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「自分探し」ならぬ「自分剥がし」

 こんにちは。銀野塔です。自分の自己分析癖について考えたことなどを
 
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 以前、藤崎彩織さんの『ふたご』の感想文で触れたように、SEKAI NO OWARIのごくライトなファンである。そのSEKAI NO OWARIの「Habit」がかなり注目を集めレコード大賞も獲ったらしい。ダンス動画も話題になった。私もこの曲は好きである。
 とはいえ、この曲の歌詞で苦笑いせざるを得ないのは、私は自己分析が大好きな人間で、自分を分類する概念などをやたらと意識しているからだ。クレッチマーの類型なら分裂気質、YGテストならC(平穏)型、エゴグラムならW型(このW型というのは胃潰瘍型とか厭世型とかまあだいたいろくでもない云われようなのだが当たっているだけに何も云えない)、エニアグラムならタイプ4(個性追求)、MBTIならINFJ型(内向・直観・感情・計画型)、など。近年わりと書籍などが出て取りあげられるようになったHSP(人並みより敏感な人)にもしっかり当てはまる。分類するだけでなく、自分がどの程度どんなところが当てはまっていてそれはなぜなのかとか結構しつこく考える。こういった性格診断系のことだけでなく、日常の経験等への自分の反応についてもああだこうだと結構しつこく考える。とにかくしょっちゅう何かしら自己分析している(あと、科学的根拠がないのは承知の上で、時々占星術のどつぼにハマって、といってもネットなどで自分で情報収集するだけで占い師さんなどにみてもらったことはないのだが、ああこういう星の配置は確かに自分ぽいなとか思ってみたりすることもある)。
 他の人になったことがないしなるわけにもいかないのでわからないが、大まかに云って、ここまで自己分析が好きな人というのもあまりいないのかもしれない。私にとって、自分がどういう人間か、なぜそうなっているかというのは尽きぬ興味の的なのだが、他の人はそうでもないのだろうか。よくわからない。
 で「自分探し」という言葉があるが、私の自己分析癖はどうも「自分探し」ではない気がずっと前からしている。自分を探す必要はなくて、むしろ自分に自分というものがあまりにもべったり貼りついている感があって、鬱陶しいので、自分を少しでも「対象化」してできるだけ客観的に把握して落ち着きたいという感じの方が近い。云ってみれば「自分探し」というより「自分剥がし」だ(だいたいこの文章の書き方からして自分が自分にべったり貼りついていて鬱陶しい感満載である。そういえば以前自分が、とにかく書きたい意欲の強い「ハイパーグラフィア」に当てはまる話も書いた)。
 要するに強すぎる自意識を持て余しているのだが、なぜそんなに自意識が強い、自己分析したがる人になったのか考えてみるに、多分私のある程度のマイノリティ性が影響しているんだろうなと思う。
 マイノリティって、やっぱり、マジョリティと比べて「なぜ自分がこうなのか」ということに向き合わざるを得ないことが多いのではという気がする。マイノリティは「なぜ自分は多くの人と違ったもの(たとえば性質とか環境とか)を持っているのか」という問いをほぼ必然的に持っても不思議ではない。
 とはいえ、もちろんマジョリティもマイノリティ(あるいは強者弱者)も、どこかでくっきり線が引けるものではなくて、一人の人の中にマジョリティ性とマイノリティ性が混在していることが多いと思う。LGBTQであるとか、外国にルーツがあるとか、そういったある程度認識が広がっているマイノリティのカテゴリ以外にも、それほどはっきり名前のつかないマイノリティも存在し得る。上記で「私のある程度のマイノリティ性」と書いたが、それは「世間でマイノリティと認識されやすいほどはっきりとしたマイノリティ性は持たないものの、それ以外の点でのマイノリティ的な成分が、平均より少し多めな気がする」という感覚である。
 たとえば、私は日本に住む日本国籍を持つ日本語話者であるという点においては日本社会ではマジョリティである。シスジェンダー(身体の性別と性自認が一致)でヘテロロマンティック(異性に恋愛感情を持つ)、ヘテロセクシュアル(異性に性的に惹かれる)という点でもマジョリティだろう。だが、自分の性質や家庭環境の面である程度のマイノリティ性を感じる。たとえば上述したHSP、これは別に特に珍しい性質ではないものの、5、6人に一人程度というからマイノリティではある。上述したMBTIでのINFJ型というのはかなり少ない型らしい。家庭環境の面でも、複数あるが、たとえば親の職業があまり一般的ではなく、カルト宗教ではないものの宗教色の強い中で育った(ただし自分はその信仰を持つには至らなかったが)、といったことがある。
 性格的には、別に自分がHSPだのINFJだの知るよしもない子どもの頃から「変わっている」と云われることがある程度あった。その頃の自分にとっては、自分のサンプルが当然自分しかなかったから何がどう「変わっている」のかわからず「変わっている」と云われることに憤慨したりもしていた。が「変わっている」という評価は他者がするもので、他者が自分のことを「変わっている」と感じることは自分にはどうしようもなくて、他者が「変わっている」というのならそれは自分が変わっているということなんだろうとある程度の年齢になってから考えるようになった。それなら自分はどこがどう変わっていてそれはなぜなのか、と分析をするようにいつしかなったのだと思う。それがやがて「自分の性質分類コレクション」みたいな状態になっていったのだった。
 ただ、SEKAI NO OWARIの「Habit」の歌詞もそれはそれでよくわかるのである。いくら私が「私の性質分類コレクション」を並べたところでそれは私の性質を本当に説明したことにはならない。やっぱり人というのは「Habit」の歌詞にあるように「もっと曖昧で複雑で不明瞭なナニカ」だと思う。どんな分類法も、はっきりとした境界線が引けるものはなく、グラデーションがあったり流動性があったりする。
 たとえば私は上記で自分がシスジェンダーでヘテロロマンティックでヘテロセクシュアルだと書いた。が、それはあくまで「一応」だなと思う。ジェンダーに関しては身体的には女性と分類され、自分を女性と自認することにすごく抵抗があるとかではないが、しかし「女性らしくあること」を押しつけられると抵抗を感じる程度には「女らしくない」し、自分の中にむしろ男性的と感じるところもあるし、時と場合によって女性的なところも男性的なところも流動する感じもあるし、むしろいわゆるノンバイナリ(男性、女性の枠組みを意識しない)な部分が自分の心の中で大きい気もしている。が「ノンバイナリです」とはっきり区切られるのも何か違う。自分で区切りたくない気もしている。恋愛や性的志向についても「ヘテロの中ではアロマンティック(恋愛感情を持たない)アセクシュアル(他者に性的感情を持たない)に近い方」だという感じがある。恋愛などへの志向性がゼロとは思わないが「なくても平気」な人ではあるし現にそういう現場から離れて久しい。デミロマンティックデミセクシュアル(恋愛、性的志向において、相手に対して信頼関係があることが重要)である可能性も多分にあると思っている。が、このへんも「どれに当てはまる」とはっきり区切れないし区切りたくない感じもある。
 HSPにしたって「概して人並みより敏感な人」だが、HSPの人でもそれぞれどういうところにどのくらい敏感かはさまざま(また、意外と鈍感なところも同時に持ち合わせていたりする)なので、HSPですと云っただけではほとんど私を説明したことにはならない。あと、MBTIによるとINFJ型という話も、時と場合によってはINTJ(内向・直観・思考・計画型)と出ることがある。自分でも確かに内向直観計画はまあ確かにそうだなと思うが、感情と思考はどっちが強いのか自分でも悩む。自分の感覚としては「言動としては思考型が強く出ているかもしれないが、思考型の言動を好むというところまで含めて自分を駆動しているのは感情」という感じである。もっともINFJだろうとINTJだろうと数が少ないらしいことには変わりないのだが。エニアグラムもタイプ4と書いたがタイプ5(調べる人)の要素も肩を並べるくらい強いし。
 だけど、分類が全く無意味かというとそういうことでもないと思っていて。特に私のように「自分が鬱陶しいから剥がしたい」というタイプにとっては。そうやって自分の性質を理解する「参照枠」を持つことで、自分の鬱陶しさから少しは逃れられる、自分の扱い方が少しでもわかって、自分に振り回される可能性を減らすことができると感じる(それで全てがうまくいっているわけでもなく、それでもまだいわゆる人並みよりいろいろ全然うまくいっていないと思うがそれはそれとして)。たとえばHSPについては、その概念を知る前は「どうも私は何かと人並みより敏感なところがあってそのせいで傷つきやすかったり疲れやすかったりするけれどそんな自分は修行が足りなくてダメなやつだし、でも修行しようとしてもそれも疲れるだろうし、そもそも『人並みより敏感』それ自体が単なる自意識過剰かもしれないし」みたいにグダグタしていたのが「それは欠陥じゃなくて仕様ですね」ということになってだいぶ楽になったというのがある(もっとも、昨今のHSPをめぐるビジネスなどには要警戒のものもあるようだが)。「こんな自分はダメなんだ」じゃなくて「そういうものとしてどうするか考えよう」の方が状態としてずっとマシである。
 だから、分類すること自体が即絶対ダメなのではなく、分類するならしてみて、ただしそれはグラデーションや流動性を持つものということを意識して、決めつけすぎず、自己理解のための参照枠としてほどほどに活用するのならいいんじゃないかなと思っている。分類がゴールではなく、あくまでその後の自分をどうしてゆくかの基盤の一部になる感じ。これは自分についてもだが他者についても当然云えることで。
 とはいえ、なかなかそれも難しいことで。分類して「これはこう、あれはああ」と決めてしまった方が楽というか精神的なエネルギーはいらないわけだし。だから「Habit」の歌詞にあるように「分類したがる習性」ってことになっちゃうんだよなあ。曖昧で複雑で不明瞭なナニカをちゃんと認識し続けようとするのは多分自分に対しても他者に対してもそんなに楽なことじゃない。私だってこうやって偉そうに書いてるがちゃんと出来てるかっていうとそれはもごもごもご。
 だけれど、できるだけそうやって、人も自分も曖昧で複雑で不明瞭なナニカであることを大事にしようとじたばたしてみたいとは、思っている。

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