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dementia おばば

Vの家には御年89歳の認知症おばばがいる。
台所すぐ横のまるでお仕置き部屋のような、小さな部屋が彼女の部屋だ。
歩行器を使ってゆっくりゆっくりリビングに現れる。

認知症の進行段階で言えば混乱期の中期にあたるだろう。
V曰く発症してから6年目くらいらしいが、ここ数年症状が加速している模様。

記憶障害、徘徊、幻聴、幻覚は朝飯前。

現時点で彼女が登場人物として認知しているのはVのみ。
しかも、孫のvを隣の家に住む実の息子(つまりVのおじさん)だと思っている。
だから、Vを呼ぶ時はおじさんの名前で呼ぶ。
私が来る前は、おじの名で呼ばれたらそれを否定し、自分は孫だといちいち説明していたが、私が来てからは呼ばれるがままにその役を演じている。

彼女にとって私は短期記憶にしかとどまらないため、いつまでたっても一時的な訪問者だ。
それゆえ、彼女の脳の混乱具合によっては絶え間なく私が何者なのか聞かれる。

ぼけおばばのことは好きだが、全うから真面目にやり取りするのは非常に面倒くさいので、勝手に受けの良いバイオグラフィーを作り上げた。
そう、私はプトラジャヤの学校で働く日本語教師でありVの彼女なのである。
なぜ日本語教師設定にしているかというと、おばばは退職するまでプライマリースクールで英語教師だったため、私が教師かつ日本から来たというと、毎回目をまるくして、わたしも英語教師だったのよ〜日本の植民地時代には日本語習ったわよ〜と目をキラキラさせて嬉しそうに話す。

認知症を発症してからも、共感という機能は働くらしい。


勿論そんな自己紹介を100回したとしても、日によって彼女は私をナースと思い込んだり、はたまた義理の娘と思ったり、ころころ肩書が書き換えられるので、私は毎回その役を演じるのを楽しんでいる。

お手伝いのPもしかり。彼女が24時間体制で介護しているからこそ、彼女の生活が成り立っているのに、おばばはPのことを誰だかまったくわかっていない。

しょっちゅう、彼女のことをVの妻だと勘違いして、なぜ子供がいないのか、Vの家には二人の妻がいるのか(Pが第一夫人、私が第二夫人らしい)などと込み入ったことを聞き英語の話せない彼女を困惑させている。

さて、今日のおばばはお金のことが心配な様子で声を荒らげている。

Tシャツを買ったのだが未だお金を支払っていない。誰も私にお金を払わせない、一体あのTシャツはどこにしまった?
自分がお金を払う約束をしたから、と払わせてくれと皆に頑なにお金を握らせようとする。

Tシャツなんて買ってない、クローゼットの中も何もないんだからお金のことは心配するな、お金はもっと大事にしまっておいて
と彼女を全否定するいらつくVをなだめて、Vの部屋からTシャツを何枚か持ってきておばばに見せる。

私:おばばが買ったのってこれかな?
おばば:こんな黒いデザインは地味だから買わないよ。丈も長いじゃない。もっと明るくて派手なやつがあるでしょ?
私:じゃぁこれかな?これなら刺繍がはいってて素敵だよ。
おばば:これはTシャツじゃなくてブラウスでしょ。色物だけど私の好みじゃないわね。さっきの黒いのが素敵だったわ、あれもらえる?
私:え、黒は嫌って言ってたのに?
おばば:少なくとも、これよりは黒いほうが着やすそうだし、素材もいいゃない。
私:オッケー、じゃぁあのTシャツをおばばのクローゼットにしまっておくから、お金払ってね。

ものの数分でおばば劇場は一件落着。

もちろんこのTシャツはVのもので、おばばのクローゼットにいれるふりをしてVの部屋に返却。

おばばはどうやら35ドルのTシャツを買ったようなので、あとでお釣り返すねと言って50ドル回収すると、おばばは満足して昼寝に戻った。

お金が云々とわめき散らかすおばばにいらちだったVもPも、私とおばばの一連のやり取りが面白おかしくて、場は丸く収まる。
おばば劇場は毎回、私がいれば面白おかしくそして円満に終わる。

認知症の人と関わる時は、決して頭ごなしに彼らの主張を否定したり
小馬鹿にした態度をとったりしてはいけない。
脳の機能は衰えているが、それは病気がそうしているわけであって
彼らの心は我々が思っているよりずっと繊細で傷つきやすい。
そしてその心の傷が、怒りや不安のトリガーとなることが多い。

あと数年もしたら彼女は自分で起き上がることや、意志を表示すること、言葉を発することすらできなくなるだろう。
アルツハイマーを患って亡くなった祖母の10年を、また介護に苦労した母や叔母の日々を傍目で見てきたから、よくわかる。

アンソニー・ホプキンスがオスカーを獲ったTHE FATHERは認知症患者の視点でストーリーが展開していった。

自分の正常な部分が少しずつ失われている混乱。
今が一番苦しい時期に違いない。

いつか、私もその世界に足を踏み入れるだろうか?
そんなとき、おばば劇場につきあってくれる呑気で傍若無人な風来坊はあらわれるだろうか?


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