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■大格差、温暖化、新コロナ、トランプ残像で煩悶する世界!が、今こそオミクスと不均衡動学(宇沢弘文/新自由主義の天敵)の『自由の知』、フィデューシャリーヘ果敢に挑戦する時!(6/6)

■大格差、温暖化、新コロナ、トランプ残像で煩悶する世界!が、今こそオミクスと不均衡動学(宇沢弘文/新自由主義の天敵)の『自由の知』、フィデューシャリーヘ果敢に挑戦する時!(6/6)

(冒頭のイメージ画像 は、https://www.pinterest.jp/marekassti/wallpaper-japan/ より転載)

<注>当記事は「ブログ(↓20210110-toxandoria.hatenablog)」の内容を6パーツに分けたものの(1/6)ということです。お数ですが、当記事の画像は、下のURLでご覧下さい。 https://toxandoria.hatenablog.com/entry/2021/01/10/050440 (前編)
https://toxandoria.hatenablog.com/entry/2021/01/10/070801 (後編)

[当記事の目的]

Fiduciary (Fiduciary Duty)が「オミクス生命論の『自由の知』」へと、ある意味で必然的に深化しつつある欧米の流れ(歴史・現況・展望)の概観が、当記事の主な目的である。 特にフィデュ―シャリー(Fiduciary)に関連する部分については、随時、記事の中で詳述する。なお、「オミクス生命論の『自由の知』」(宇沢弘文の『社会的共通資本と不均衡動学』)については[6-2 宇沢弘文『不均衡動学』と、古澤満「不均衡進化が解明したDNA増幅の基本』の共鳴]で詳述する。

<注>Fiduciary Duty とは?(ひとまずの意味)

・・・米国の法律では非常に頻繁に出てくる用語で、一般的には米国憲法上の概念とされる概念である。しかし、Fiduciaryに は日本語の統一的な訳語が存在しない。そして、そもそもFiduciaryは「Duty of Care」と「Duty of Loyalty」という2つの意味が併存する(法的な概念)である。Duty of Careは「同様のポジションにある場合に、委任された人の職業・専門家としての能力・社会的地位などから考えて、通常期待される善良な義務を負うべき立場の方の人が、より選択すべき可能性がある方法で奉仕すべき義務」ということなので、これは既成の「善管注意義務」(善良な管理者の注意義務)の訳語が対応する(日本では民法644条にある)。「Duty of Loyalty」は、「自分の利益を後回しにしてでも忠実に、当然あるべき義務を果たす」(言い換えれば、大きな自然環境の下で、たまたま希少な生命あるヒトの親という立場に置かれた自分として、当然果すべき役割と考えられる親としての義務を果たす、ということ)である。例えばFamily Lawの世界では、親は未成年の子にFiduciary Dutyを負っているので、自分の身の危険をかえりみず子の安全を守るべきだ、ということになる(参照:山本法律事務所HP)。 https://yamamotolaw.pro/fiduciary-duty/

・・・ここから(6/6)のはじまり・・・

6「宇沢弘文の不均衡動学」と通底する「スウェーデンモデル」の再発見、そしてネオ資本主義の時代へ

・・・それは、「スウェーデンモデル」(厳密に言えば、1970年頃~のネオ・スウェーデンモデル)から[ネオ資本主義、真のフィデューシャリー(fiduciary)の時代」へ進む道程である!・・・

6-1 市場原理主義(ミルトン・フリードマンら)の天敵!宇沢弘文「不均衡動学」の理論

(宇沢弘文『不均衡動学』の鍵となる言葉)

宇沢弘文によれば、「不均衡動学」の新たな可能性の核心とは「それが❝社会主義の弊害(市場原理への過剰な抑圧)と資本主義の幻想(ネオリベラリズム、市場原理主義への過剰な誘惑)❞という両極端への暴走を克服するための動学理論」であるということだ。言い換えれば、それは「ヒトの生命(いのち)と自然環境の持続に役立つものであるべく数理経済理論で裏付けられた動学である」ということだ。

だから、2020米大統領選挙でトランピズム、つまりトランプ大統領のマイファースト&アナザーファクト幻想論(ディープ・ステート陰謀論など)の是非が問われた結果としてバイデンが勝利したことの真の意味は、次のような点にある。つまり、それは渦中の「経済(学)の第三の危機=市場原理主義の暴走」に対する有意な処方箋を、確実にヒトと自然環境の持続を目指すものへと改編するためバイデン政権が書き替える、そしてそれを必ず実行すると約束したということだ。だから、今後はバイデン民主党は、愈々、そのために重大な責務を負う(fiduciaryの深化が試される)ことになったと理解するのが肝心である。

そして、その鍵となるのが「社会的共通資本」なるインフラストラクチャ―の充実と、その管理・運営のために必須となる「フィデューシャリー(fiduciary)の理念/換言すればリアリズム倫理」の二つということになる。つまり、この二つは❝非常に人間的でオミクス生命論的な価値観であるため、そもそもその揺籃の場でもあった自然環境を必然的に重視せざるを得ないことになる。なかんずく、その二本柱の土台と見るべき「社会的共通資本」がハイエクとミルトン・フリードマンのネオリベラリズム(新自由主義)の、即ち市場原理主義へのリアル実在の天敵となるのは明らかである。

ところで、「フィデューシャリー(fiduciary)」の日本語訳は【受託者・信用上の倫理義務、又は福祉国家(又はそれをを志向する政府・行政府)の負託義務型倫理】であるが、duciaryの類語である「デューティー(duty)」は【必然の義務・務め】である。つまり、受託者として一般国民の生命を保守する義務、あるいはそのための信用上の務め、ということになる。従って、英米法上では「他者の信頼を得て行動する義務」、「他者からの信頼を受け止め、その人のための利益を念頭に置いて行動・活動するか、あるいはそのため助言をする義務」との意味になる。・・・以上の主な出典:大塚信一(元、岩波書店編集長・同社長)『宇沢弘文のメッセージ』(集英社新書)p204~ ほか・・・

<注>社会的共通資本 (Social Common Capital)とは?

・・・宇沢弘文は。次のように説明している。出典:https://www.af-info.or.jp/blueplanet/assets/pdf/list/2009slide-uzawa.pdf

概念的には、以下の三つに纏めることができる。

• ゆたかな経済生活を営み,すぐれた文化を展開し,人間的に魅力ある社会を持続的,安定的に維持することを可能にするような自然環境や社会的装置.

• 社会全体にとっての共通の財産であり,それぞれの社会的共通資本にかかわる職業的専門化集団により,専門的知見と職業的倫理観にもとづき管理,運営される.

• 一人一人の人間的尊厳を守り,魂の自立を保ち,市民的自由を最大限に確保できるような社会を志向し,真の意味におけるリベラリズムの理念を具現化する.

具体的には、以下のように類型化できる。

(1) 自然環境 : 山,森林,川,湖沼,湿地帯,海洋,水,土壌,大気

(2) 社会的インフラストラクチャー : 道路,橋,鉄道,上・下水道,電力・ガス

(3) 制度資本(制度インフラ) : 教育,医療,金融,司法,政治権力&行政機構(補記、toxandoria)、文化ほか

* この分類は必ずしも網羅的ではなく排他的でもないあくまで社会的共通資本の意味を明確にするための類型化である

・ それぞれの社会的共通資本にかかわる職業的専門化集団により,専門的知見と職業的倫理観(フィデューシャリー(fiduciary))にもとづき管理,運営される

・・・

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同じく宇沢弘文によると現代資本主義が直面する重要な課題を二つ挙げるとすれば、以下の二つになるが、これらは相互に密接な関りを持ち、お互いに因果関係を形成しているが、基本的にはそれぞれが異なる性質を持つため、異なる分析方法が求められる(宇沢弘文著作集Ⅴ経済動学の理論‐岩波書店‐)。

(イ)物価・賃金水準の不安定な上昇と失業との執拗な共存(そもそも、これは市場・金融・政治・行政(公共選択)らが責任を負うべき分野←補記、toxandoria)

・・・失業とインフレーションの共存は1970年代になってから世界の資本主義諸国で最も重要な政策課題となったものであるが、これはそもそも、我われのリアルな日常(オミクス生命論で生き続ける/←補記、toxandoria)における不均衡状態についての説明可能な分析理論を持たない新古典派経済学の必然の帰結でもある。この問題はジョーン・ロビンソンが指摘したとおりベトナム戦争のマイナスの余波がもたらしたもの(それが第二の経済学の危機の直接的な原因となったこと/Cf. →第4章-2-(1))であるとしても、更にその隙を突いて経済理論の上で覇権を握ってしまったのが新自由主義(ネオリベラリズム)に基づく市場原理主義である。そして、それが「第三の経済学の危機」の肩を現在も押し続けていることになる(補記、toxandoria)。

(ロ)環境破壊・公害などの現象に代表される「社会的共通資本」の質的悪化と、それに伴う人々の実質的な生活水準の低下

・・・地域・国民・国際経済のエルゴン(±の両義的な潜性可能性の在り処)供給体制、およびその活動機能の劣化に起因する(←補記、toxandoria)社会的共通資本が、国民経済のなかでどのような役割を果たし、また価格、賃金、雇用水準、経済成長率、実質的生活水準などというマクロ経済的な指標にどのような影響を及ぼすかという基本的な設問に関しても、従来の新古派典理論は我々になんの洞察も与えていない。

・・・

ところで、宇沢弘文によれば、経済学の対象となるべきものには(A)「専ら市場活動を介し変化すべき(宿命的に、そうせざるを得ない)領域」と、(B)「極力、市場活動を排しつつ保守(保全)すべき領域」の二つの基本的に異質な領域がある(この部分は、オミクス生命論における個体の"持続性に関わる見立て"の部分に相当すると思われる。/補記、toxandoria)

(A)の専ら市場活動を介し変化すべき(せざるを得ない)領域に該当するのが、(イ)のなかの<市場(および市場周辺)・金融・政治・行政(公共選択)らが、それらの外部環境の整備について責任を負うべき分野>であり、一方で(B)に該当するのは、上で取り上げた(ロ)のなかの<社会的共通資本、および❝既にひとたび投資され❞ており企業・家計・個人らの内部で蓄積され、いわば個体・個性の持続のため血肉化し希少化した資源(オミクス生命論の個体・個性部分の内部環境に当たると考えられる/補記、toxandoria)ということになる。

従って、新自由主義(ネオリベラリズム)による市場原理主義が。(A)「専ら市場活動を介し変化すべき(せざるを得ない)領域」と、(B)「極力、市場活動を排しつつ保守(保全)すべき領域」の二つを諸共にゴッソリと、その名のとおり❝原理主義(厳密にいえば超抽象的な市場原理主義/@ツベタン・トドロフ)❞的に、あるいは狭義の❝概念飽和(Conceptual Saturation/@アンドリュー・セイヤー)❞的に、その一切を市場へ丸投げするのは、いかに当論を哲学的(例えばハイエクのカタラクシー(Catalaxy))に、又は数理経済論的(例えばミルトン・フリードマンの重力理論の援用)に、果ては❝預言❞詐欺師風(例えば竹中平蔵!w)に喧しく主張するとしても、特に、オミクス生命論の視点(ヒトを含め凡ゆる生命は薄皮一枚の均衡でゼロサムを克服しつつ永続性・持続性を維持している!)で見れば、明かな誤りであろう!

(関連参照 →https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/03/25/042759 https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/06/04/155449)。

<注>「❝概念飽和(Conceptual Saturation/アンドリュー・セイヤー」および「超抽象的な市場原理主義/ツベタン・トドロフ」の委細については、下記★を参照乞う。

★新コロナの警告/ファシズム2.0に抗い持続できる新たなイノヴェーションはエトノス&生命の一回性を「共有する自由」で繋ぐ『日常』にある(1/2)https://toxandoria.hatenablog.com/entry/2020/03/25/082423

(宇沢弘文『不均衡動学』の重要な意義)

◆いまだに約4割の国民?(『20210106トランプ支持派(Qアノン、ネオナチ、白人至上主義者ら)連邦議会"乱入"、死者5名』の悲劇で、トランピズム洗脳が解けたか否かを注視する必要はあるものの・・・)が選挙は不正だったと叫ぶ(共和支持層の8割が、そうであることから推測すれば)からこそ、<大格差を生む真の敵=市場原理主義の暴走>であることについて、より平易に分かり易く説きつつトランピズム陰謀論の妄想(≒カルト洗脳の病理)を解く具体策を果敢に打ち出すのがバイデン民主党の仕事!  →バイデン、過半数の選挙人を獲得「民主主義の勝利」/しかし、試練の次期政権1215朝日 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1338962997964800001

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・・・宇沢弘文によるジョーン・ロビンソンへの高い評価・・・

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・・・画像は、https://www.azquotes.com/author/32076-Joan_Robinson より・・・

宇沢弘文『経済学の考え方』(岩波新書)によると、ジョーン・ロビンソン(Joan Violet Robinson/1903 - 1983/英国の経済学者mケインズサーカスのメンバー)は、その生涯を通じ弱いものや虐げられたものに対し深い人間的愛情を注ぎ、傲岸なものや卑劣なものに対しては激しい憤りをもって闘った人物である。また、彼女が経済学の研究で最も重視したのは「すべての人間の活動は歴史的な意味でのリアル時間のなかで行われるものであり、それは単なる抽象的論理が繋がる体系ではない!」ということ(これは、まさに言語哲学の選言論(説)ないしはオミクス生命論を連想させる!/補記、toxandoria)であった(↑の画像は、https://www.azquotes.com/author/32076-Joan_Robinsonより)。

ところで、

この「歴史的なリアル時間のなかで行われる人間活動のための経済学」について、そもそもの<不均衡動学>の着想の創始者でもあるジョーン・ロビンソンの紹介を兼ねて、宇沢は以下のように説明する。

・・・現在は変えることのできない過去と、まだ知られざる将来(未来)との間に存在する断層(ヒトを始めとする生身の生命が生きるリアル"日常"空間の謂い!/補記、toxandoria)であり、その中での関係性は絶えず動いて止まらないものである。だから、人間の行動はこの<歴史的瞬間である現在/D.デヴィドソンの"原因の空間"と"理由の空間"を想起すべき!?>という時点で行われるという観点から<不均衡動学>という新しい構造で語られなければばらない。(出典:ジョーン・ロビンソン、ジョン・イートウエル共著/宇沢弘文訳『現代経済学』-岩波書店-)・・・

・・・宇沢弘文の『不均衡動学』はジョーン・ロビンソンの着想を更に推し進め、深化させた成果/ et それはオミクス生命論(特に、これは労働雇用の視点の重視と関連する)とも共鳴!・・・

<注>宇沢弘文『不均衡動学』における<労働雇用の視点>の重視が、オミクス生命論の考え方に接近しており、それは宇沢がヴィクセルより後の時代のジョーン・ロビンソンのそれを引き継ぐためである、という理解については、当節の末尾に記した[関連資料2]を併せて参照乞う。

・・・

つまり、宇沢弘文の『不均衡動学』はジョーン・ロビンソンの着想を更に推し進めて深化させた(言い換えれば、そのリアルの断層をより科学的に観察し数理論的にそれを描写・説明した)ものである。そして、その不均衡動学の研究対象となる領域は、前節で取り上げた「(イ)物価・賃金水準の不安定な上昇と失業との執拗な共存(そもそも、これは市場(および市場周辺の外部環境)・金融・政治・行政(公共選択)らが責任を負うべき分野)」と、「(ロ)環境・公害・福祉・厚生などに関わる諸現象(血肉化し希少化した資源)の調整に関わる『社会的共通資本』」の二つになる訳だ。

(イ)は市場的不均衡過程の枠組みについての数学を駆使した、文字どおり動学的な数理分析アプローチが主流となる分野であるが、(ロ)の社会的共通資本については、そもそも❝それは既にひとたび投資され❞たものなので、これは繰り返しになるが、その殆どは企業・家計・個人らの内部で蓄積され、いわば個体・個性の持続のため血肉化し希少化した資源である。言い換えればそれはオミクス生命論の個体・個性部分に相当すると考えられるため、基本的には保守すべき対象としての性質が強いものである。

とはいえ、(ロ)といえども、それはリアル社会での経済活動の繋がりとしては(イ)の分野とも何らかの目に見えにくい部分で連鎖しており、特に計測不能な潜性イノヴェーションとも深く共鳴しつつ通底している関係にあり、殆ど気付かぬ形で相互に影響し合う可能性も十分にあり得ると考えられる。但し、

だからといって、いわゆる市場原理主義の如く「(イ)と(ロ)を十把一絡げにして"市場原理主義論"(例えば、M.フリードマン"重力物理学(修正重力理論)"援用の動学理論、又はハイエクの"カタラクシー論"など、『fiduciaryなどリアリズム倫理の視点』を一切捨象した、只の抽象論理(or 天然キャラ的とさえ言える、両者の抽象論理"原理主義"!w)へリアル経済を丸投げする」のは、そもそも真の「ヒトのための生命論的な動学理論」であるべきとする宇沢弘文の立場から見れば明らかな誤りである。


(ロ)については過去の投資の歴史的な変量の一定の集積と捉えることで、これも動学的な数理分析アプローチの対象となり得る訳である。ここでは(比喩的な表現となるが)、オミクス又はエピジェネティクスという超マクロないしは超ミクロな生命環境における高分子化学の"メチル化あるいはアセチル化などの"修飾"作用が、同時に、より高次のオミクス環境の影響をも受けざるを得ないという内部環境で行われることでもあることから、これら両者が非常に広範に連鎖・共鳴しつつエコーチェンバーするという意味が比喩的に連想できさえすればよいだろう(宇沢弘文は、実はこの様なことを数理論を使いつつ的確に説明している!/宇沢弘文著作集Ⅴ経済動学の理論‐岩波書店‐)。

つまり、オミクス生命論的な視点で動学のリアル経済環境が想像できれば、そこでは個々人の生命を出来得る限り平等(対等)に保全するため、又それと同時に「赤の女王」の誘惑に抗いつつ、毅然としてリアル生命環境トータルの持続性を保守し続けるためには、フィデューシャリー(fiduciary)の倫理観(別に言えば、リアリズム倫理)と『社会的共通資本の理念』とい二本の柱が必ず求められることになる


・・・シュンペーター「静態・動態」と宇沢弘文『不均衡動学』の関連性、およびミルトンフリードマン「市場原理主義」との決定的な差異・・・


更に、ここで想起すべきは「第4章-2-(2)」で書いた<シュンペーターの静態と動態の関係についての、その相互補完的な循環構造という理解の仕方は(それはオミクス生命論的な視座を想像させる!)、後述する<宇沢弘文A『不均衡動学』(B『社会的共通資本論』(フィデューシャリーで保守されるべき!)と一体と見るべき経済理論であるということだ。


それは、「AとBは、前者A=動学、後者B=静学と見立てるとすれば、この両者は明らかに相互補完的な関係にあると見えるからだ。つまり、この両者は、現代のグローバル世界で、事実上、今や我が世の春とばかり恐ろしく専横な態度で跋扈する<市場原理主義(又は、❝大格差❞を倒すマイファースト英雄を騙る❝トランピズム❞、あるいは❝JPN追憶のカルト❞など凡ゆる陰謀論ないしは暴政のジャンル!)>に対する強力な天敵となり得る、非常に重要な経済理論として再認識すべきではないか?と思われる。>ということだ。


そして、そのことについては、ほぼ30年にわたり宇沢弘文の著書の9割以上を編集者として手掛けた元岩波書店・社長の大塚新一氏が、以下のような趣旨のことを大塚氏自身の著書のなかで語っている(大塚信一『宇沢弘文のメッセージ』-集英社新書-)。

「その経験をとおし知ることができたのは、❝不均衡動学❞という一つの大きな成果に結実したその数理経済学は、宇沢弘文の学問と人柄が一体化したもであることに因ると思われる。その点が、元祖・市場原理主義の巨人の一人と目される同じ数理経済学者のミルトン・フリードマンと宇沢弘文の決定的な違いである。」


関連資料1:宇沢弘文の「社会的共通資本」が今、響く理由/コロナ禍で社会に本当に必要なものがわかった:占部 まり(宇沢弘文氏の長女/ 内科医)20201030東洋経済、https://toyokeizai.net/articles/-/384561 

関連資料2:岩井 克人 (著)不均衡動学の理論 (岩波モダン・エコノミックス 20) ・・・ヴィクセルの不均衡累積過程の理論を再構築し、新たな立場からケインズ的経済理論を展開。伝統的な「経済学的思考」への理論的挑戦であり、ケインズ主義者対古典派復活論者の論争の地平を超える。←<注>同じ不均衡動学であるが、ヴィクセルより後の時代のジョーン・ロビンソンのそれをも引き継ぐ「宇沢弘文の不均衡動学」は、新古典派とケインズの両派を、特に「労働雇用の視点/オミクス生命論に近い!」において超克していると考えられる。その意味で、当然ながらヴィクセル(その最適人口論の視点)も取り込んでいる宇沢弘文の数理経済学は、特に「社会的共通資本」の役割りを重視するという点において、この岩井 克人 氏のケインズについての読み直しとしての不均衡動学とは全く異なる位置に立つと見るべきであろう。(補記、toxandoria/@『宇沢弘文著作集Ⅴ-経済動学の理論』-岩波書店-)

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6-2 宇沢弘文『不均衡動学』と、古澤満「不均衡進化が解明したDNA増幅の基本』の共鳴


(1)宇沢弘文『不均衡動学』と、古澤満「不均衡進化(Disparity Evolution)」』が解明した『DNA増幅の仕組み(論理&実証)』の共鳴

<注>既述のとおりだが、<宇沢弘文A『不均衡動学』(B『社会的共通資本論』と一体と見るべき経済理論/∵AとBは、前者A=動学、後者Bとして、相互補完的な関係にあると見える!から>であり、この両者は現代のグローバル世界で一強覇権的に跋扈する<市場原理主義>に対する強力な天敵となり得る、非常に重要な経済理論として再認識すべきではないか?(資本主義経済理論の新たな希望の方向では?)と考えられる!

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◆【この視座の更なる理解に役立つ二つの知見!/↓★1,2】「一神教Vs多神教」なる<分断と決めつけ>から、例えば多様性を保証する<オミクス環境・生命論 ~ Fiduciary Ⅾutyの深化>への覚醒の契機として伝統神道を理解し直すぐらいの発想転換が必須である!ということ。

Cf. https://note.com/toxandoria2/n/nba47ae28eff6   https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20180503/p1

★1 トマス・カスーリス『神道』:伝統日本文化の意義・・・その特質は、十分に水平的なプロトモダニティ(日本型リベラル共和意識)が歴史的に存在してきたということ・・・https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20180503/p1

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★2 ルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ』:プラグマティズムの現代的意義・・・日本でも必須と思われるネオ・プラグマティズム(“米国型リベラル共和”志向)の視点・・・ https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20180503/p1

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・・・

<注>古澤満『不均衡進化(Disparity Evolution) 』の論理は、プライマー(DNA複製時の起点となる短鎖RNAまたはDNA)を利用する「PCR(ポリメラーゼ連鎖反応/polymerase chain reactionを使う)検査」におけるDNA増幅の論理と、それを実証すつための根拠ともなっている。(出典:やっと日の目を「見た不均衡進化理論」20180912 古澤満コラム、)

https://journal.chitose-bio.com/furusawa_column37/

<参考>PCR検査について・・・

[新型コロナ検査、どれくらい正確?感度と特異度の意味:酒井健司2020年3月23日・朝日、より転載]新型コロナウイルスはRNAウイルスですので、最初にRNAをDNAに変換する作業がありますが、増幅の仕組みは同じです。・・・日本プライマリ・ケア連合学会の診療の手引きによれば、PCR検査はウイルスゲノムを検出するという原理から、一般論として感度(感染者を正しく把握できる割合)は低く(そこでこぼれたのが偽陰性)、特異度が高い(偽陽性と判定される割合は低い)と考えられます。初期のPCR検査で陰性だが後日陽性となった患者等の検討により、感度は30~70%程度、特異度は99%以上と推定されています」とあります。ほかの専門家のコメントでもだいたい同じぐらいです。・・・感度が70%だとすると、感染者100人に検査して陽性が70人、陰性が30人になります。この30人は偽陰性です。原理的には微量のDNAでも増幅できるはずのPCR法でも、検体にウイルスが含まれていなければ正確な結果が出ません。・・・特異度は、感染していない人に検査をして、正確に陰性という結果が得られる割合です。推定では特異度99%以上と高いです。つまり、偽陽性(感染していないのに誤って陽性に判定されること)は少ないのです。・・・https://www.asahi.com/articles/ASN3M7G1XN3MULBJ01C.html

・・・

まず、ここで取り上げるのは「Covid19」に関わるPCR検査そのものの性能に関わる評価」のことではない。それは二本のDNAがほつれて複製されるときに生ずる「二本の鎖」についてのことである。

一般に、生物が進化する途上での変異の大部分は、DNA複製の過程で生じる。そして、一本のヒストン(DNA を核内に収納する役割を担う塩基性蛋白質)に巻きついた二本のDNAがほつれて複製されるとき、「二本の鎖」のうち一方は連続して複製される「連続鎖」となるが、もう一方は複製酵素の特異性で連続鎖と同じ方向へ鎖を伸ばすことができないので、敢えて断片状に複製されたもの(岡崎フラグメント)が結合され一本になり複製が完成する。これは「不連続鎖」と呼ばれる

そして、岡崎フラグメント(DNA複製の時によって形成される比較的短いDNA断片、https://sato-ayumi.com/2019/05/06/%E3%83%A9%E3%82%AE%E3%83%B3%E3%82%B0%E9%8E%96%E3%81%A7%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%8C%E5%BD%A2%E6%88%90%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E4%BB%95%E7%B5%84/がある「不連続鎖」では、遺伝子と形態の関係が不明確であるので分子レベルでは中立説(木村資生:中立進化説/https://goo.gl/Xa5vs6)、形態レベルでは総合説として棲み分けが行われるが、形態に影響する総合説の作用と細胞レベルへ影響を与える多様な環境(ミクロ or エトノス、別に言えばエピジェネティクスまたはオミクス)との共鳴・協調・競合が窺われる(http://goo.gl/tQGcAY +補記@toxandoria )。

ともかくも、このうち「連続鎖」は変異の発生が極めて小さく、つまり保守的である(進化心理学上での伝達される文化、を連想させる!)。一方、「不連続鎖」は「連続鎖」合成に比べてDNA複製プロセスがかなり複雑になるため作用する酵素の種類数も多くなり、それだけ変異の発生可能性が大きく、つまり革新的・学習的であるということになる(進化心理学上での誘発される文化、を連想させる!)

そして、「連続鎖」での変異の発生が比較的大きいときでも(とはいえ、それは相対的に小さいものであるので)、諸環境の変動がない場合には、やはり変異発生の比較的小さい「連続鎖」側により現状がほぼ維持(保守)・継承される。

他方、もし大きな環境変動が発生した場合には、変異発生が大きい「不連続鎖」側で変動に合わせる形で<変異の閾値>を作用させて問題の解決を図る(本源部分も保守しつつ変異に併せた全体の進化プロセスを次世代へ繋ぐ)ということになる。「変異の閾値」とは遺伝情報が存在し得る一定数値の範囲のことで(それには限界があるということ!)、変異がこの「変異の閾値」を超すと遺伝情報は融解し<カオスの海>に沈むことになる


恐ろしいことだが、これはアダムスミス(そもそも、それは誤解されたアダムスミスと言うべきだが!)、あるいはネオリベラリズム(新自由主義)に因る、市場原理主義への十把一絡げの愚かな丸投げ行為の如き自然選択、つまり神の手に委ねられることとなる。言い換えれば、この状況はブラックエレフアントの発生による、一種のシャッフルに委ねられるため制御不能で大きなダメージを受けるか、我われ生命個体の死を意味することが連想させられる!

しかし、古澤満氏(発生学の進展に大きな貢献をしている研究者/元・第一製薬、(現第一三共)・分子生物研究室長)は、そう簡単に遺伝情報が<カオスの海>に沈む訳ではなく、自然選択(神の手)の役割とともに、木村資生氏の「中立的な意味での自由原理」(中立進化説)、あるいは「不連続鎖」側での<変異の閾値>の粘り強い作用の可能性が重要だとする。そして、古澤満氏は、この「不連続鎖」側での<変異の閾値>の粘り強い作用を『不均衡進化(Disparity Evolution) 』仮説(細胞エトノス環境内でのネオ・ラマルキズム?)と名付けた訳だ

<注>ラマルキズム( Lamarckism)とは?・・・

J.ラマルクの考えを修正した進化学説。ダーウィンの進化学説が提出されたのちもラマルク思想が復活した。その説の中で「獲得形質の遺伝を主張する立場」が代表的であるが、より根本的には「生物にみられる前進的発達の生命力(一種の潜性イノヴェーション的な、又はエトノス・オミクス環境論的な、あるいは選言論(説)的な生命論理のジャンル?)を進化の推進力と考えようとする思想」を意味する。(https://kotobank.jp/word/%E3%83%8D%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%BA%E3%83%A0-111150)。

このDNA次元での『不均衡進化(Disparity Evolution) 』仮説を正確に理解するには、古澤満氏が種の進化過程における遺伝情報の流れ方について想定した二つのモデル、「均衡変異モデル(従来型ダ―ウイニズムのセントラルドグマ/近年までの分子遺伝学では、専ら遺伝における情報の流れはDNAを翻訳して形質が発現する一方通行であるとされていたことを指す)」と「不均衡変異モデル(Disparity Evolutionの根幹)」の違いを知る必要があるが、余りにも煩瑣になるので、ここでは説明を省かざるを得ない。

ところで、古澤満氏は『不均衡進化(Disparity Evolution) 』のことを「元本保証された多様性の創出」とも称していることに注目すべきだろう。これを平たく表現すれば、「保守すべき価値(価値観)および人間としての最低限の権利、歴史・文化、自然・生態・生命環境、モノ、情報などは確実に守りつつ、大きな環境変化にも耐え得る革新性を何時でも発動できるように常時スタンバイすべきであり、又そのようなスタンバイを可能ならしめる知恵をメンバー間で共有し、かつ子供・若者・子孫等へ確実にそれを継承する教育こそが肝要」だということになる

また、DNA周辺の「細胞」環境を含む全ての体内環境を体内エトノス、あるいはオミクス環境と見立てることも可能であり、そのように考えれば、いずれ人間の内外エトノス環境を統一的・統合的に説明し得る「ネクスト・ステージの文化進化論、あるいはネオ資本主義論」などの可能性が、AI研究らの進化・深化と相俟って実現することになるだろう。

(2)グローバル市場原理主義のドグマを超え、オミクス生命論的な『Fiduciary Ⅾuty深化』への道を探る

・・・それは不均衡変異モデルにおける❝変異の閾値❞での<ゼロサムの赤の女王に抗う鬩ぎ合い>こそが生命持続の正体だという気付き!・・・

<注>"ゼロサムの赤の女王"については、「第1章‐(8)」を参照乞う

核禁条約に参加せずの日本は真の「生命&環境」論に関わる意識が不在!オミクス生命論の視点で見れば、政治リアリズムと道徳観念(リアリズム倫理)は一向に矛盾しない!→(核といのちを考える 核禁条約、発効へ)地球に見合った科学進歩を 日本が不参加は残念!ガンダムの生みの親・富野由悠季さん1213朝日

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1338405560073420800

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1338405560073420800

関連/望月衣塑子@ISOKO_MOCHIZUKI・・・唯一の被爆国でありながら #核兵器禁止条約 に批准さえできない日本政府。人類の未来に何のメッセージも残せない。恥ずかしいことだ。 核兵器禁止条約が発効へ 批准数「50」に到達、不参加日本の姿勢問われる #東京新聞 1面

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関連/3K独自情報!?fiduciary観念が全不在のカルト菅日本!新コロナ諸共に核の政治利用も謀るガースー! →「核の傘」日米共同声明に明記を新政権へ要求へ!首脳会談に向け新コロ感染拡大等で国際情勢が不安定化!を口実として米「核の傘」提供の明確化を狙う103産経 https://news.yahoo.co.jp/articles/9648c27e7e01b7317f6fa00f561fb5411e0458c9

アナクロ「国体の本義」を騙りたい?ガースーピーと?!

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関連/女川ボロ原発(40年未満)も然りだが議論は尽された!と叫ぶ高浜町議会と原発推進派は傲慢&愚鈍の極み!「当」原則の原点たるフクシマ(過酷臨界事故&311大震災)を思い出せ!同意を焚付ける菅らは言語道断! →老朽原発 「40年」原則を思い出せ1126朝日社説 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1331884678136008704 

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1331884678136008704

・・・委細の更なる検討に割くスペースがなくなってきたので、以下に[要検討課題]の項目だけを箇条書で集約することを中心に、簡単なメモ程度に整理しておく。・・・

(1)新たな成長理論の可能性を秘める、計測不能な「潜性イノヴェーション」の問題

・・・これは、経済学とオミクス生命論に通底する重要なテーマだが"そもそも市民権が未だし!"なので、一般へのその理解の普及が課題となる。・・・

・・・シュンペーターの「静態と動態の問題」(第4章ー2-(2))で触れたとおり、ごく平凡な多数派の人々こそが「潜性イノヴェーション/エルゴン(死勢態・潜性態)=プレ・デュナミス(プレ可動潜性態・プレ可動潜在性)」の大きな宝庫ではないかと考えられる。・・・

・・・なお、当記事内で見れば「潜性イノヴェーション」の問題は、特に下記の部分(第5章-2、第5章-3)との関連性が大きい。・・・

5-2 原因の空間、理由の空間、エトノス環境、オミクス生命論について(fiduciary duty深化のためのベースとなる考察)

5-3 「科学知("人文・自然"両科学)および科学技術」の中庸性の問題

・・・

◆市場原理主義では見えないがfiduciaryで見えるものとは?言い換えれば、それが即ち潜性イノヴェーション(持続するオミクス生命の論理)! →(異論のススメ スペシャル)コロナ禍、見えたものは、不要不急と必要の間… 佐伯啓思1226朝日 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1344400985020485634

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1344400985020485634

・・・近年の生(命)化学、量子物理学ら先端科学研究フィールドにおける生命エネルギー論では、たとえばATP(アデノシン酸三燐酸)あるいは生体中の微小管(microtubule)などヒトの意識とプレ生命エネルギーたるエルゴンの(おそらく量子論的な?)関係性が注目されつつある(Ex.@R.ペンローズ、Cf.↓★)。

★コンシリエンス的“想像力”に因るリアリズムの復権と自覚が必須!/ バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

<注>潜性イノヴェーションの更なる委細は下記★を参照乞う。

★新コロナの警告/ファシズム2.0に抗い持続を保障する潜在イノヴェーションはエトノス&生命の一回性を「共有する自由」で繋ぐ『日常』にある(1/2)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/03/25/042759

★新コロナの警告/ファシズム2.0に抗い持続を保障する潜性イノヴェーションはエトノス&生命の一回性を「共有する自由」で繋ぐ『日常』にある(2/2)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/06/04/155449

(2)具体的な二つの展相(Potenz)の方向(事例)

米国で第一ゲームチェンジャーが登場!・・・米国より日本の行動単独主義が突出したことが公共選択上の大問題!】資本主義のリーダーたる米国では公正資本主義の歴史が生きている!「20世紀初頭のニュー・リベラリズム(新自由主義に非ず!!)」に学ぶ若きゲームチェンジャーたちが登場 https://note.com/toxandoria2/n/n3508558b3083

・・・(関連)バイデンで株主第一が変わる鴨!株主第一・市場原理主義の見直しと女性重視の根源は、おそらく❝草創期❞米国史における自由を巡る民主・共和系両派の苛烈な葛藤への学びがある点も押さえるべき!正統歴史観を毛嫌う穴クロ菅❝君側の奸❞政権は他山の石とせよ! https://twitter.com/SamejimaH/status/1335340713739894787

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◆米国で第二ゲームチェンジャーが登場!・・・資本主義を創る協同プラットフォーム/中世コモンズ: GAFAに問う革新的伝統で[ No time!→ We have Time! ]の逆転が可!その心はAI「情報」と「協同組合」の結合 et 外界の思考!/付:リアリズム法学、米最高裁オリジナリズム判事、他 https://note.com/toxandoria2/n/nf511803822cd

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https://note.com/toxandoria2/n/nf511803822cd

(3)EUの展相(Potenz)経済学のルーツと見るべき『スウェーデン学派の北欧型人口論』が意味すること/ヴィクセル『最適人口論』から宇沢弘文『不均衡動学』へのステップ

https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20180806/p1 https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938

・・・忘れてならないのは『スウェーデン学派、クヌート・ヴィクセルの生活水準欧型人口論(最適人口論)』が意味する(人口問題に関わる生命論的な理解とも考えられる!)ことである。 社会的共通資本とヴィクセルの北欧型人口論(最適人口論)を直接的に結び付けて論じてはいないが、宇沢弘文は「社会的共通資本」が19世紀の終り頃にソースティン・ヴェブレン(19世紀・20世紀初頭期の米国の経済学者/マルクスと異なる視点で現代産業社会を分析した、制度経済学派の創始者)が唱えた制度主義の考え方を具体的なかたちで表現したものだと書いている。


・・・つまり、[社会的共通資本(宇沢弘文)、北欧型「社会福祉国家」の基盤となったヴィクセルの北欧型人口論(最適人口論)、制度経済学(ヴェブレンら米国の公正資本主義の伝統/参照、↓<補足>)]は、その土壌(一種の生命論的な経済学思想?)が共通していることになる。
<補足>制度経済学派または制度派経済学(Institutional School)

・・・アダム・スミス、デヴィッド・リカード、マルサス、ジョン・スチュアート・ミルなど英国の経済学者に代表される労働価値説を基礎とする古典派経済学を批判し、社会的な行動様式や集団的活動形態などの切り口から市場経済のあり方などを理解する経済学研究の一手法。ドイツ歴史学派の影響を受けつつ、ダ―ウイニズム(進化論)とプラグマティズム(Pragmatism/具体的な事象に即した有効性・有益性を重視する学派でアメリカを代表する哲学)の知見も取り込んでいる。

・・・19~20世紀初頭のアメリカ経済思想の黎明期は、レオン・ワルラス(Marie E.L. Walras/1834- 1910/スイス、新古典経済学派の祖)が活躍した時代にほぼ重なる。一方、その時代のアメリカは「プラグマティズム」と絡みつつ「制度経済学派」が台頭した時でもあり、その中心的存在がソースティン・ヴェブレン、ジョン・ロジャーズ・コモンズらであった。

・・・「制度経済学派」の創始者と呼ばれるソースティン・ヴェブレン(Thorstein Veblen/1857- 1929)の特徴は、「私的所有」よりも「社会資本」の充実を重視する立場であり、一部の階層が“金ぴか生活”をするための“単なる金儲けの手段”としての営利企業は“一国の産業体制そのものを管理し消費者に消費財を公正に分配する任務”(国民に一定の生活水準を保証する“社会的十分性”を担う役割)には適していないと考えた。


・・・一方、ジョン・ロジャーズ・コモンズ(John Rogers Commons/1862- 1945)も「制度経済学派」の代表者の一人とされるが、彼の社会改良主義的な経済思想の特徴は“アメリカ伝統の自由主義的フレームを重視しつつ、強力な労働組合運動・独占的巨大企業・公益企業などに関する諸改革の実行について、その時代の州と連邦レベルの立法・行政(Law Makers)へ大きな影響を与えた”という点にある。そして、ロジャーズの到達点は「集団民主主義」(集団内での“個別的衡平性”の実現)で社会改良を促進する「公正資本主義」 (Reasonable Capitalism)ということ(=非マルクス主義的な経済発展段階説)であった。

・・・いわば、これら19~20世紀初頭のアメリカ経済思想の黎明期に一世を風靡した“現代アメリカ経済思想の源流”とも見なすべき「制度経済学派」に属する経済学者に共通するのは、「社会に公正をもたらす資本主義」を実現しつつ、アメリカ建国いらいの伝統である“個人の自由原理に基づく個人の行動領域を最大限に解放し、それをより一層拡大する”ということであった。


(4)オミクス生命論から見える「あるべきベーシック・インカム」(宇沢弘文『社会的共通資本』を具体化し、かつ補完する役割を担う)の問題


・・・まず「ベーシック・インカムの意義は、それがそもそも不均衡動学における社会的共通資本の一環である」という点にあることをシッカリ理解することが肝心である。・・・

★参考資料/「エネルギー通貨」モデルこそ「新しいマクロ金融」のエルゴン/その一例がべーシックインカムhttps://toxandoria.hatenablog.com/entry/2019/09/02/124628

【結論】 欧米トップ知と日本の決定的な落差、その核心と見るべきものは何か?

・・・それは、「フィデュ―シャリー(Fiduciary Duty)/リアリズム倫理」の不在が、日本の「社会経済政策(公共選択/民主主義社会の基盤)」の決定的欠陥!ということ。・・・

(1)フィデュ―シャリー(Fiduciary Duty観念)の有無:欧州(北欧:特にスウェーデン、米国最高裁・衆国憲法解釈(+米伝統のプラグマティズム))

・・・米欧の両者が共有するFiduciary概念のルーツは、(a)「メンガー(オーストリアン(生命論的な農業経済学の伝統、更に遡ればケネーらフランス農業経済学)の影響を受けたヴィクセル(最適人口論/スウェーデン)→ヴェブレン、J.R.コモンズらの制度経済学派(北米)の繋がり」、および(b)「リアリズム法学(法哲学イデオローグ)の伝統/20世紀初頭のほぼ同時期に北欧と北米で別々に起こった)」という大きな二つの流れ、と見ることができる。

・・・しかし、我が国では、本来であれば、この種のフィデュ―シャリーやソーシャル・ポリシーの根本を左右する経済史の重要な流れに関心を持つべき国会議員ら(Lawmakers)の過半数が大変な“遊び好きバカリで、しかも彼らの殆どはヤクザ同然と化しており、あるいはLawmakersとして、そもそもあるべき志を喪失した、まるでかの旗本・御家人の如き世襲議員”だらけ!というのは実に悲しむべき事態である。

・・・もう手遅れかもしれぬが、これからでも致し方がないので、そのような意味でゴロツキないしは只の徒党集団化してしまった、そして「そもそもの民主主義政治と公共選択のあり方の基本」等について全く無知な(あるいは無関心な!)日本の国会議員(特に保守系を自認する)たちは、スウェーデンなど欧米諸国からフィデュ―シャリーの意義について真剣に学ぶべきである。


(2)現在のスウェーデン・モデル周辺への宇沢弘文の影響について

・・・上の(1)で見たとおり重要な公共選択に関わる、オミクス生命論的とも言えるフィデュ―シャリーを基盤とする二つ「経済史周辺」の流れ(a、b)は、【20世紀初頭以降の<シュンペーター、ハロッド、ジョーン・ロビンソン(ケインズ理論の本格的な”ヒトのための経済の動学化”の努力、非常に先見的でfiduciary的な観念の人物である宇沢弘文の『不均衡動学』>らによる「新古典派の静学型市場均衡→動学化→不均衡動学化」】という、新古典派の伝統経済学(総じて言えば静学の視点)をヒトのための生きた経済学へ(いわば"生き続けるヒト"のための本格的な動学の視点)へ、レベルアップするための血がにじむような努力の積み重ねへ、と重なっていることが理解できる。

・・・なお委細は省くが、大塚信一(元、岩波書店編集長・同社長)著『宇沢弘文のメッセージ』(集英社新書)によれば、

「宇沢弘文の『最適経済成長の理論(不均衡動学および地球環境(温暖化)問題に関わる研究の一環)』が、宇沢のスウェーデン王立科学アカデミーにおける研究時代(1991~)の成果を介し、その後のスウェーデンの環境関連政策、ひいては国連の地球温暖化問題等でベースとなる考え方などへ大きな影響を与え続けている。


(3)スウェーデンモデル(厳密に言えば、1970年頃~のネオ・スウェーデンモデル)の新たな可能性


フィデュ―シャリー(Fiduciary Duty)は、日本でも嘗て流行った?モラル・ハイグラウンド(非常に観念的な道徳的卓越性の理論)と似て非なるものと考えられる。例えば小泉・安倍両政権は此のモラル・ハイグラウンドの権威?とされる高名な学者(猪口邦子)らを見事に政治利用してきた。そして、その典型的な弊害の表れが、唯一の核兵器被爆国である日本の<「核兵器の開発から使用までを全面禁止する核兵器禁止条約の批准」非署名>の問題である。それは例えば↓◆を参照すればスッキリと分るはずだが・・・、特に日本では本物の「生のリアリズム」(オミクス生命論的な謂い!)についての理解が不十分であると思われる。菅内閣(半知性主義 or 反知性主義?w、つまりアナクロ・カルト政治権力)の日本学術会議マターの「病因」も、おそらく此の辺りにあるとの理解が得られる。

◆(再録)行為とその合理化―共感・共同行為への問いの根底にあるもの―川瀬和也(宮崎公立大学・准教授)・・・D.ディヴィドソン「"心的&物的"両トークン同一(対等)説」でリアリズムが認識できれば、fiduciary(≒マルクス・ガブリエルの外界の思考、オミクス生命論理のジャンル)の重要性がわかる!?
https://actiontheories.files.wordpress.com/2014/05/studies_on_action_theory_3_kawase.pdf

(関連/参考資料)

◆(再録)行為とその合理化―共感・共同行為への問いの根底にあるもの―川瀬和也(宮崎公立大学・准教授)・・・D.ディヴィドソン「"心的&物的"両トークン同一(対等)説」でリアリズムが認識できれば、fiduciary(≒マルクス・ガブリエルの外界の思考、オミクス生命論理のジャンル)の重要性がわかる!?
https://actiontheories.files.wordpress.com/2014/05/studies_on_action_theory_3_kawase.pdf

●斎藤幸平:経済思想史、へーゲル哲学、ドイツ観念論、マルクス主義哲学、マルクス経済学、『人新世の本論/集英社新書』

●川瀬和也:研究キーワード /プラグマティズム 、ヘーゲル哲学 、心身問題 、分析哲学 .ドイツ観念論 、心の哲学、行為の哲学 、『ヘーゲルと現代思想/寄川条路編著、晃洋書房』

・・・無論、現在のスウェーデンモデル(公共選択またはソーシャル・ポリシー)を完成形と見るのは誤りであろう。例えば、渦中の新コロナ対策では個人の自由と責任を重視するという原則に則ったものであるが、それが裏目となり特に高齢者の死者数が大きく目立つことが世界的に批判されたという現実がある。但し、それも見方しだいのようではあるが・・・(Cf.↓画像)。更に、協同組合方式を重視する高度な社会福祉国(政府に対する国民からの信認も篤いとされる)とされるスウェーデンだが、一方では金融・軍事等の側面では新自由主義的な資本主義の激烈な競争(特に、金融市場原理主義)へ傾斜しているという側面もある。

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https://twitter.com/AyakoMiyakawa/status/1343831932203905024

・・・しかしながら、スウェーデンにはモラル・ハイグラウンドの如くき日本の様な只の言葉遊び(あるいは将来の見通しも深い考えも一切ない与党政治の小手先の小道具)として弄ぶのではなく、国民の日常における幸せな生活の持続ということを確実に視野に入れた、いわば後述する"外界の思考"的な、あるいはマクダウエル『リアリズム倫理』と同じく、全く新しい倫理観とも言える、『新しい自由の知』たるフィデュ―シャリーが存在する。

・・・そして、スウェーデンにはフィデュ―シャリー(Fiduciary Duty)の実現を目指す公共選択の階梯を一貫して着実に歩み続けてきた実績の積み重ねがある。無論、それを支えるアカデミズムには、軽佻浮薄な日本とは異なり、経済思想的な視点から有意な成果を求めて真摯に探究し、それを内外へ発信し続けるスウェーデン学派の経済学が存在する。

因みに、マクダウエルの『リアリズム倫理』とは、「道徳的実在論」とも呼ばれるが、それは「自然と対比的にリアリズム倫理を、言わば第二の本性(自然)」と位置付けるものである。これは、マクダウエルの選言論、および後述する「外界の思考」(@マルクス・ガブリエル)とも関係する非常に重要な概念なので、下記の部分(既述/★)も併せて理解する必要がある

★『第5章‐2 原因の空間、理由の空間…』-(ドナルド・デイヴィドソンがマクダウエルの選言論を支持する背景)、および(<補足>ジョン・マクダウエルの『リアリズム倫理』について・・・

・・・ところで、フィデュ―シャリー(Fiduciary Duty)的な考え方が、欧州においては良い意味で他の国々へも波及している。例えば、目立つのはドイツの「社会的市場経済(Soziale Marktwirtschaft)」の伝統である。これは、ドイツの経済学者で、文化社会学者でもあるミュラー・アルマック(Alfred Müller-Armack/1901- 1978)が構想した市場経済についての考え方である。

・・・ミュラー・アルマックは、キリスト教的な社会論(社会倫理)とヴィクセルに影響を受けており、市場経済の結果に対する国家の影響力行使の可能性について(従って国家はその結果にも何らかの責任を負うべきする)の理念を明確に表明した。しかし、ドイツの社会的市場経済においても、その名の下に集まる経済学者は、新古典派から新自由主義までの幅があり、特に1970年代以降は「オㇽド自由主義(Ordoliberalismus)」の経済学者たちが主流派となってきた。

・・・因みに、オㇽド自由主義はドイツで生まれた社会・経済思想だが、端的に言えばそれはケインズ主義に反対するドイツ源流の新自由主義(市場原理主義)である。一方、若い世代の経済学者たちは主に米国への留学経験者が多い。そのため、英米流の新自由主義(+マネタリズム)と共に過酷な格差(勤労者のルンペンプロレタリアート化)問題への反省から、今や急速に復権しつつある?米国ニューケインジアン(価格と賃金の硬直性の背景に市場以外のファクター(おそらく潜性イノヴェーションの視点も?)を見る立場)も学んでいるはずだ。

・・・そのため、「20200616日経・エコノミスト/「(コロナ禍に因る)独、財政規律緩和の真相:・・・オーラフ・ショルツ氏(財務大臣)はありきたりな財政の議論から思い切って一歩踏み込み、ドイツの投資不足や依然として低賃金労働の仕事が雇用の大きな割合を占めている問題、EUにおけるドイツの役割といった幅広い議論を展開すると思われる。大きく変わらぬとしてもドイツでの議論は少なくとも変わるだろう。 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1272947913082064896」 によれば、ドイツ政界の重鎮たち(例えば、オーラフ・シュルツ財務大臣のほか、シュルツ氏の主任エコノミストであるヤコブ・フォン・ヴァイツゼッカ―氏、シュミット財務副大臣、ヨルグ・クーキース副大臣ら)と若い世代の経済学者たちとの間では、目下、盛んに議論と意見交換が電子ツールなどを介して行われ続けており、ここから"ミュラー・アルマックのそもそものSoziale Marktwirtschaftのフィデュ―シャリー的な外界の思考(@マルクス・ガブリエル)に沿った全く新しい方向性"が芽生える可能性が見込まれている。

・・・このようなドイツに限らず、今も"市場原理主義"一本鎗ではない欧州全体には、これまで述べてきたヴィクセル(最適人口論/スウェーデン)、ヴェブレン(制度経済学派/北米)、宇沢弘文(不均衡動学)の経済思想にはメンガー(オーストリアン:生命論的な農業経済学の伝統、更にその祖先はケネーらフランス農業経済学)以来の、言って見れば「オミクス生命論」的な空気が連綿と流れている。


・・・ともかくも、このような意味での"ヒトの幸せ持続させるための経済学"という潮流が経済思想そのものの底流にも歴然と存在することを確信した宇沢弘文は、特にヴィクセルとヴェブレン両者の経済思想を重視していたと考えられる。

19世紀に活躍したヴィクセルと19世紀末~20世紀前半のヴェブレンに直接的な関係はなく、宇沢弘文も「ヴィクセルの最適人口論」をソックリ踏襲している訳ではないと思われる。おそらく宇沢弘文は"最適"の意味を"エトノス環境と見合った生命活動(オミクス生命活動)圏"と読み替えつつ、得意の「科学的数理論の知」を駆使して「社会的共通資本(おそらくその意味でのベーシック・インカムも含む)」を主柱とする動学経済理論("ヒトの幸せを持続させるための不均衡動学"を創出したと考えられる。

・・・結局、宇沢弘文はシュンペーターの静態と動態の相互補完的な関係に対し「ヒューマンスケールの生態学的システム論」の視点を付加することで、更に価値創造の可能性として「計測不能な潜性イノヴェーション」の要素(エトノス環境の内部に包摂されているからこそ生き続けられるヒト故の潜在可能性)をも暗に取り込むことで、従来の「欲望の経済学」とは異なる、例えば<オミクス生命論的な新しい資本主義の方向性>を実現するための理論の柱として「不均衡動学」を創造像したと考えられることになる。

・・・つまり、その視座からすれば「個々人の要望を放任する自由主義の市場経済ではなく、一国の政府と国民が理解し合い協力しつつ自覚的・自律的・抑制的かつ限定合理主義的に広義の地球環境トータルをコントロールする」ことが非常に重要であることになる。従って、そのような意味で「資本主義経済は、社会的にコントロールする市場経済であるべき」だということになると考えられる。

・・・従って、我われ人類が「フィデュ―シャリー(Fiduciary Duty)の深化に永続的に務めるべき」とする倫理観は、決して只の机上の空論であることは許されず、それは必然的に「リアリズム倫理」(外界の思考)であるべきだということになる。


(エピローグ)再考すべきM.アンリの美学

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・・・市場原理主義を超えた、新しい展相(Potenz)の経済学に必須と見える「触知型崇高美の更なる理解」のために・・・

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・・・それは、感覚と親和する感性(生命個体のフリンジ)、抽象観念と親和する感情(ヒト故の抽象観念への飛翔)のフェーズ、権力化した感覚・感性・感情の社会的浸透がリアル化し物象(経済社会)化する問題!・・・その結果として、階級(層)・差別・ヘイト・分断が生ずる!/ピエール・ブリュデュー『 La distinction』とも共鳴?https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-02-9782707302755)を探求する注目すべき美学!・・・

(M.アンリの美学の前提となる『感情の海』の概要)

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Joseph Mallord William Turner Norham Castle, Sunrise c.1845

M.アンリ『実質的現象学』(叢書ウニベルシタス/法政大学出版会)によれば、M.アンリ(Michel Henry/1922 - 2002)は、次のような原点となる視座から論考を深めて行ったと思われる。<自分一人が、あるいは自らを含む一定数の人々が、仮に、いま突然に此処で命絶えることがあるとしても、自らの周辺を含み此の世界に生きるその他大勢の人々は、何事もなかったかのように、今までどおりの日々を生き続けてゆくだろう。

しかし、このように絶えず流れ去る世界の中で、個々人の「絶対的主観性」を保障する<現象学的実在性(真理)>とは何であるのか?> そして、同じ現象学と呼ばれるものであっても、M.アンリは、<現象学(委細/参照、https://toxandoria.hatenablog.com/entries/2017/09/01)における「形相(エイドス)、質料(ヒュレー)」の作用因(アリストテレスによる)=抽象的認知>と、<自ら(M.アンリ)の現象学における「絶対的主観性」に内在する作用因=実存的認知(‐意識)>を全く異なるものとして峻別した。

従って、M.アンリの<実質的・志向的現象学/普通の意識では見えず、かつ理解不能な個々人の内奥にある真理の中核たる意識作用(コギタチオ)の探求プロセス>におけるエイドス(形相)とヒュレー(質量)の両者に相当する概念は、フッサール現象学とは異なり、外部世界の現象学的な形相的「与件/現出」以外の実在とも共鳴し得る多様な志向性(様々なベクトルを帯びた意識)を獲得することになった。

言い換えれば、M.アンリの現象学では、作用因としてヒュレー(質量)が最も重視されていることになる。もっと分かり易く言ってしまえば、M.アンリは、個々人の絶対的主観性の意識作用(コギタチオ)の実在性として視覚と結びつき易い形相(エイドス)よりも触覚・痛覚らとの親和性を十分に想像させる質料(ヒュレー)を採用していることになる。

そして、M.アンリは絶対的主観性の実在性(その中核に内在する真理)の現象学的な「与件(現れ)」として「感情」の表出を措定する。その絶対的主観性の核心(自己性の湧出源)となる「与件」の背後、個々の絶対的主観性の中核には、その与件(現れ)を含む広大な「感情の海」(超越論的情感性/affectivite)が存在すると見るのがM・アンリの特徴である。

つまり、「視覚」以外の知覚(内感の窓口としての触覚なども含む)を重視しているという点が、「視覚」という個々の形相的な与件(現れ)と結びつき易いエイドス(形相たる意識内容(コギタートゥム/cogitatum))を重視するフッサール現象学(やや設計主義的な理性の現象学)と、片や触覚を重視するM.アンリの現象学(“感情の海”の拡がりを想定する情感性の現象学)の根本的な差異であると思われる。

なお、[神谷英二:情感性と記憶―アンリ現象学による試論(1)/福岡県立大学人間社会学部紀要2005,vol.14,No.1,21―36 http://u0u1.net/GN7Ehttp://u0u1.net/GN7E]によれば、<情感性(affectivite)とは何か?の問い>によれば、M.アンリ以前のヨーロッパ哲学は必ずしも十分な答えを提示してきたとは言えないようだ。

(M.アンリの美学の本質は生命の持続のための❝外界の思考❞/セザンヌとモネの事例)

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『私(セザンヌ)があなたに翻訳してみせようとしているものは、もっと神秘的であり、存在の根そのもの、感覚の感知しがたい源泉(自然・伝統・文化エトノス、オミクス/補、toxandoria)と絡みあっているのです。』という、セザンヌの友人であったガスケの言葉(@ガスケ『セザンヌ』‐岩波文庫‐)は、そのままモネにも当てはまるといえよう。

ただ、セザンヌとモネでは夫々の美的表現「技巧」のアプローチが異なっていた、ということである。すなわち、セザンヌは、自らに固有な気質・情感の実存と共に、物質の本質に対する強い探求心によって自然に対し科学的な視覚で肉薄する努力を積み重ねており、それがセザンヌ絵画の重厚なリアリティの秘密(情感と自然、二つの実在の融合としての実存)となっている、と言えるかもしれない。

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Impression: Sunrise. 1873. 48 x 63 cm Oil on canvas. Musée Marmottan, Paris, France. Claude Monet

一方、モネにとってモチーフと物質的な本質への探究は、もはや、あまり重要ではなくなっており、モネの関心はもっぱら「視覚的に思考するということ」であった。言い換えると、それは「そこにある光と時間の印象(美的印象)を捉えて表現する」ことである。

だから、特に、30作品にもおよぶ連作『ルーアン大聖堂』では刻々と流れる時間に伴いながら多様に変化し続ける“光と色彩の印象”だけが表現されている。しかし、実はその“光と色彩と時間の流れの印象”は、外界の気象など自然エトノス環境との間で建造物(ルーアン大聖堂)自身が目まぐるしく取り交わす“交流”の現われと見ることもできる。

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The Rouen Cathedral. 1893-1894. Oil on canvas. Louvre, Paris, France.Claude 

ところで、「外界の思考」(fiduciaryないしはリアリズム倫理の住処?とさえ感じられる動的で生き生きした精神環境)という哲学的でユニークな考え方がある。これは、新実存主義を提起する新進気鋭の哲学者マルクス・ガブリエルの言葉であり、それは内外のエトノス自然・社会環境との深い関係性を維持する❝感性に優れ、感情豊かなヒトの意識❞のことを意味するが、その先鞭を付けたのは他ならぬM.アンリの美学ではないか?と考えられる。

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そして、これは「龍安寺・石庭」が我われ(の内心に拡がる広大な感情の海)に永遠の静寂なる感動を与える秘密を解明するヒントをも与えてくれているようだ。つまり、それは開放系の意識のホライゾン、すなわち外界の思考を心地よく刺激する生命論的な❝光の系譜❞(❝閉鎖系の闇❞ならぬ!)の無意識とでも呼ぶべきものかもしれない。

いずれにせよ、それぞれアプローチの手法は異なってはいても、モネとセザンヌは「外界の思考」、いわばオミクス生命論の美学を実践した芸術家であるといって間違いではなさそうだ。見方を変えると、「色彩を強調したモネの一瞬一瞬の違いの表現」は“感動を伴う生きた感覚と感性”の表現であり、一方で「その変化しながらも変わらないものについてのセザンヌの表現」は<形象認知的な“象徴性”と共鳴した生の一瞬の表現>といえるかもしれない。

(完)


前編はコチラ(↓URL)にあります。

https://toxandoria.hatenablog.com/entry/2021/01/10/050440?_ga=2.166751870.1169094882.1610196175-1679186380.1582187463

https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2021/01/10/052301 (これは、別ヴァージョン/内容は同じです)



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