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佐野元春「ENTERTAINMENT!」と「WHERE ARE YOU NOW」

 こんにちは。銀野塔です。昨年出た佐野元春氏の二枚のアルバムについて。
 
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 今日(6/11)私は福岡市民会館での佐野元春ライヴ「今、何処TOUR2023」に行く予定であった。が、直前に元春の新型コロナ陽性が判明し、福岡公演は岡山公演ともども延期または中止となった。残念である。が、もちろん一番悔しいのは元春だと思う。しっかりと治療して次に備えてくれますように。振替公演があることを祈っている。
 そんなわけで、今日は想定外に時間が空いたので、長らく書きたいと思って書きそびれていた、昨年にあいついで発売された元春の二枚のアルバムについて感想など書いてみたい。もう発売からほぼ一年経ってしまったが。書きそびれていたのは書きたい気持ちがないからではなくむしろその逆で、けれど「何からどう書けばこのアルバムのよさを語れるかわからない」という感覚があったせいでもある。今でもその感覚は変わらないが、せっかく得た時間なので、書けることだけでも書いてみることにした。いささかとりとめなくなりそうだが。
 ただ、まず云えることは、私はこの二枚のアルバムがとても好きだということである。元春の作品に対してはどれもそれぞれに「とても好き」な感情があるのだが、この二枚のアルバムは、新型コロナ禍やウクライナ侵攻、他さまざまなことで混迷する世界の中で、力強く、けれど決して押しつけがましくはなく、じっくりと深く心に沁みてきた。
 その深さは、元春が年を重ねて、もろもろの物事に対する思いを深めていったことの反映でもあると思う。であると同時に、ありふれた表現になるが、少年のような荒削りさ、疾走感、といったものも失ってはいない。それらが縒り合わされて、サウンドの面からも、とても芳醇でありつつエッジもある、心地よい立体感、グルーヴ感のあるものになっている。
 少年のような疾走感と書いたが、たとえば以前の元春の「アンジェリーナ」あるいは「Sweet16」といった曲に見られる疾走感と、今回のたとえば「街空ハ高ク晴レテ」に見られる疾走感はおのずと雰囲気が違っている。そして、二枚のアルバムを通じて、疾走感というよりは浮揚感ないしは昂揚感といったものを感じる要素も強い。「ENTERTAINMENT!」なら「新天地」や「少年は知っている」、「WHERE ARE YOU NOW」なら「銀の月」など。
 ただ、それらの浮揚感、昂揚感も複雑な色彩を帯びている。単に心が、身体が舞いあがってゆくだけではない。たとえば「新天地」ならタイトルからしてある種の浮揚感があり、サウンドにもあるのに、けれど綴られてゆく言葉は決して浮揚的なイメージばかりではない。「たそがれた誰かのための理想」「誰も望まないような未来に迷い込んで」「その行く手に霞んでる枯れた夢沈む太陽燃える地平線」「使い古した言葉と儚い純情」等々。最後の方になって歌詞にもようやく浮揚感が出てくるがそこでも「この矛盾に満ちた惑星」という引力からは逃れてられていない。
 こういう「翳りのある浮揚感」がこの二枚のアルバムのトーンとしてある気がする。「ENTERTAINMENT!」の表題作「エンタテインメント!」にしても「イヤなこと忘れる夢のような世界」と歌いつつそれは「束の間でいい」と刹那感があり、それ以外の歌詞はほぼ現実の苦さにあてられている。その現実の苦ささえ時には「エンタテイメント」として消費されることへの皮肉と読み取れるような箇所もある。
 こういう入り交じり方が、このアルバムの楽曲の深みを創り出していると思う。ざっくりとした印象でいうと、そういったことの表現が「ENTERTAINMENT!」では比較的ポップであり「WHERE ARE YOU NOW」よりいくぶん重厚感があるという感じ。
 その現実の苦みや、それにまつわる感情を比較的ストレートに出している曲もある(「悲しい話」や「永遠のコメディ」)。その中でひとつのコアとも云えるのが「植民地の夜」かもしれない。今の世界で植民地というのは国や領土といった概念に対するものだけではなく(それも皆無ではないけれど)人の心が対象になっているのかもしれないと感じる。誰かに、何かに、支配されコントロールされ搾取されてゆく心。という私自身も私の心が植民地化されていないという確信はない。そういった支配から自由でありたいという心はかろうじて持っているけれど。「誰も気にしちゃいない」としても。
 そんな中でなんとか望む方へ進んでゆくといった意思、あるいはたとえば「君」という言葉を介してリスナーなどの他者にも望みを託しているといった感じの曲も多い。穏やかな曲、エッジの効いた曲、テンポのいい曲、さまざまなスタイルで。「愛が分母」「少年は知っている」「さよならメランコリア」「銀の月」「エデンの海」「水のように」「明日の誓い」など。また特に「この道」「合い言葉」「東京に雨が降っている」は新型コロナ禍という状況との関連性が強い曲だと思う。
 これらの中で特に「水のように」と「明日の誓い」が好きだ。「水のように」は植民地の夜を生きる私が、どんな風な心持ちで日々を過ごすか、その標になってくれているようなところがある。初期の曲で私も大好きな「麗しのドンナ・アンナ」を本歌取り(?)している曲でもあり、そういったところからも心にぐっと入り込んでくる。「明日の誓い」は「これはただの理想だと人はいう でも理想がなければ人は落ちてゆく これはただの希望だと人はいう でも希望がなければ人は死んでゆく」といったある意味直截で散文的な歌詞を音楽にしっかりと乗せきっているところがすごいと思うし、その内容は私も常々思っていることでもある。そして「よりよい明日へと紛れてゆく」歌の主人公の姿は数曲前の「冬の雑踏」で街の雑踏に紛れていった「君」の映像とオーヴァーラップするような感もある。この「冬の雑踏」も悲しみをおぼえつつ静かな祈りを湛えているような曲でとても好きだ。祈りと云えば「斜陽」や「君の宙」に見える「君」への痛切な祈り、自分をめぐる現状をある種醒めた目で見つつもなお「君」に希望を見ている、そのあり方もとても心に響く。私も元春のファンを長くやってきてある程度年を重ねたことを実感する分、誰かに、特により若い世代の誰かに希望を託したいという感覚もいつしか芽生えていたからなのかもしれない。
 あと、オーヴァーラップすると云えば「大人のくせに」の最後に「英雄もファシストもいらない」という歌詞があるのだが、ここで私は杉真理氏の「懐かしき80‘s」という曲を思い出した。この曲の最後の方に「ヒットラーも聖者もいないあの頃に戻りたい」という歌詞があるのだ(ちなみにこの曲は80年代を過ぎてから懐古して作られた曲ではなく、1983年のアルバム「STARGAZER」収録曲である!)。しかしこの「大人のくせに」は「もう大人なのにナイーブ」な永遠中二病の私としては「はい申し訳ありません」となってしまう。でも「孤独なふりして気取ってるわけじゃないよ ただどうにか傷口をかばってるだけさ」という歌詞に私なりのリアリティをすごく感じもする。
 
 「WHERE ARE YOU NOW」のジャケットの絵も印象深い。多分、何はなくとも情報やそれらへの反応だけはあふれる世の中、それらに脳内を過剰に支配されてしまっている人間を象徴しているのだろう。そしてそのあふれるものたちが糸で吊られているところが「情報を通じての何かからの支配やコントロール」を暗示しているのだろう。人物の手元にある雑誌(?)には元春の曲のタイトルなど。さてこの人物はそれらを読み取れるだろうか? このジャケットデザインは、元春自身が机の前に坐っていて頭の上に大きな石がある「No Damage」のジャケットを思い起こさせもする。
 
 「ENTERTAINMENT!」の最後の「いばらの道」では「ここはいつか来た道」と繰りかえされる。「WHERE ARE YOU NOW」の最後では「今、ここ何処 みんな今何処」という問いが繰りかえされる。元春は、私は、他の人びとは、今何処にいるのだろう。すっかり新しい場所に来てしまったようでありながらいつか来た道でもある。ここは何処、とたとえばGPSでいうことは出来ても、それは単に物理的な回答でしかない。座標軸そのものが数多あり、またゆらぎゆくものでもある中で、それでも自分の居場所を、誰かの居場所を確かめ直すこと、そのときに参照できるもののひとつとして私には元春の音楽があるのだと思う。
 
 現状を見つめるシビアな目がありつつ、望む方へ進む意思や誰かに託す祈りを保ち続ける、それが「翳りのある浮揚感」ということかもしれない。この翳りのある浮揚感というのはたとえば以前の曲でも私の大好きな「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」などにもすでにあったと思うのだが、この二枚のアルバムに見られるそれはさらに元春が経てきた経験と今の時代の諸相によっていっそう彫り深さが加わっている気がする。そして元春の過去の曲がそうであるように、この先また、その時ごとに新たな意味を帯びて立ち上がってくることもあるだろう。
 
 先ほども述べたように大人のくせにナイーブな永遠中二病の私はいささか悲観的で厭世的でもある。けれど「銀の月」で元春が「そのシナリオは悲観的すぎるよ」と歌ってくれている、そのフレーズを思いおこしながらこれからも何とか歩いてゆけたらと思うのである。「日は暮れて」も「少し笑」っていられるように。

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