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受動的に成立する世界なんて、ありえない

皆さん、こんばんは。
今日は、皆さんが今まさに、そして今まで接してきたものについての話です。

皆さんはどのように、世界というものを認識しているのでしょうか?
おっと。問いが大きすぎますか?では、今のあなたが見ている世界は、どのようなものでしょうか?パソコンの前でしょうか?スマホを握っている?どんな場所にいるでしょうか?座っている?立っている?汗をかいている?

それらの情報は、五感を通じて我々に感知され、あなたの世界を構成しています。それは現実と時に呼ばれ、自分という主観を通じてまとめられた情報たちです。それらを、自分の身体や意識を除いて、我々はさも受動的に受け取っているように思えます。

受動的に入ってきた情報に対して、自由な意思による何らかの判断が生じ、何か他のことに集中していない限り、外部からの情報というものは自分にそのまま届いている、と皆さんは思われるでしょうか。

しかしながら、それに異を唱えてみたいと思います。
自分の具体的な話をしましょう。

自分は大学時代、よく通る道がありました。自宅から大学まで、徒歩で行くことに決めていたので、週4日ぐらいは通る場所です。

そこは繁華街でもなく、大学付近でもなく、自宅と大学の中間スポットくらいの場所です。自分はぼんやりと、実に何も無い場所だなと思っていました。息がほっとつける自然があるわけでも、ビジネス街とも違う。音楽を聴きながら、意識を耳に集中させて、体を使うのに最低限必要な視力しか使っていなかったかもしれません。

さて、分岐点となったのは「お金」の問題です。実はその当時、かなり自分の中で倹約を心がけていた時期でした。無駄なお金は何もつかうまい、としていたのです。

ところが、ある日たまたま余裕ができて、「今日は少しぐらいお金が使えるぞ」という気分の日があったのです。

繁華街でなにか買うか、と大学から歩いていつものとおり道を通っていたときのことです。自分の中で、奇妙な変化が起きていました。

「何にも無い場所」だった場所に、いろいろなお店があるのに気づいたようになったのです。実は、目立たないけれどもカフェもありました。自分でわざわざ探したわけではありません。それは「自然に」目に飛び込んでくるようになったのです。

おそらく、無駄なお金は使うまいという気持ちから、無意識的に視野が狭くなっていたのでしょう。そうした目移りを、自分の中に抑えていたのです。

このように、受動的に受け取っているように見える情報も、自分が主体的に制限したり、歪曲されたり、フォーカスされている場合があります。認識や意思といった精神によって情報が変形されているのではなく、実は情報そのものがすでに変形されて、自分に届いている

それにより、自分が客観的に存在していると想定される世界ができるのです。自分に届いた時点で、ゆがめられているにも関わらず。

この話では、「お金」をフックにして、そのある状態とない状態の情報のあり方が変わった、という話でした。しかしお金以外にも当然、あてはまる話です。

「何か」を知らないと、感じられない情報もありますし、「何か」を知っていると失われる情報もあるでしょう。客観的にパーフェクトに受け取れる情報とは、実は存在しません

と、いうことは、今の私たちは何を見逃しているのだろうか?それに必要なものは何だろうか?「何か」を手に入れることができれば、当たり前のようにある「世界」を、自分で変えることができるだろうか?

「何か」は体験であるかもしれませんし、「知識」であるかもしれません。
今日の何かの行動や、学んだ知識によって、あなたの世界は変わるかも知れない。あなたが変わったことにより、世界も変わったのだ。天気予報士の見る空と、画家の見る空は、きっと違って見えているのだろう。そういうことだ。

だから、今日も行動しよう、学ぼう。新しい世界を自分のものにするために。


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