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引き出しの中のキャラメル缶(古井戸に向かってつぶやく①)

さっき、好きですと言われた。

言葉って人によって定義も重みも違うものだ。だからその人が放った言葉の意味と重さをはかりかね、あれからずっと考えている。

それでも私なりの言葉の定義のおかげで、どうにももふわふわ落ち着かない。好きってそういう言葉だ。

あの人は決死の覚悟で好きと言ったのか、それとも「俺おつまみはチーたらが良いんだよね」くらいの軽さで言ったのか。

兎にも角にも私には好きなんて言葉は久しぶり過ぎて、それだけでご飯が何杯でも食べられる。思い出して「めっちゃ甘酸っぱいわあ」なんてご飯をおかわりする。むしゃむしゃ食べる。よし、そんな感じで受け取ることにしよう。

帰り道もぐるぐる考える。
いや待て。家庭持ちのおばさんに好きなんてどの口が言うのだろう。あの女に言い寄ったらどのくらいで落とせるか賭けようぜと下世話な上司と賭けでもしているのだろうか。
それとも「お話しだけでも聞きましょうか」と腰を落ち着けたところで高額な何かを売りつけられるのだろうか。
私の何を気に入ってどんな思いで口に出したのだろう。あえて、伝えたのだろう。

そして思い直す。
さっき言われた好きという言葉はご飯のおかずじゃない。
あれは多分、こっそり引き出しにしまってある上等なアーモンドキャラメルだ。
時々引き出しを開け、缶を取り出し、優しく振る。缶はお気に入りの大切なものだ。きっとカランとかカサカサとか密やかな音がする。

フォレスト・ガンプは人生をチョコレートの箱に例えていた。「開けてみるまで分からない」
でもこの箱は「開ける前から分かっている」
入っているのは、安心できるあのアーモンドキャラメルだ。

缶を振って音を聴いたら、そのまま大事にしまう時もあるし、1つだけ取り出し包み紙をはがし口に放り込む時もある。
舐めて転がし口の中で溶けるのを待つ。噛んで喉の奥が甘くねっとり焦げるのを楽しむ。苦味と共に細かなアーモンドが喉にざらつきむせる時もある。
でも、毎回最後はあっという間に溶けてしまうのだ。
束の間楽しんだら、包み紙をそっと握りしめるか丁寧に4つに折ったり蛇腹に折ったりする。
名残惜しく缶を引き出しにしまう。

そして、好きという言葉は思い出す度に減るだろう。缶の中のキャラメルの数を気にしながら思い出す。時間が経てば劣化もする。
暑さでキャラメルが溶けて包み紙にこびりつき、残念な形になるかもしれない。

そう、私はこの好きという言葉を引き出しの缶の中のキャラメルとして受け取ることにした。
あの人には良い思いをさせてもらって、ありがとうと思っている。


このマガジンでは、スマホのメモに書き溜めていた「古井戸」という小話を少しずつnoteに投稿しようと思います。時系列はバラバラだし!事実でもなければ全くの創作でもありません。