【小説】灰色の海に揺蕩う⑩完結
澄華の左掌にあった傷が癒えて、瘡蓋が取れたのは夏休みに入る直前だった。肉が白く盛り上がって、筋を作っている。たぶん、この痕は消えないだろう。
フジコサンに関する一連の噂は、学校から綺麗に排除された。
タカサキもクラミチも、クラスにいるが前ほどの勢いも元気も無い。毎日のように生活指導に呼び出されて、何らかの話し合いがなされている。とはいえ、それは表面上のことだ。夏休みが始まり、新学期になれば彼女たちはまた、いつもの調子に戻るだろう。彼女たちが本質的に反省も後悔もしていないことを、澄華は知っている。それは大人達も、だ。
ひらひらと尾を棚引かせるようにしながら泳ぐ、毒を持つ熱帯魚。
彼女たちは、そういう種族なのだ。
佐倉藤子は、あの日から学校に来ていない。噂では、夏休みを機に札幌の寮が併設されている学校へ転入するらしい。
自転車に跨がって、澄華はペダルを踏み込んだ。
あざみとは、あれから放課後を一緒に過ごすようになった。学校でも会話をする。ブレザー姿は相変わらずだ。夏休み明けには制服を整えると言う。
亮の家は、だいぶ落ち着きを取り戻して来たらしい。妹が部屋から出て来るようになったと、ほっとした顔で言う亮がお人好し過ぎて澄華は心配になってくる。
玲は――相変わらず、淡々としている。低体温だ。玲の両親も、相変わらず結婚生活を続けたままだ。
澄華の母親は、どうやら玲の父親と別れたらしい。あんなに夢中になっていたのに、今では口にするも嫌そうな顔をしている。現在はパート先の上司と何度か出掛けている。やっぱり独身の男の方が良い、なんてどの口が言うのかと思う台詞を嘯いていた。
あの人は、きっと、どうしたって変われないのだろう。
母親よりも極自然に女であることを選べる人。それが澄華の母なのだ。誰が悪いわけでも無い。そういう人で、そういう女なのだ。――仕方が無い。どうしようもない。
自転車を漕いで、玲の家を目指していると、不意に風が変わった。
生ぬるいものから、冷たい風に。
山の方に視線を転じれば、薄暗い雲が広がっているのが見える。
「ヤバッ」
呟きながら、澄華は自転車を漕ぐ足に力を込める。
ハンドルを握る左の掌が、痛みを訴えてくる。
その度に、澄華は思う。
――私は、佐倉藤子のSOSを見逃したのだろうか。
見ようともしていないから、気が付かなかったのだろうか。
同じ狭い海の波にたゆたっていたというのに。
それでも、澄華にはどうしても、佐倉藤子を助けてやることは出来なかったと思う。
所詮、澄華はクラゲなのだ。
佐倉藤子の望んだような手助けは、きっとしてやれなかったと思う。
良いじゃ無いか。
こんな狭く汚い海にこだわらなくたって。
許されるのならば、どこまでも遠くに、水の合う場所に行けば――良いじゃ無いか。
佐倉藤子の気持ちを澄華が理解出来なかったように、澄華の気持ちを佐倉藤子が理解する日は来ないだろう。
後二千九百日の終わりを、指折り待つような、そんな気持ちを。
青空は、あっという間に灰色の雲に飲まれて、ざぁっと冷たい雨が叩きつける様に降って来た。
通り雨。
よくあることだ。
空の水と、海の匂いが混じった、独特の香り。
「あぁ、最悪」
大きく独り言を呟きながら、澄華は頭を振った。セーラー服の布地が、水を吸い込んでみるみる内に重くなっていく。スカートも同様だ。
――玲ちゃんに、着替え借りなきゃ。
頬に水が流れる感触がする。それが涙なのか、雨なのか良く分からないまま、澄華は自転車のスピードを上げて、ひたすらに玲の家を目指した。
END
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