48.詐欺師の手口と染み付いた田舎根性

詐欺師の手口と染み付いた田舎根性

実際には、元夫である小山田隆志くんは子どもを誘拐したまま転校を数回させながら行方をくらましており、全く遵守されてはいないが、日本の家庭裁判所において私の子どもとの関係で少なくともここまでに認められているのは写真送付などの間接交流である。
しかし、言ってみれば直接交流を小山田くんが拒否しているという部分には変化がない。

小山田くんの正体というか子どもと母親である私との関係を断ち切る事で報復欲の充足を企図しているワケだ。まあ、少なくとも小山田くんとしては間接交流もやりたくなかったのは明らかである。その拒否のキッカケをSNSで「実子誘拐」の実態を暴露した私が作ったと言うのが小山田くんの言い分。

ただ、それまでは一応、間接交流の一部である写真送付などイヤイヤでもやっていた事は確かだ。そこで少なくとも裁判所が命じれば、それこそ1か月に1回1時間の監視付き面会であろうと直接の交流は出来るのではないかという主張を織り込んだことがある。その際に裁判所で決められた写真送付などをキチンとやっている事を私が「ありがたい」と書けば自称子どもの人権派を標榜する 木村ウソツキ真実 は「写真送付がありがたいと言っている」などと言う論理のすり替えだ。論理のすり替えと言うのは 詐欺師の典型的手法 の一つでもある。

全ての交流を拒むと親権をひっくり返されかねないワケで、小山田くんとしては直接交流をさせないための手段が間接交流とも読み取れるが。裁判所としても子どもが幼いうちは親権者側の協力なしに円滑な面会が難しい事は百も承知だ。実行されないものを命じても、その後に申し立てられる履行勧告や間接強制への対応など手間が増えるばかりでいいことなどない。

しかし可能性があるなら命じるべきだと言う事をこれまでの間接交流の実施という段階を踏んでという部分を強調し「ありがたい」としたワケだ。

そもそも小山田くんの性格について参考になるのが県民性というヤツだ。小山田くんは岩手県久慈市と言うド田舎で生まれ育った。まあ「あまちゃん」だかで有名にはなった地域らしいが。生まれ育った場所には一定の影響を受ける。もちろんその人なりの個性があるから必ずしもどこで育ったからというだけで判断は出来ないが「氏より育ち」ともいう。

岩手は非常に特異なものがある。かつて黒木為禎という将軍が連隊の特性を生かして活躍したが現代とは異なりテレビはおろかラジオもない時代であり、連隊と言った集団は出身地別に構成されていた。「またも負けたか8連隊。それじゃ勲章9連隊」というざれ唄がある。

8連隊と言うのは大阪、9連隊は京都。京都の方は勲章くれん(もらえん)で並べられたようだが、そこまで8連隊は弱い連隊ではなく相応の戦果も挙げている。しかしなぜ弱いと言われるかというと、江戸期の大阪は幕府直轄領であると共に天下の台所と称される商売の街で、国主がいる城下町や地方の国と比べてお上に対する畏れの意識が希薄だったからとされる。

そんな気風を引き継いでいる大阪の兵士は、天皇陛下の為、お国の為に命を懸けて奉公する事を軽視する傾向があったほど。おまけに経済の中心都市で暮らす大阪人は、計算高くて弁が立って世渡り上手だった。下手な上官などは口で丸め込んだり上手く立ち回ったりして、まともに従わない風があったと言う。そして厳しい状況から逃げ隠れする事を恥とも思わず、逆にその成功を誇る感覚さえ持っていたとも。

一方、東北の兵はマジメで防御戦闘には無類の強さを発揮していた。男は黙って何とやらの典型でもある。

そうした風潮は江戸期の岩手を見ると良く分かるのだ。岩手は現代の研究で最も多くの百姓一揆が発生したところとして知られている。第2位のエリアのおよそ2倍という激しさだ。いや百姓一揆って国主に対する反抗だから従順と言う話と逆ではないかと思うかもしれない。小学生の社会科で習っているはずだが、今でこそ東北地方は日本の米蔵と言われるほど稲作が盛んだが、かつては冷害に見舞われ凶作の続くエリアでもあり、元々は熱帯植物の稲栽培には向かない地域で、品種改良され冷害に強い品種が出来るまでは東北のコメなんて「鶏またぎ(鶏すら跨いで通るマズい米)」と呼ばれていたほどだ。

しかしながら江戸時代はいわば米本位制でそんな東北でも稲作をやるしかなかったワケだが、飢饉のたびに領民は追い詰められたのは岩手を領有した南部氏の暴政というか政治の在り方でだからこそ一揆が頻発したのだと言う。

当時は地域にも拠るが年貢率は様々だが岩手では検見法、検見とは稲の作況をみて年貢を決める方法で農民は自由に稲刈りをする事も出来なかった。そのため寒冷地の岩手では氷の張るような時期に稲刈りを余儀なくされたとも。他藩に比べて領民の扱いが酷く、それが一揆の頻発を招いていたのだ。

多くの藩では飢饉などに備えて備蓄しておき、そうした際には領民へ放出する事が行われていたのだが、岩手ではそうした備えもなく有名な天明・天保の大飢饉では多くの領民が犠牲となり夥しい死体が積みあがった事が記録されている。

江戸時代の大名は「格の競い合い」でもあり、特に岩手はお隣宮城の仙台藩をライバル視しており、幕府に多額の献金をして叙任工作をしていた事も知られる。

そして文化5年にはついに念願だった高直し、これは加賀百万石のように諸侯の権勢を領地の石高で表していたのだから10万石から20万石への変更は簡単に言うと2倍の格式になったとも言えるワケだ。ただ、こうした高直しは幕府から領地を加増されるものではなくあくまで自己申告。こうした石高を表高といい、実際の収穫量を実高。例えば鹿児島なんか66万石とされていたが、奄美や琉球を実質支配して黒砂糖地獄といわれた専売で多額の利益を得ており、実高は200万石以上だったとか。しかし岩手の20万石はただのハリボテ。

結局、実際の石高は上がってないのにそれに伴う諸負担だけが増え、藩の財政はますます圧迫されると言う筋書き。天保10年にその負担を領民に重税を課して乗り切ろうとするのだが、新しい税に反発が起きるのは世の常。そこでこの税は5年限定とする、そしてその5年間に新しい税は導入しないとして強行。

ところが約束と言うのは破られるもの。2年も経たないうちに新しい税が導入され更には「御用金」といった名目で追加徴収。当時も米以外の冷害に強い作物を栽培していたワケだけど、それらを買い叩いて藩財政に充てる無茶苦茶ぶり。当然に領民は困窮するのだから一揆も起こるワケだ。

弘化4年には領民に対して6万両の臨時御用金を命じるのだが、これは「生かさぬように殺さぬように」を遥かに超えた重負担。一揆というのは集落ごとに起きるものだが、さすがにこの負担は「死ね」の命令に等しく、一揆は重罪でビシビシ締め上げられ殺されるワケだが「どうせ死ぬなら同じ」とばかりに参集者が12000人と言う江戸期最大の一揆まで起きている。この時税の廃止を約束して一揆を収束させるのだが、当然に反故にされて首謀者は全員処刑。6年後の嘉永6年には再び御用金が命じられまたも一揆。まあ何度も同じことを繰り返すものだ。

そうは言っても領民もバカの集団ではない。前回は約束を反故にされたのだからそんな事があってはならないと直訴に及んだのは藩主がライバル視する仙台に藩領を飛び越えて直訴。江戸期の大名は面目を重要視するのだからとんだ赤っ恥という「イヤガラセ」。とまあこんな感じで「生かさぬよう殺さぬよう」が岩手の処方箋でもある。

しかしそれは岩手全体の話であって久慈近郊はもっと悲惨なエリアでもある。久慈にほど近い二戸市はかつて斗南藩という藩が置かれたのだが殆ど知るものはいない。と言うより江戸時代の藩ではなく明治期に1年だけ存在した藩で歴史に詳しい御仁でも知っていると言うものはあまりいない。

斗南藩の藩主は松平容保、松平姓でもあるように将軍家のご縁のある格式ある大名で元々は福島県の藩主だったが戊辰戦争に於いて政府軍に徹底抗戦した白虎隊を生んだ藩でもある。大砲も装備した政府軍にかなうはずもなく、屈服を余儀なくされて領地没収されるのだが、明治元年に赦免され与えられたのが二戸あたりの寒村。まさしく不毛の地で赦されたと言うのは表向きで言ってみれば政府に逆らった者たちの流刑地。明治3年より元藩士など17000人が入植するも、寒冷な上にやせた土地で満足に栽培も出来ないところ。農民だけでなく武家までもが娘を売らざるを得なかっただけでなく、その年の冬さえ越せずに多くが息絶えている。

明治維新と言う事で各藩には政府から代参事という役職のものを充てられていたがその役職にあった山川浩は「みちのくの斗南いかにと人問わば神代のままと答えよ」と書き記している。意味は斗南と言うところは原始時代と同じと言う事だ。

翌年、廃藩置県が行われ青森と岩手に分かれたのだが開墾を夢見て入植した旧藩士は各地へ散ったと言う。元々人の住めるようなエリアではないのだ。

江戸時代の日本で収穫できるコメの量は2000万石くらいとされる。現代のような品種改良や機械による開墾、優秀な肥料などもない時代だ。1石は約150キロで、現代では日本人一人当たりのコメ消費量は約50キロだが当時は人一人が年間に食べるコメの量は約1石、つまり現代の3倍だ。単純に言うと2000万石なら2000万人分と言う事になる。

現代のコメ生産量は約900万トン弱。現代の消費量なら約1億8000万人分だからコメ余りとも言われる。もっとも生産能力は1000万トンを超えるのだから減反と言う政策でコメの総量を抑えているワケだ。

ところが江戸時代の人口は時期にも拠るし統計と言うより推定だが江戸初期で約2000万人、そこから飢饉や疫病での減少もあったが漸増して明治の壬申戸籍では約3300万人。到底当時の生産能力では圧倒的なコメ不足となるエリアがどうしても出てくる。

単純に言うと10万石の大名が抱えられる領民は10万人となる。正確にはコメ以外の雑穀、ヒエやアワ、ムギなどの産出もあるから多少は多くても良いが、当然に下層の庶民の食事は粗末なものとなってしまう。

元来、米の生産に向かない東北では下層の庶民がコメを食べられるはずもない。いわゆる祭りの食であり、更にはムギは生産できず困窮する。

同じ土地でも場所によって値段が異なる事は現代にも通じるが、現代の基準はいわゆる「利便性」であるが、そもそもがコメの生産高こそが基準であり明治維新で導入された地租改正、これもコメの生産高に基づく。従前のコメの現物納付から現金納付になったと言うだけだ。

土地面積で言えば岩手は我が国で北海道に次いで広い。しかし地図だけでは見えてこないが雑木林や崖だらけの使い道のない所ばかりで利用可能な面積で言うと5番目でしかない。北海道の原野を除けば我が国で最も価値のない土地でしかない。

姥捨ては現代の検証では否定されているが、そうした伝承が残る地域でもある。食うや食わずと言うのが見て取れるが実際に行われたのは間引き(子殺し)だ。

明治時代になると「子殺し」は犯罪となり、国家の発展のために産めよ増やせよとなるのだが江戸期260年と言わず、寒村では岩手に限らずそれ以前から子殺しの風習があったものが急に変化するものでもないのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?