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ネタバレ創作考『クルエラ』ヒロインの破壊と誕生

久々にこちらのnoteへも投稿いたします。
タイトルの通り、『クルエラ』を観ての創作用ノートです。
軽い気持ちで観たら、どえらい目に遭ったため、この驚愕を誰かと分かち合いたくなりました。

以下、ネタバレ全開で書いております。ネタバレを望まぬ方はお読みにならぬようお願いします。

まず視聴して、『ジョーカー』と『パラサイト』と『グレイテスト・ショーマン』と『ジキルとハイド』と『白雪姫』を同時に観ているようだった、という思いに満たされ、大感動しつつ大混乱いたしました。

特に以下の二点においては、感動しつつ途方に暮れるという、なかなかない経験を味わったものです。
すなわち、ディズニーが強力に創り上げてきた物語手法の数々が、『クルエラ』という「ただ一作に凝縮されて用いられている」ということ、そしてそれがゆえに、ディズニー・ヒロインというものが「完全に破壊ないし革新された」ということ。

以下、『クルエラ』で用いられたディズニーの物語手法をざっと列挙します。

その一 「封じられた自己の発見と解放」
『アナと雪の女王』におけるエルザは、ボーン・トゥ・ビー・雪の女王です。不思議な力を発揮することを封じられ続け、やがては自分そのものを解放します。有名な「LET IT GO」の歌通りです。
そしてどのようなディズニー主人公も、こうした自己の発見と解放を経験するところにディズニーらしさがあるといえます。
また、ディズニーランドを訪れて繰り返し耳にする「イマジネーション」という言葉こそ、来場者に「自己の発見と解放を促すメッセージ」であるといえるでしょう。

その二 「親子(女王と王女)の相克」
ディズニー・プリンセスは、ほぼ童話や民話の現代的翻訳によって常に生まれ直すわけですが、根源にあるのは「女王」と敵対し、勝利する「王女」です。
「白雪姫」や「シンデレラ」などでも、古来ヒロインは「実母」と対決しており、それが「継母」になったのは近代頃からのことだそうです。
あまりに残酷だとか、実の親に逆らうなんてけしからんということで、当時の教育に熱心な人々がもっぱら親目線で設定を変えたとか。
実母であれ義理のそれであれ、ディズニー・プリンセスにとっては最も重要な物語の一つといえます。

その三、「王国の継承」
ディズニーにおける王国とは、城と領土と領民のことです。
ディズニーランドもこれと同じ構造をしています
プリンセスが、悪しきクイーンを打倒して手に入れるものが、この王国です。
『クルエラ』の王国は、「館という城、ファッション業界という領土、ファッションに惹かれる人々という領民」であり、それらの奪い合いとなります。
とりわけディズニー作品では、しばしばパーティの描写を通して、「王国がどのようなものであるか」が表現されますが、『クルエラ』も例外ではありません。
そしてそのパーティのシーンで、繰り返し簒奪が行われます。

その四、「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」
古典的な物語の一つです。
ある貴い血筋の主人公が、幼くして追放され、出自を忘れて生活していたが、あるとき本来継承すべきものがあることを知る、というもの。
王国を受け継ぐ者としてクルエラが起つのも、「Belongs to me」(私のものだ)という認識に至ったがゆえです。

その五、「異形の物語」
何かが欠けているとされる状態の主人公も、ディズニーが得意とするところです。
ピノキオは肉体がなく、ノートルダムの鐘突き男は身体障害者で、ダンボは耳が異常に大きいなど、「普通」から外れてしまった者の物語です。

『クルエラ』ではとりわけアーティが、「普通」を逆に嘲弄し、異形であることの自覚的な誇示としてのファッションを謳います。
LGBTも、社会から普通でないと言われることへの抵抗から、どうしてもこの異形の物語に当てはまりがちです。

主人公のクルエラも、「二つの人格的側面(善と悪)を同時に持つ」という異形を抱えて生きており、葛藤という名の殺し合いを自分の内側でも始めながら、おのれの異形を高らかに謳います。
この点で、とりわけ『ジョーカー』、『ジキルとハイド』、『グレイテスト・ショーマン』を観ているようだという気分にさせられました。

その六、「革命」
ディズニー作品ではしばしば作中の既成観念を覆すことを勝利とする物語が採用されます。
『アラジン』では身分を越えた結婚がテーマの一つとして描かれますが、これは王国にとって、本来、破壊的な行為でもあります。
『クルエラ』においては、格差社会を背景とした一方的な正義の冷酷さを描き、ではその正義に対抗するとき、同じように冷酷になることがなぜ駄目なのか? という問いかけがあります。
『ジョーカー』で問われたことがらが、より明白に、冷静に、自主的に、自問自答されているといっていいでしょう。

その七、「家族愛(同胞愛)」
「でも私は母さんを愛している」
「あなたたち家族を失ったら何も残らない」
なんと、クルエラが家族愛を語り、それをモチベーションにしたり、野望を達成する手段にしたりするのです。
家族愛(同胞愛)はディズニーの十八番。
『ジョーカー』でゆいいつ描くことが困難だったのが、親子愛からの親子相克でしょう。
一説では、ジョーカーが母親をバスタブに沈めて殺すシーンがあったものの、あまりに残酷なのでカットされたとか。

さて。
これら『クルエラ』に取り入れられた物語のいずれもが王道です
『ジョーカー』との決定的な違いが、これなのです。
クルエラは徹頭徹尾、頭はおかしいかもしれないが、困ったことに、現代人の我々の感性にとっては、正しいことをしているのです。

さらに昨今、ディズニーが積極的に取り入れている現代的な物語手法も、巧みに表現されていました。

その八、「幸福の物語」
主人公が最終的に「幸福になるとはどういうことか」をディズニーはしっかりと、そこまでやるかというほど描きます。
王国、婚姻、自立、富、自由の獲得などです。
そしてディズニーは「そもそも幸福とはなんであるか」に非常に敏感です。
たとえば『美女と野獣』のベルは、ディズニー史上、初めて自主的でない結婚に異議を唱えたプリンセスといえます。誰からも祝福されない相手を伴侶とみなす物語であり、ディズニーにとって、女性蔑視に対する、現代的な女性目線でのアンチテーゼの原点といえるものです。
#MEETOOなど 、女性の主張を、決して無視しないゆえんともいえます。
なぜなら「プリンセスの幸福」こそが至上価値だからで、プリンスは二の次なのです。

たとえ女性の台頭が男性にとって恐怖だとしても、人間の幸福という絶対値からすれば、その方が正しいときっぱり断言する。
その態度が、ここにきて、ディズニー最大の強みになったといえます。

ディズニーは、老若男女の幸福に関する莫大なデータを有しており、とりわけ女性のそれについてはプリンセスやクイーンの物語を多数創り上げてきたことからきわめて自覚的なのです。

今、幸福とはなんであるか」を正確に知ることが最強のマネタイズへの道であるとするディズニーの真骨頂といっていいでしょう。
他社の追随を許さないほど莫大なカネを使って「現代の幸福」を分析してのけるのですから、下手な倫理学の講義を受けるより最新のディズニー映画を観た方が、「最先端の幸福」について、よくわかるというものです。

その九、「ファッションの物語」
ディズニーにおいて、衣裳は第二のキャラクターといえるほど重要な存在です。
『マレフィセント』の主人公をマレフィセントたらしめているポイントの一つが、まさにあの衣裳なのです。

当然、そうした衣裳は、決して損なってはならないもの。
しかし『クルエラ』では、ファストファッションに対するセンセーショナルでSDGs的な描写を恐れません。

服が大量のゴミと化す描写など、衣服というものが過剰な消費を引き起こすものとなった現代において、『クルエラ』は過激に視聴者を刺激するものとなっています。
モードなんて、少ししたらゴミでしょ?」という、とんでもない(が実に正しい)主張を、たった数分のシーンでやってのけてしまう。
ファッションこそがクルエラにとって至上の価値であるとしながら、場合によってはゴミに等しいとするなど、かつてないディズニー・ファッションの物語が語られているといえます。

その十、「カルチャーの物語」
ディズニーは、カルチャーに対しても非常に敏感です。
そして『クルエラ』においては、既存のカルチャーに対するストリート系のカウンター・カルチャーの物語が採用されたというべきでしょう。
たとえば、バンクシー的なアイロニーが、様々なシーンで観られます。
これは当然、異形の物語ともよくマッチします。
普通でない存在が、あるとき突然、路上でおかしな真似をし始めるカルチャーです。

ウィンドウショッピングという伝統的カルチャーの場に、酔っ払った勢いでカウンターカルチャーをねじ込むのがクルエラというヒロインなのです。
まさに『グレイテスト・ショーマン』で描かれた物語であり、さらに破壊的にしたといっていいでしょう。

クルエラは、いうなればディズニーランドでシンデレラ城にとんでもない落書きをして笑いながら逃げ去る人間なのです。
(しかもそのあとで城を奪いに戻ってきます
本来のディズニー的秩序からすれば排除すべき存在。なのにそれを肯定するカウンターカルチャーの取り入れを、完全に自覚的にやっているわけです。
「マジか」という言葉意外、何を口にしていいかわかりません。

その十一、「格差社会の物語」
ディズニーは、もともと格差社会に敏感です。身分制度に敏感なのですから当然といえるでしょう。
多くの作品で、国家規模の問題である格差社会を、存分に物語に取り入れているのです。
実写『アラジン』では、とりわけ主人公アラジンの貧困が強調されていました。
そして『クルエラ』では、何もかも他人から盗んだもので成り立つ、まさに『パラサイト』的な生活が、これでもかと描かれます。

こうした現代的な文脈も、王道と呼ぶに値するものです。

さて。こうしてざっとみただけで、『クルエラ』という作品は、王道のミルフィーユである、ということがわかるでしょう。
まったくもって、いったいどんなインスピレーションがあって、これほどの要素を煮詰めることができたのかと驚嘆するばかり。
しかも、しばらく前のディズニーが得意としていた物語の方法では、こんなものを創ることはできないはずなのです。

何しろクルエラとは、封じられた自己に葛藤し、女王と戦って、王国を継承するが、そもそも幼い頃に捨てられ、異形である自分を自覚し、世界の普遍的な常識を破壊することを喜び、家族を深く愛しながら傷つけ、幸福を追求しながら独善に走り、自分を意味づける衣裳を自ら発明しては脱ぎ捨て、カウンターカルチャーの旗手となり、ついには格差を乗り越えるも飽くなき破壊を求めるのです。

とにかく戦う相手が多すぎます。自分とも母親とも世間とも戦っています。そしてその有様がある意味、現代的であるともいえるのでしょう。
ちょっと前であれば、ごちゃごちゃしすぎてまとまらないため、何かを捨てようと誰かが言っていたはず。
なのに、何一つ捨てずに綺麗に一作に押し込んでしまった。そのことに何より驚嘆させられます。

この王道のミルフィーユが、完全に、「クルエラ」という、たった一人のキャラクターと一体化しており、何一つぶれることなく、過不足することもなく、完成形として成り立っている
そのことに、自分の感性の方がおかしくなったのかと思ったほどです。

いったいクルエラとは、なんだったのか? 
創造された当初から、このように輝かしい再登場を約束された存在だったのか?
慌てて過去のクルエラ像を片っ端から見返しましたが、このキャラクターこそ、現代の物語作りにおいて最適であると判断したのが誰であれ、最も新しいヒロインを創造することに成功したとんでもないクレイジーだと断言できます。

そう。
驚くべきことに、もはやクルエラは「ヴィラン」ではありません。
物語の文脈において、完全に、ヒロインの系譜の先端に躍り出た、「最先鋭のプリンセス」なのです。
(将来、クイーンになり、ヴィランとして転落する運命だとしても)

また、ディズニーがこれまで強力な物語手法として採用していたもののうち、明確に切り捨てられたものがあります。

「王子様との結婚が最高のエンディング」
「いつまでも平和に暮らすことが幸福」

これらがバッサリないのが、むしろ当然という気にさせられる、実に現代的な物語であるというだけでなく、全ての女性に、結婚なんてどうでもいい、飽くなき闘争へ、ただひた走れ、と宣言しているに等しいといえます。

『アナと雪の女王』でダブルヒロインとなって他方が結婚詐欺めいた目に遭い、果ては続編でエルザが城・領土・領民を棄てて自然に還るという、原始自然との婚姻がディズニー流のSDGsなのかと衝撃を受けたものでした。

そして『クルエラ』は、それより何歩も先へ到達しています。
先に行きすぎていて、制作者も視聴者も、いったい何に到達したのか、まだよくわからない状態なのかもしれません。

とにかく、結婚のけの字もなければ、平和のへの字もない。

「私と一緒にクレイジーになりなさい」

ただそれだけなのです。その果てに何があるかクルエラ自身も知らないでしょう。
なのにそうすることが、とても正しいことのように思わされてしまう。
こんな新種の魔法を使うのは、ディズニーでは初めてのことではないでしょうか。

『クルエラ』が振り切ったものごとは、多数の作品を浴びるように観ることに慣れた現代の視聴者からすれば、まあそんなもんでしょう、と思うものかもしれません。
だが、たった十数年でここまで伝統的な物語の常道が激変するというのは、なかなかないことなのです。
ましてや、自然とそうなったのではなく、完全に意図してやってのけるなど、とんでもないことでしょう。
『クルエラ』を創った人々は、繰り返しになりますが、正真正銘の素晴らしいクレイジーたちだとしか言いようがありません。

補足的に、自作で喩えてみましょう。
たとえば『マルドゥック・スクランブル』で、バロットがもしクルエラだったら?

悪党どもを存分に射殺した挙げ句、引き止めようとした金色のネズミを踏み潰して、
クソうるさいネズミが。いいから弾出せ
と言い切る、良心全否定の「プリンセス」なのです。

しかもそのくせ、踏みつけた直後に、「やっぱりあなただけなの、私が愛してる人は」などと言い出すサイコでもあります。

もちろん「愛する」と言いながら「うるさいやつは誰でも踏みつける」という結論は変わりません。
愛とそのときやりたいこと、大切な人と瞬間的な欲求は別腹だ、と言い切ってしまうのです。ハラスメントの塊みたいな人格です。

これを、ディズニー・プリンセスの文脈で描いてしまうのです。
個人的には、ハーレクインよりもよっぽどハーレクインであり、白雪姫よりもよっぽど白雪姫でした。

その名も、「冷酷な悪魔(クルエラ・ド・ヴィル)」。
犬の皮を剥ぐふりをするのは、望まれた悪役を演じているだけ。
私が私でいるためなら、どんな大騒ぎも起こしてみせる。むしろそれが私の才能なのだから。

悪巧みの才能に満ちた、盗みの名手にして、特大級のファッション・テロリスト。
古い寓話に生きる男たちを震え上がらせ、淑やかな女たちを呆然とさせ、いずれにせよ共感に巻き込む、革命的スーパーヒロイン。
クルエラ・ド・ヴィルの目覚ましい姿に、我がエンタメ脳は、目下のところ、よくわからない沸騰が止まらないのです。


以下、「Call me Cruella」の歌詞を自己流に解釈したものを、おまけに付記します。

CRUELLA DE VIL, CRUELLA DE VIL,
She's born to be bad 彼女は生まれついての悪よ
So run for the hills  さあ安全な場所へ逃げなさい
CRUELLA DE VIL, CRUELLA DE VIL,
The fear on your face あなたの顔に浮かぶ恐怖が
It gives me a thrill 私にスリルをくれるの
Who wants to be nice? 優しくなりたいのは誰?
Who wants to be tame? 飼い慣らされたいのは誰?
All of your good guys あんたたちみたいな良い人って
They all seem the same みんなおんなじに見えるのよね
Original, criminal, dressed to kill オリジナル クリミナル 殺すために着こなす
Just call me CRUELLA DE VIL 私をクルエラ・ド・ヴィルと呼んで
Call me crazy, call me insane クレイジーと呼んで、正気を失ったと言って
But you're stuck the past でも過去にとらわれているのはあなたたちの方
And I'm ahead of the game 私はこのゲームを先取りしているの
A life lived in penance, it just seems a waste 苦行だけの人生(lived)なんて無駄(waste)よ

人生=livedの逆さ文字がdevil。過去のプリンセス(princess)の淑やかな生き方を苦行(penance)と切り捨てている)

And the devil has much better taste 悪魔(devil)のほうがよっぽど美味しい(taste)わ

(ヴィラン的な生き方こそ新たなプリンセス像であるとして「Devil」と自ら名付け、より欲求的な「taste」という言葉を唱えている。wasteは着るだけ無駄な、いずれゴミになるプリンセスの衣裳=社会的役割にもかけている)

And I tried to be sweet, I tries to be kind ただ私も優しくなろうとした 親切にしようとした
(過去のプリンセス像の定義)
But I feel much better now that I'm out of mind でも頭がおかしくなった今のほうがずっと気分が良いの
(プリンセス像の廃棄)

Well, there's always a line at the gates of Hell ま、地獄の門はいつだって行列だけど
But I go right to the front 'cause I dress this well ばっちり(Devil的な衣裳を)着こなす私が先頭に立つのよ
Rip it up, leave it all in tatters 引き裂きなさい、ぼろぼろにしていいから

RIPは「安らかに眠れ」という墓の標語でもある。「以前の自己」=「過去のヒロイン像」を引き裂いて(Rip it up)、打ち棄て、葬るというニュアンス)

Beauty is the only thing that matters 大切なのは美しさだけ
The fabric of your little world is torn あなたのちっぽけな世界の生地は破れ去ったわ
Embarace the darkness and be reborn 闇を抱きしめて生まれ変わりましょう
CRUELLA DE VIL, CRUELLA DE VIL,
The fear on your face あなたの顔に浮かぶ恐怖が
It gives me a thrill 私にスリルをくれるの


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