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思い込んでところてん


そんなものだと思い込んですれ違っていたのは、ところてんのことである。

ある時、夫とところてんの話になった。
夫がところてんは酒のつまみになると言うのである。夫のご実家では夕飯のおかずにところてんが出たと言うのである。

これを読んでくださっている7割くらいの方は「まあ、そんなものだろう」と思われるかもしれない。
そして2割くらいの方は「え!つまみはわからなくもないけれど、夕飯のおかずって何それ」と思われるのではないかしら。

7割だの2割だのという数字の根拠は、以下のツイートです。(良かったら投票してみて下さい)


これを書くにあたり、ツイッターでアンケートを取らせていただいたら上の結果になったもので。
ご協力くださった皆様、ありがとうございました。

ところで、ところてんを最後に食べたのはいつだったかしら。好きでも嫌いでもないので思い出せないけれど、私はところてんを黒蜜で食べるものだと思い込んでいたので夫の話を聞いてひどく驚いた。
「何それ、変なの」と笑い飛ばしスーパーで探してみたら関東圏のそのスーパーではお酢のところてんしか取り扱っておらず、これまた驚いた。
好きでも嫌いでもないくせに黒蜜のところてんが置いていないことに憤慨し、無性に黒蜜ところてんが食べたくなった。(それからよく探してみたら両方置いてある店もありました)

もし私達がお互いところてんにひどく執着していたら、関係に溝ができていたかもしれない。笑い話に終わったがそんなものだと思い込んでいたにもかかわらず少数派だったことには、ひどくうろたえてしまった。

他人と暮らす時に大きな影響を及ぼすのが食文化とよく聞くけれど、結婚前はいまいちピンと来なかった。仲良く譲り合って話し合えば良いじゃないとのんきに構えていたけれど、それは意識的なレベルの話である。
お互い「そんなものだと思い込んで」いるのが食文化なので、無意識レベルでの文化の違いが当然出来てくる。

お互いの食文化の違いを許容できるかどうかは愛情の深さの問題ではなくて、他人にどこまで「まあ良いや」と思えるかだと思う。そして最終的には「まあ良いや」と思える相手と出会ったかどうかという運の良し悪しが大きいと思う。

他人と暮らすことの一例として結婚を挙げた時に「結婚する前に確認した方が良いこと」というのは食文化以外にも確かにある。
けれども、どんなに確認したとしても「そんなものだ」と思い込んで生まれるすれ違いは避けられないから、生活がスタートしてからしばらくは摩擦が起こるのは仕方がないし、生きていれば色々あるから何かしら摩擦は起きるわけで、つまりは他人との共同生活と摩擦はセットなのだ。
他人との共同生活とは、夫婦とは、結婚生活とは。
振り返ると勢いで結婚してしまったが、もしわかっていたら結婚しなかったかもしれない。

たかだか10年の生活なので偉そうなことは言えないが、もし誰かに「生活を続ける秘訣は」と聞かれたら、たまたま「まあ、良いや」と思える部分が多かっただけです。と答える。
相手はどう思っているかは知らないが、他人との共同生活は努力というよりギャンブル的な要素が大きいし、少なくとも私に限ってはたまたま続いたというだけの結果論でしかない。(相手は自分の努力のおかげと言うかもしれないからギャンブル的と思っていることは内緒にしておく)
ところてんの味付けが譲り難いものでなくて本当に良かった。

私達には「そんなものだと思い込んでお互いすれ違っている」ことに気づいていないだけということはまだまだあるはずだ。そしてどんな地雷が埋まっているかわからない中、一日を続けている。

もともと明日死ぬことだってわからない中を生きている。そんな中で生きるためのコツだのノウハウだの言い切れる人とは少し距離を置きたい。
そして私は性格が悪いので、声高にコツだのノウハウだのを説いている人が困っているのを見かけた時はちょっとだけ喜んでいる。

読んでくださっている方の中には他人との共同生活に踏み切れないで迷っている人もいらっしゃると思う。私に限って言えば勢いと無知は大事なことだった。
そして上手く行けば縁があったというし行かなければ縁がなかったという「もっともらしいフレーズ」がついてくるだけのことである。
縁があるなしって無責任で便利な言葉です。
コロナのことがあってから、本当に世の中胡散臭いと思うようになった。無責任もいけないけれど、みんな結構いい加減なはずだからそんなに考えずに良かったらどうぞと言いたい。別れる時に備えてお金は大事かもしれない。

最後ぐだぐだで終わりますが、私の性格が悪いことが読んでくださっている方に印象深く残らねば良いと思う。