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人生には正解も不正解もなく、信じるべきは自分だけなのに。

物心ついた頃から何かを表現することが好きでした。

子供の頃は絵を描いたり、空想したりするのが大好きで、ピアノや吹奏楽にも触れていたので、やれ漫画家になりたいだの、作家になりたいだの、音楽科に行きたいだの、芸に携わるような夢をよく掲げていました。

大学生になっても、社会人になっても、その夢は心の何処かで捨てきれず、折に触れては小説を書こうと試みたものでした。

とは言え、決して飽き性ではないはずの私は何故か、書くことに関しては継続力をなかなか発揮できませんでした。

今になって思えば、その理由はおそらく二つあって、
一つは「話の全体像がまとまっておらず、構成力がないこと」
もう一つは「人目を気にして、おかしな文章になっていること」かと思います。

勿論、読み手を意識しない文章に読者は付きません。
でも、私の場合、それ以上に「えぇ格好しい」になっていて、全然自分らしくなくなっていたのです。

そしてそれは、文章だけに留まらず、私の「生き方」にも作用していました。

世の中にはどこの誰が決めたのか分からない「常識」や「当たり前」が溢れており、気付けば私は、ありもしない正解を探して生きるのが当たり前になっていました。

「人から良く見えるように」
「人に迷惑を掛けないように」
「悪目立ちしないように」

自分の「本当にやりたいこと」は二の次で、無意識のうちに、他人の目を優先。

そうして歩んだ結婚生活は歪みを来し、「私らしさ」を失った私は、夫の基準でばかり物事を考えるようになってしまい、それでいて時々無性に自分らしくいることを欲するというジレンマに嵌っており、異変と限界に気付いた夫が解き放ってくれる形で終わりを迎えました。

夫との離婚を経て、かつてに比べればかなり「自分らしさ」というものを取り戻してきた状態ではありますが、それでも子供の頃から染みついた他人の評価を気にする癖はなかなか抜けません。

最近も、「自分の人生の舵を取るのは自分自身だ」と、頭では分かっているのに、他人の意見に振り回されて、自分の本当にやりたいことを見失い、自信を失っていたところでした。

人生には正解も不正解もなく、判断軸はすべて自分自身にあるというのに。
自分自身を信じられなくなっていたのでした。

自分の可能性を過小評価しているとも言えるし、逃げ出したい気持ちでいっぱいとも言えるこの状態は、実に格好悪くて、この文章だって構成が全く為っていない。

それでも、委縮して書けずにいるよりは良い。
自分の思いを少しでも言葉にできるなら良い。

そう自分に言い聞かせて、リハビリがてらキーボードを叩く春の夜。

憧れの「表現者」への道程は長いけれど、躓いて転んだり、後戻りしたりしても、歩を進めることを諦めない限りは近付いていけると信じて。
格好悪い自分に乾杯。

豊宵みさ

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