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的場悠人さん対談Part1「中心性が生む"連鎖"と"排除"」

塔と井戸 ダイアローグ
的場悠人×佐藤悠 
Part1 「中心性が生む"連鎖"と"排除"」
2020.11.07.

記念すべき、ダイアローグ第一弾です。

今回は、数回に渡って友人の的場悠人さんとお話ししたことを書いていきます。
的場さんは現在、都内の出版社で働きながら、学生時代から続けているヨガの講師としても活躍されています。
11月に、わざわざ僕の元を訪ねてくれた際に交わした会話を、ほぼそのまま載せていきます。少し抽象的な言葉も続きますが、読み解いていくうちに伏線が回収されていくような心地よさを感じることができるのではないかと思っています。

少年時代から、常に自分がやるべきことに誠実に向き合ってきた的場さん。一つのことに向き合っていくことで得られること、そして失ってしまうことについて、赤裸々にお話ししてくれました。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

一つの問いが出てくると、次の問いを生んでしまう

的場悠人さん(以下、的場):昔、サッカーをやっている時、「これだけやっていればおれはいい」みたいな、排他的でそれだけで閉じている中心性があったのね。それとは別に、一つを極めるほどで境界がなくなって、他のことに繋がっていくみたいな中心性があると思うの。その(後者の)感覚をはじめて掴んだのは高校生のときなんだけど、

佐藤悠(以下、佐藤):高校生か!早いな(笑)。

的場:総合みたいな授業で、一年生のときに「かまくら学」っていう授業があって。それで、1年間調べ学習みたいなことをしたのね。最初は適当にやろうと思っていたんだよ。その頃、ちょうど鎌倉が世界遺産登録を目指していた時で、何を売りに鎌倉は世界遺産にしているのかを考えるみたいな。ちょっと調べればできそうじゃん。そもそも、なんで世界遺産登録を目指そうとしているんだろうって考えたんだよね。で、これ(世界遺産登録)になんの意味があるんだって考え始めてしまって。
実は、世界遺産ってあんまりいいことがなくて。お金ももらえないし、補助金も出るわけじゃないし、本当に名前だけなの。むしろ鎌倉は、すでに世界遺産になる前から、ゴールデンウィークとかめちゃくちゃ混んでいて、江ノ電とか入場制限して、これ以上人増えたらきついくらいの感じだったの。「何もいいことなくない?」って。じゃあ、世界遺産登録を目指す理由は何だったかっていうと、「市民がもっと鎌倉を誇りに思えるようにする」みたいなことだったらしくて。
だったら、それは別のことをすれば良いのにと思って、「わざわざ世界遺産にする必要あるのでしょうか?」っていう発表したら、わりと評価が良かったのね。それで学年代表になって、鎌倉世界遺産推進協議会みたいなところで発表することになったの。

佐藤:世界遺産にしなくていいって言ったのに?(笑)

的場:そうそう(笑)。そうしたら、終わりの言葉の時に代表の人が、「実は、私が思うことを全部言ってくれました」って言ってきたのね。「ああ、なんかよかったんだ」みたいな。

佐藤:よかったんだね、それで(笑)。

的場:それのポイントは、一つの問いが出てくると、次の問いが出てきてしまって、問題を一人で扱い切れないみたいな感じ。一個の問題を解決したら終わりってことじゃなくて、それを解くことが、より大きな問いを呼び込んでしまう。やればやるほど、わかんないことが出てくるみたいな。そういう感じが、高校1年生の時にあって。とはいえ、高校2年くらいまではサッカーのことしか考えてなかったし、それを中心に生活を構成していたというか。勉強も割とがんばっていたけど、

佐藤:中心ではなかったわけだ。

的場:うん。中2のときも勉強がんばったけど。それは教室がつまんなすぎて、この1年間は友達を作ることはあきらめようみたいな。

佐藤:へぇーそういう時代があったんだ。

的場:ここで勉強の貯めをしておこうみたいな。

佐藤:すごいね。やっぱり早熟なんだよ。

的場:でも、それはある意味サッカーのためというか。だから、食べることとか、寝ることとか。サッカー中心だった。

佐藤:そうなんだ。

まとちゃん7

的場:で、その中心性のサッカーが終わって。高3の終わりから大学1年の始めくらいまで、それ(中心性)がなくなって。その次に、サッカーの関係で出会った古武術が、わりと新たな中心になったんだよね。座禅とか、仏教とか、哲学とかそういう道に興味を持っていって、またそれが中心になった。
わかりやすいのが、ずっとノートを書いているんだけど、そのノートに登場する中心的な主題がそれ(一番関心のあること)なんだよ。その時期によって。今だとヨガのことも多いし、哲学とか。もうちょっと大きいけど、エコロジーとか。

佐藤:うんうん。

いきなり"何者でもなく、なれない"

的場:何が言いたかったんだっけ。あ、そうだ。ヨガを始めてそれが中心になって、ヨガをやっている人の言葉から、「人生の全てがヨガ」みたいなことを聞くことが多いんだけど、ヨガが本当に全てかというと、全然そんなことないって思うんだよね。
たとえば、今日居酒屋で喋ったようなこと※1 がヨガですかって聞かれたら、いや違うだろって思うし。なんか、本当にそう思う人はいるかもしれないんだけどね。人間としてのやりとりを会話から読み取って、その人の生を営んでいるものを見て、それがその人の心をより健やかにしていく方に向かっていく方向性を、その人なりに見出したりみたいなことができるなら、全てがヨガになる(と言える)のかもしれないんだけどね。でも、ちょっと”全て”って危険すぎる言葉で。

 ※1 的場さんと佐藤はこの日の夜に、居酒屋で明るいお兄さんたちに軽く絡  
   まれ、仲良くなるということがありました(笑)。

佐藤:なるほど。

的場:到底、そんなことは言えなくて。まだ4年しかやっていないから、そう(人生の全てがヨガだと思わない)なのかもしれない。だけど、大事だと思うのは、ヨガっていう境界線が生んでしまう中心と周縁、それとそれ以外のものみたいな”排他性”を取り去ってくれる作用も、ちゃんとヨガの中に含まれているのね。

佐藤:ヨガの外に対する言及が、ヨガの中にあるわけだね。

的場:そうそう。ヨガっていうフレームを取り去る作用もヨガに含まれている。ということを大学2年生でバタイユ※2を読んで気づいたんだよね。

 ※2 ジョルジュ・バタイユ:1897年生まれのフランスの哲学者

佐藤:へぇーそうなんだ。それは意外だな。

的場:バタイユがね、ヨガに言及するんだよね。

佐藤:『内的体験』(1998、平凡社ライブラリー)だよね。

的場:そう。「私が、今責任を持って提起しようとしている瞑想の方法は、ヨガとは対極のものだ」みたいなことを言っていて。なぜかと言うと、ヨガみたいに実りのあるいろいろな方法―健康になるとか、いろいろそこに意味がつけ加わっている方法―は、「それ自体が目的として追究されるような媒体として介在してしまう」というような言葉が出てきて。でも、「方法論というフレームが取り去られなければ、ヨガなんてなんでもない」って書いてあって。ヨガを始めたばかりの自分には、なかなかきつい言葉だった。
何かしら頼るものがほしいから、方法論を学んでいるんだけど、方法論で終わったら意味がないということがあって。確かにそうだなと思いつつ、いきなり”何者でもなく、なれない”って思うの。だから、方法に頼るんだけど。でも、その言葉が自分の中ですごく強烈に残っていたんだよね。

佐藤:確かに、それはフレームワークを学んでいくっていう難しさだよね。方法論を学んで、何か現状を解決するために実践すると、それと同時にその外側にあるものに言及できなくなってしまうっていうことはよくあるよね。
ちょっと逸れるけど、人権っていう概念で、あらゆる人間を捉えようとすると、人権っていう概念を持っていない人たちを排除することになってしまう。じゃあ、そういう人たちは生を軽視しているかっていうと、そんなこと全然ないからね。

的場:人権みたいな、一見みんなを含んでいるような、全体性を目指そうとして打ち立てた概念というのが、全然全体を含んでいないってことは結構あって。ヨガは概念じゃないから、頭で作ったものじゃないけど。たとえば人の相談に乗る時、カウンセリングの技法を学んでいる人がさ、毎回(人をカウンセリングの)パターンに当てはめて話していたら、それって結構嫌じゃん。それに近いことが自分にも起きているんじゃないかって思っていて、

佐藤:ヨガをしていてってことだよね。

的場:そう。自分の人との関わり方のパターンが少ないっていうのも、そういう感じで浮かんできて。

佐藤:なるほど、そこにつながってくるのか。それ結構大事なテーマだな。

的場:でね、そうこうしていても方法が必要だと思ってヨガを続けていて。そうすると、ヨガっていう枠組みをもとに、悩みがあったときにどういう順番でアプローチしていったらいいかが、だんだん見えてきて。とすると、それまでに仲良くなっていた友達に悩みを話すことがそんなに重要じゃなくなってきたのね。今ここで悩みを解決しなくても、全然問題じゃないなって。そう思った時に、それまで通り友達と喋れなくなっちゃったの。

佐藤:なるほどね。専門的になったってことかな。

的場:まぁ、プロになったというよりは、自分に対してヨガを処方した感じなんだよね。自分が頼った方法が、黄金率みたいに自分の中に強く入って、そうじゃない方法を自分とか他人に適用する必要がなくなった。そうなったときに、友達がなんか違和感を覚えるわけで。

佐藤:そこを感じてくれる友達がいるんだ(笑)。

的場:「そういう風(友達の話を聞けなくなるくらい)になるんなら、ヨガ辞めろ」みたいな。わりとそれも、バタイユに続いてきつい言葉だった。

佐藤:なるほどね。

"まっさらに現実に向かう瞬間"

的場:それの後、また大変になったんだよね。でも結局、ヨガの練習は途切れてないのよ。毎日ずーっとやっていて。それはなぜかというと、たとえば、高校の教室で自然に形成されたノリに自分は入れないみたいなことってよくあるじゃない。あとは、サッカーで無心になってやったときはすごくいいプレーができるのに、考えてやろうとするとできないみたいな。それは今の仕事でも、電話対応とか気負いなくやるとできるけど、「これを守んなきゃ」とか意識があるとできなくなっちゃう。自分の頭の中に”余計なおしゃべり”がある。現実に向かうことを邪魔する何かがある。ある意味そこが問題で、それがなくなったときの”透明な行為”が、すごく清々しいものという感覚があるのね。

佐藤:自分の頭の中のモヤモヤとかが消えていくときっていうのがあるんだ。

的場:あるある。

佐藤:それは、僕はないなぁ(笑)。いろんなものから解放されるってことだよね。

的場:いや、でも、あるでしょ。

佐藤:それこそサッカーしているときくらいかもしれないよ。

的場:なんていうの、ほんとに瞬間的なことだよ。空を見てすごく綺麗だなぁとか。修行したからできるとかじゃなくて。ふと、”まっさらに現実に向かう瞬間”ってあるんじゃないかなって。そういう瞬間があり得るっていうのが、武術の身体的パフォーマンスを通して学ばせてもらったんだけど。ヨガで、その状態を体系的に作り上げる手順があるんじゃないかって思ったのね。

大崎海

佐藤:はいはい。

的場:実際あると思ったの。そのためには、変な話だけど、手順に従って、守る必要があって、ある程度時間をかける必要があって。辿り着く先は、”無時間的な原因と結果で結べないような瞬間”であるはずなのに、ヨガという体系を使うと、ある意味原因と結果で結べるような、わかる?

佐藤:あらゆるものから解放されていく状態だよね。

的場:普通、そんなの意識的に作れるはずではないはずなのに、「このやり方に沿っていくと、それに近い体験ができる可能性が高いものがある」ということを知って、実際毎日練習する中でそういう瞬間ってあるんだけど。でも、その方法論に固執するほどさ、自分の中の中心性ができてきて、排他性があるわけだよね。ヨガを初めて1年くらいのときに言われたその言葉(「そういう風になるんなら、ヨガ辞めろ」)があったけど、(言われたことの)半分くらいは頭ではわかっているんだよね。方法を学ぶっていうのは、そういうことなんだよね。

佐藤:そうだよね。やり方を学んでいくって、絶対そうなるよね。

的場:武術に「守破離」って言葉があるよね。自分は未だに「守」の時期でもあるし、ちょっと「破」の時期でもある。そんなに簡単に学び終えられるものじゃないから、ある意味、(その友人に対して)「しょうがないじゃん」っていう、返し方もできたのかもしれないけど。でも、その友達は今、目の前にいるわけで、あまりそういう言い訳って綺麗じゃないなって気持ちもあって。要は、「自分は今、『守』の時期でやがて、『破・離』になったら、ヨガっていう方法にやたらこだわることなく、いろんなものに向き合っていけるようになる」ってことね。

佐藤:今は受け入れていく時期だから、いろんな工夫を凝らしていくべきではなく、

的場:そこに視点が固まってしまうのは、ある意味しょうがないってことね。

佐藤:まぁ、たしかに人に言うことではないかもね(笑)。

的場:仏教で出家するとかもそういうことなのかなって。一回、今までの文脈を捨てるんだよね。一個の文脈だけで、生きていくというか。

佐藤:一つのフォーマットに入っていくということは、いろんなものから距離を取って一個の文脈に入るってことだよね。

的場:っていう二面性ですら、本当はヨガのテキストに書いてあるんだよね、実は。

佐藤:そこに気づいているものってさ、なかなか少ないよね。昨日読んだ記事に書いてあったのがすごく面白くて。大学の友人がオウム真理教の幹部になってしまったみたいな話で、おれもまだその本※3は読めてないんだけど。その本の筆者は、東大助教授の伊藤乾って人で、俺が大好きな社会学者の見田宗介=真木悠介のゼミにいたのね。で、オウム真理教の幹部に行った豊田亨が大学の友人だったと。見田ゼミって結構、身体的なこととか、まぁ言ってしまえばやばいことをするらしいんだよ(笑)。「ここでやったことは絶対口外しないように」とか言われるんだって。
でも、見田ゼミはヨガとかいろんな世界のことに触れながら、それを括弧に入れて、そうじゃない”外の視点”っていうのを常に意識しているのね。いろんなものが世界を構築しようとするけれど、その”外”があるってことを身体的に掴んでいくのね。自分たちが今学んでいることも、それの外側があるんだという視点を彼ら(ゼミ生)は理解するのね。だけど、オウム真理教の人たちは、それが持てない。

 ※3 伊東乾(2006)『さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同
    級生』集英社

的場:そうなんだよね。ちょっとずれるけど、そのコンテクストを売っている人に教わるとそうなっちゃいがちなんだよね。コンテクストを売っている人は、そのコンテクストに立ち止まっている人がいるほど自分が儲かるわけだから、その外側を見せないんだよね。俺のヨガのクラスでは、できるだけそんな風にはしたくないから、示しておいて破るみたいなことをしょっちゅうやっているんだけど。

佐藤:なるほどね。

自分ができることの範囲を完全に超えてしまう

的場:中心性ってことを、折に触れて自分の課題だなと思うのは、自分が生きてきた型が、何か一個すごく追求したいことを中心に置いて、それ意外のものが周縁になって、あまり関心を向ける価値がないって思ってしまう。別に何もかもうまくやる必要はないんだけど、どうでもいいことに見えてきてしまうのはどうなんだろうって。

佐藤:難しいよね。それは。

的場:小説の読めなさ※4にもつながるというか。

 ※4 自分との繋がりを感じられない物語に面白さを感じられないらしいです

佐藤:彼ら(居酒屋で出会ったお兄さんたち)は、自分が今までやってきたヨガとかの文脈の完全に外側にいるような感覚があって、そういう人たちとの繋がれなさを感じてしまうわけだよね。

まとちゃん4

的場:まぁ、ある意味60パーセントくらいがイエスで。もう40パーセントくらいで、ああいう人たちと遭遇したときに、ヨガに限らず、今自分が考えているテーマ−エコロジーとか政治とか−の文脈の中で彼らを位置付けてしまうんだよね。こういう人が、今の地球上でもっと割合が増えたらどう思うんだろうとかって考えるんだけど。でもそれって、その(場での)会話のコンテクストとは全く乗ったのものではないから、その会話からはどんどん置き去りにされていってしまうんだよね。「できないものはしょうがないじゃん」っていうのが一個そうなんだけど。それを真面目に考えていること自体が、もうなんか乗り遅れているよねっていう(笑)。

佐藤:なるほどね。

的場:つい一週間前くらいに、やっぱりこの中心性っていうのが課題だなと思って。いつも朝起きてすぐにヨガの練習をするんだけど、ちょっと(ヨガをやるのを)待ってみたの。ある程度一日生活してみたのね。そしたら、何か一つの実践とか体験から、自分は主に人生の洞察を得ているっていう、そういう位置付けがあまりよくないんじゃないかと思ったのね。そういうモードに自分を置くことで、本当はいろんなことからいろんな豊かなものを学べるのに…

佐藤:なるほどね。自分を信じているってことかな。自分のやってきたことを根拠に考えてしまっているってことだよね。

的場:全然違う文脈からもさ、いろんなことを学べるわけじゃん。

佐藤:そうだよね。人がやったこととか、世間で起きていることとからも、考えられるのにって話だよね。

的場:そうそうそう。たとえば本を読むときも、この本のこの主題を読み取りたいって思っちゃうのね。だけど、本当は筆者の言葉遣いとかから受ける印象もあって、それが大事だったりするわけで。何かを中心に構成するのは、あんまりいいことじゃないなって、その日の夕方くらいに思ったわけね。だけど、やっぱり苦しいのよ。そういう生き方していると。

佐藤:そういう生き方っていうのは、何かを中心に置かずに生きるってことだよね。

的場:そうそう。なんでかというと、できる能力の割にやりたいことが多すぎるっていうのがあって。多すぎるというよりは、大きすぎるか。それは夢とかっていうよりは、問題意識の方が大きいけど。さっき言った、一つ立てた問いがどんどん連鎖して繋がっていくっていうのは、同じことがヨガでも起きていて。
自分が健康であることと、家族関係の健全さとか、国の健全さとか、人間と環境の間の関係の健全さとか、っていうことが一つのこととして捉えられるような感じがしていて。それが卒論の主題だったんだけど。ヨガっていうのは、自分の健康を中心にしつつも、そこから連鎖して色々なものをケアしていける実践なのではないかという主題だった。でも、ヨガの実践の中で、「政治に興味を持ちました」とか、「人をイキイキとさせるようなシステムってなんだろう」とか、「人が自然に生を全うできるくらいの持続可能性を持った環境との関わりはどうしたらいいか」とか考えると、食糧生産だったり、排泄物の処理だったり、水だったり、いろんなことに連鎖していくわけじゃない。でも、それって自分ができることの範囲を完全に超えてしまっているわけで。もちろん、これから仕事をするうえで、できることはちょっとはあるだろうけど、明らかに身の丈を超えているのね。

佐藤:そうだねぇ。

的場:で、それだけの問題意識があるくせに、今日一日何もできなかったってことが辛すぎるわけ。夕方になってやっぱり辛くなってきて。ヨガをやることの自分にとっての大事さっていうのは、「どんなに追い込まれても最低限これさえはできる」っていう、最後の砦なのかなって。今日は特に劇的に変われたわけじゃないし、相変わらずスーパーで買い物もしたし、水洗トイレも使ったし。だけど、(ヨガをやったことで)少なくとも半径1メートルくらいを整えて眠りにつけるかつけないかっていうのは、自分の中ですごく大きな違いで。だから、やっぱり中心性に戻ってきてしまう。

佐藤:うん。

的場:身体がある、つまり身体性があるっていうのは、やっぱり中心性があるってことと、ほぼイコールだと思うんだよね。

佐藤:そうだね。今ここに立っているってことだからね。

Part2へ続く>

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

いかがでしたでしょうか。お話はPart2へと続いていきます。
ぜひ、お楽しみに。

的場 悠人(まとば ゆうと)
1996年、神奈川県逗子市生まれ。日韓W杯が開催された5歳のときにサッカーを始め、17歳までサッカー一筋の生活を送る。心身のパフォーマンスを上げようと探究する過程で、武術や禅など東洋の心身技法に関心を持つ。2015年、筑波大学比較文化学類に入学。大学2年時にインドでヨガを学び、帰国後学業と並行してヨガ講師活動を開始。現在は出版社に勤務しつつ、ヨガの研究や指導を細々と継続中。

執筆・編集:佐藤悠

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