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絶望の国の絶望の若者たちへ〜プロローグ〜

「今、この国は抽象的なスローガンの下に、真剣に取り組むベき諸課題から目を背け続けています。絶望の国です。超高齢社会に生きる私たち若者は圧倒的マイノリティであります。民主主義的にどうあがこうが、意見を達成するのが難しいというのが今の私たち若者の現状です。すなわち、絶望の国の絶望の若者なのです!」

2023年3月1日、とある式典の壇上において私の放った言葉である。

絶望

この言葉が静謐な広々とした会場に充満したときの感情というものはなんとも言い表し難いものであった。なにか悦に入ったような不思議な感覚がそこにはあった。しかし私がこの言葉に込めた思いは、決して単なる自己陶酔やレトリックではない。あの瞬間私は大いに真面目だったのである。これから新しい道へと行く多くの若人を前にして、希望とは正反対の「絶望」という言葉を選択したことは多くの聴衆にとって意表を突いたものだっただろう。だが、その意表が、理解されるべき"常識"になってほしいと思っているのだ。わが国の未来を歩む若者にある"絶望"。これがいかに美しく、大いなる可能性を秘めていることか。

あの日、式典に出席した約200人の若者は日本全国に散っていった。大都市に行ったものもいれば、地方の山の中に消えていったものもいる。その行き先は千差万別である。それぞれの行く先々で数多くのものを目撃し、体験し、経験したに違いない。そこには何があっただろうか。楽しさだろうか、苦しさだろうか、あるいは寂しさだろうか。果たして、そこに絶望はあっただろうか。

私も住み慣れた故郷を離れた人間の1人である。「何もない」という一言で形容するしかないと考えていた我が故郷だが、この一年でその印象は大きく変わった。自分の身をユビキタスな物質社会に置いたことで、故郷を眺める視点が変わったのである。私は実は故郷というものを全く知らなかったのかもしれない。日常の中に颯爽と消えていた目まぐるしい変化が、帰省するたびに如実に感じられるようになった。新たな土地との比較、断絶的な時間でのみの観察、どれも今私が故郷を覗いている視点は離郷したからこそ得たものだ。私の中のノスタルジーは自ずと強くなっていった。もしかすると、同じように望郷の念や故郷愛が実感されるようになった人がいるかもしれない。しかし、私は同時に果てしない絶望というものもまた感じているのである。

例えば、地元地方であるM市にはこの1年間でスターバックスコーヒーや吉野家といったこれまでにはない有名チェーンが次々とオープンし、また大型商業施設の整備計画まである。帰省した若者たちは、故郷の発展に目を輝かせたかもしれない。しかし、これはまさしく絶望の一端なのである。なぜならば、都市のチェーン店は苦戦を強いられているからだ。知名度の利や敷居の低さといったこれまでチェーン店にあった強みが、食べログやUber eatsのようなバーチャル空間上に全ての飲食店を並列に扱うプラットフォームによって無効化されるようになった。あるいは、InstagramやTwitterでこれまで知名度のなかった個人店が新規顧客をいとも簡単に手に入れられるようになった。数の論理と独占的支配によって多売薄利の経営をしてきたチェーン店にとってこれは死活問題である。ではどうするかといえば、既存の商業環境が維持されつつ数の論理が活かせるギリギリのラインーつまり中小地方都市ーに進出せざるを得ないのである。ただでさえ小さい地方都市経済というパイに大型資本チェーンが次々と参入し、それぞれのジャンルを独占していく。既存の店舗が淘汰される可能性はもちろんのこと、新たに若者による地元密着型の個人店の展開の可能性までも摘み取られることとなるだろう。

たしかに、これは大変なことである。地元の経済における帝国主義的性格は健全な資本主義の発展を大きく阻害する心配がある。だが、私は不安や心配を煽ろうとしているわけではない。ここに"絶望"を見出しているのである。"不安"と"絶望"は似て非なるものである。あるいは"悲愴"と"絶望"においても。チェーン店の例えにおいてさえ決して悲愴はなく、ただ絶望なのである。それは視点を変えればこうも言えるからである。つまり、大資本チェーンが参入することで、その大きな規模と闞沢な資金によって都市社会に定着しているようなICやECサービスが地方都市にも少しずつ波及する可能性がある。つまり、初期費用が膨大になりがちなEC参入が地域全体のEC活性化によって個人店でも容易になる可能性があるということだ。淘汰されるかもしれないという悲愴の奥には、巨大資本による新たなビジネス環境の到来という希望がある。この悲愴と希望のコンビネーションこそが絶望なのである。そして、また悲愴を希望へと昇華する力こそが絶望に他ならないのだ。

絶望は力である。

この冬、ついに我が国の名目GDPは世界3位から陥落し、一人当たり所得はイタリアを抜いてG7最下位になった。もちろん、円安の影響など外部要因も多く一概にはこれは悲観すべき指標ではないかもしれない。しかし、多くの国民はいたずらにもこの国を先進国の中の一等星とは思えなくなってきているのではないか。政界に蔓延る汚職や金銭問題。その一方で、進まぬ抜本的な政策論議、憲法論議。メディアは政治を報じず、スキャンダルに目が向きっぱなし。報道力も商品力も無くなった新聞各社。受け身で情報をひたすら受け取る無思考人間どものゴミのような御感想とコメントが並び続けるSNS。「若者に投票に行け」というくせに若者の出る杭は跡形もなく打ち滅し、国家の未来なぞ考えずに余生10年の自身の安泰ばかり考えている老害たち。拡大する経済的格差、世代間格差。パパ活女子を買う教養のない経営者、身分不相応なバッグを身につける実質的貧困パパ活女子。行く必要もないFラン大学を出て闇バイトに勤しむ弱者男性。そして、誰がいつ彼らのような当事者になるかわからない底知れない一寸先の闇。現代日本に蔓延る不安は空前のバブル景気である。

しかし、これはまだ不安なのである。日本はこの出口のないトンネルに突入している。今、私たちに必要なのはこの"衰退"という出先の見えないトンネルに新たな出口を、緊急避難用の出口を作ることなのだ。その原動力こそが絶望なのである。不安を転回し絶望へと変換し、新たなる希望へと昇華していく。日本に、今を生きる若者、あるいは全ての人に必要なことはこれなのである。不安を不安のままに、現状を現状のままに乗り越えようとしてもそれは無理な話、これからの日本が過去の慣例や伝統では対応していけない社会になることは必然だ。だからこそ、絶望の国の絶望の若者として、真に絶望なるものを見つめなければならない。

決して、日本というマクロの観点だけで若者は語れない。あなたの生活のミクロにおいても不安や悲しみは多くあるだろう。だからこそ、むしろ多くの若者がこの国の絶望をともに認識してほしい。その経験が、自分自身の実存的な実生活の問題にも絶望を感じることを可能にするだろう。その絶望の力において希望の未来を切り開いてほしいのである。

さあ、諸君。
真に絶望なるものを見つけだそうではないか!

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