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【小説】灰色の海に揺蕩う⑥

「――玲ちゃん、土日泊まらせてくれない?」
 顔を出した玲の部屋では、亮が泣き言を口にしていた。三隅家の家庭内事情は深刻を極めているようだ。
 幼なじみの申し出に、玲はあっさりと首を振った。
「今、ウチの両親が契約更改の会議してるから。やめておいた方が良い」
 その言葉に、澄華はクッションを引き寄せながら呟いた。
「マジで。もう、そんな時期か」
 久我家の夏の風物詩だ。
 普段は家の中にいてもロクに口を利かない夫婦が、この日ばかりは連日顔を合わせて真剣に話し合いを行う一大イベント。
 議題は久我夫婦の結婚について。
 税金の支払い、生活費の折半、玲の将来に関する費用負担。結婚という契約を続けるにあたってのメリット・デメリットを比較検討する、温かみと縁のない家族会議だ。
「今年は難航してるから、二人とも機嫌が良くないし。まぁ、契約続行になると思うけど。なんだかんだ二人とも金に関しては厳しいから」
「難航? 珍しくない?」
 玲が父母を評するときに良く使う言葉は、夫婦じゃなくてビジネスパートナーとしてなら上手く付き合っていけていただろう、というものだ。金銭に関係するシビアな姿勢だけは共通している、という。
 契約内容に変更事項でも出来たのだろうか。
 澄華の質問に、玲は瞬きをしてから首を傾げた。
「――まぁ、二人とも色々あるんじゃない? もう、四十過ぎだし。更年期とか、老後の生活設計とか」
「ふぅん」
 玲の返事に、微かな違和感を覚えながら今度は澄華が首を傾げる。
 そんな澄華を置いて、玲は亮に向き直った。
「泊めるのは無理だけど、どこか行く?」
「どこかって、どこ?」
「川とか、山とか、海とか」
「玲ちゃん、わざわざ行きたい?」
「全然。提案してみただけ。じゃあ、カラオケとか?」
「玲ちゃん、行きたい?」
「全然」
 大体、この町のカラオケボックスの料金は一時間あたりの単価がべらぼうに高くて学生の財布に優しくない。バスやJRを使って、一時間ほどで到着する隣の市には全国チェーンで展開しているカラオケボックスもあるが、移動にかかる料金を考えればプラスマイナスゼロだ。むしろ、マイナスか。そして三人とも、特別に歌が好きという訳でもない。
 それに、この町で出歩いていると必ずと言って良いほど知り合いに出会う。同級生、後輩、先輩、教師、同級生の保護者。どこで何をしていたのかは大抵が筒抜けで、常に誰かに見られている気がして落ち着かない。
 そう考えると、出掛ける気力がドンドンと萎えていく。
 結局、土日のプランは立てられないままに話は流れた。そもそも、逃げ回っていたところで亮の家の問題が解決するわけでも無いのだ。
 澄華も玲も亮も、どれだけ厭ったところで帰る
 場所が一つしかないことを理解している。似たような諦観が三人の顔に浮かぶ。
 思い出したように話題を変えたのは、亮だった。
「そう言えば、スミちゃん。転校生とどうなったの?」
「なに、その誤解を招く聞き方」
 澄華は眉を寄せて亮を見た。
「どうなったって、何が?」
「友だちになった?」
「なってない」
 澄華は脱力しながら亮に言う。
「だから、アンタはわたしの保護者か」
「幼なじみって保護者みたいなもんじゃない?」
 亮が真顔で言うのに、澄華は意見を求めて玲を見た。玲は無表情に肩を竦めた。
「そんな友だち百人できるかな、みたいなノリで聞かれてもさぁ。中学生にもなって、今日から友だちね、とか言わないでしょ。普通。え? 言うの?」
 話している内に自分の常識に不安を覚えて、澄華は玲を見た。玲は首を傾げている。
 澄華は真面目な顔をして亮に向き直った。
「大体、友だちってどうやってなるもんなの?」
 亮が呆気に取られた顔をする。
「――スミちゃん、それ、マジメに聞いてる?」
「伊達にボッチやって無いっての」
「それ、威張るところじゃないから」
 威張ってはいないが、こんなことで責め立てられても叶わない。澄華は両手を上げて言う。
「だからさ、別に友だちなんていらないってば。亮と玲ちゃんがいるし。クラスメイトの一部、親切な女子とはそれなりに友好的な関係を築けてるし」
「えー、だって寂しくないの? 女の子の友だちいなくて」
「なんで?」
 真面目に澄華の交友関係を心配しているらしい亮に、澄華も真顔で問い返した。それに首を傾げてから、亮が唸って言葉を絞り出す。
「――情操教育的に?」
「だから、アンタはわたしの保護者か。第一あの母親と暮らしてる時点で、わたしの情操なんてたかが知れてるって言うの。それに、関口さんもそう言うキャラじゃないっぽいし」
 玲が聞いた。
「そう言うキャラって?」
「ベタベタした女同士の友情に感動するキャラ」
「誰もベタベタしろって言ってないじゃん。普通に仲良くしろって言ってるだけで」
「まぁ、そうだけどさ」
 亮の言葉に、澄華は腕を組んだ。
 あざみとは上手くやっていけそうな気がする。けれども、それは親愛の情から来るものでは無く、もっとドライで打算的な関係だ。
「同盟なら組めそう」
 考えて、一番しっくりする言葉を澄華は口にした。玲が真顔でツッコミを入れる。
「戦国武将か、お前は」
「スミちゃん、なにと戦ってるの?」
 呆れた顔の亮に対して、澄華は頭を掻いて呟く。
「なんだろうね」
 胸に去来するのは、突然に口を利いてくれなくなった女の子だ。転校することすら、澄華は知らないまま。さようならも何も言えずに、目の前から消えて行った。
 一方的な拒絶。
 それに伴う狼狽と混乱。
 そして、全てが明らかになった時のあのどうしようも無さ。
「――とにかく、わたしにはそういうのいらないから」
 澄華の口調に混ざる頑なさに、亮と玲が視線を見交わした。澄華はそれに気付かないフリをして、クッションに顔を埋めた。

■■■■■

 これほど月曜日を待ち望む週末があっただろうか。
 澄華の母親の奇行は、すっかり澄華の手に余るようになっている。
 先週の突撃で懲りたらしく、祖父母の家に出向くことはしなかったものの、やけに澄華にじゃれ付いて一緒に出かけようと誘う姿は、とてもじゃないが四十近い大人に見えなかった。
「もう中学二年生なんだから、澄華だってオシャレしたいでしょ。服とか買いに行かない? お母さんと」
 ――なに言ってんだ、この女。
 ここ数年、澄華に母親と買い物に出掛けた記憶は皆無だ。
 中学の制服の採寸にだって、澄華は一人で行ったし、日常的に着ている服は何年も使い込んで古くなったものばかりだ。
 今まで澄華の服装について、最低限にも気を配ったことなど無いくせに。
 一緒に買い物に行こう、だなんて白々しい。
 具合が悪いから家で寝ている、という母への拒絶は、全くの嘘では無かった。
 吐きそうだった。
 他ならぬ母親のせいで。
 自分の布団に包まって動かない澄華を置いて、母親は一人で買い物に出掛けて行った。
 本当に母親ぶりたいのならば、具合が悪い娘の看病にあたるべきだろうに。
 どこまでも自分の欲望の方が優先なのだ。所詮、母にとって澄華の価値はその程度だと改めて思い知らされた。
 土日を殆ど眠って過ごした澄華は、月曜の朝になるやいなや制服に着替えてアパートを飛び出した。
 むわりと、空気が重い。
 ギィギィと軋む自転車のペダルを漕ぎながら、澄華は大きく息を吸い込んだ。
 もうすぐ夏休みがやって来る。
 学校が開放されている時には、図書室や教室に引きこもって宿題に取り組むのが澄華の休みの過ごし方だ。
 しかし、今年の夏は嫌な予感しかしない。
 あの調子の母親に、嬉々として『彼氏』を紹介されたら、脳の血管が切れる自信がある。今も想像しただけで、滅茶苦茶に叫びだしてやりたい衝動にかられるぐらいだ。
 そして、引き合わされた『彼氏』が同級生の父親だったら?
 地獄も良いところだ。
 自転車置き場に投げ捨てるように自転車を置いて、澄華は学校の中に駆け込んだ。
 汗と湿気で、肌がじっとりとしている。
 不愉快だ。
 まだ誰もいない学校の廊下に、足音を響かせながら澄華は教室に足を踏み入れた。まっすぐに自分の机を目指して歩きながら、澄華はふと足を止める。
 ぷん、と鼻に付く爽やかな香り。
 なんだろう、この匂いは。
 どこかで嗅いだことがあるけれど、なんだったのか思い出せない。
 机の上に鞄を置いて、澄華は教室を見回した。
 香りの正体を思い出す。
 ――木の匂いだ。
 鼻を引く付かせながら、澄華は香りの出所を探って教室の中を歩き回る。何かが変だ、と脳味噌が主張していた。
 いつもの教室なのに、いつもの教室では無い。
 ふと、足下に散乱した木屑を見つけて澄華は屈み込む。そして、視線を上げて違和感の正体に気付いた。
 木目調の滑らかな天板が、ズタズタに傷つけてられている机があった。
 誰か人間の仕業なのに、間違いは無かった。
 なぜなら、ボロボロの天板にはギクシャクとした角度で彫り込まれた、大きな文字が描かれていたからだ。
『死ネ』。
 悪意の塊のような二文字が、目の中に飛び込んでくる。
 よろめいてから、澄華はズタズタにされた机が誰の物なのかに気が付いた。
 その机は、一週間前に転校してきた関口あざみの物だった。

続く

※この作品はエブリスタでも掲載しています。