしようもなく愛しいと感じてしまう。ユーミンという大筋の中に、ひとりひとりが紡ぎ出したあの頃のドラマが、その人たちの数の分だけあって、多くの人の思い出を包み込んだユーミンの音楽が好きなのだ。ユーミンの曲ほど、聞いている人が主役の音楽というのもないと思う。あれだけ派手で、特徴的な声を持ったユーミンだけど、その歌の中心には聞き手がいる。日常の景色を一瞬で変えてしまうような呪いをかけてあると思うのだ。

(まじない、だろうか、のろい、だろうか。魔法というよりもユーミンにはこういう言葉の方がしっくりくると思う。)

1枚目のシングル、「返事はいらない」はたった300枚ほどしか売れなかったという。私もユーミンは好きだったけれど、この曲を知ったのはサブスク解禁後である。だけど曲としてすごく好きで、何度も何度も繰り返し聞いている。それまではCD-BOXでしか聞けなかったこの曲が手軽に聴けるようになって、こんなに嬉しいことはない。
ジャケットと同じく曲もそれほど派手なものではない。だけどそのメロディが心地よくて、ユーミンの紡ぐ歌詞の世界は確固としてそこに存在している。

昔にかりた本の中の
いちばん気に入った言葉を
おわりのところに書いておいた
あなたも好きになるように
荒井由実『返事はいらない』1972年

これが最初にして、最大のユーミンの呪いなんじゃないかと思う。

日常的な些細な行動の中で、ロマンへの入り口を見出す。きらびやかなドライブや、リゾートがなくとも、「かりた本」というちいさなちいさな世界において、日常をロマンが蝕むのが、18歳の魔女ユーミンの力である。「返事はいらない」けれど、借りた本の好きなフレーズを覚えさせたいというのは、あまりにも呪術的である。きっとその言葉を相手は忘れられないだろう。

私たちはもう49年間ずっと、ユーミンから綴られた、彼女が一番気に入った言葉を見ているうちに、好きなってしまったようなものなのかもしれないと思う。

ロマンの呪(まじな)い。

【参考資料】
*(1)危機を乗り越え、松任谷正隆&ユーミン夫婦が「戦友」になれた理由 | 文春オンライン 2018/11/29
*(2)『松任谷由実のオールナイトニッポンGOLD』2018年1月26日放送

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