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期待するということ

ひとに期待をしていない、という人を私は信用していない。
 
私はひとに期待をしている。期待したくてしているというわけではなく、
ひとに期待をしたら自分がしんどくなるのは分かっているにもかかわらず、素の心を止めることができず期待してしまう。
 
誰かに期待を寄せること自体、悪いことではないと思っている。
もはや期待するという行動をやめたとき、それは縁の切れ目だと思うくらいだ。
 
 
人間の特性として、同じものが好き よりも 同じものが嫌い で親密になることのほうが多いと思う。
学生時代、先生の悪口で盛り上がった時もそう。彼氏の愚痴で盛り上がった時もそう。
「こういう言動・行動が嫌」という基準が似た者同士は、居心地がよいのだと思う。
もちろん、人間なので真逆の属性のものを好きになることもあるが、私にとっては嫌の基準値が同じということが大切だった。
 
不用意に相手を傷つける言葉を投げかけるひとが苦手だし、
頑張って行動をとってくれたことに対して感謝ができないひとが苦手だ。
 
ただ私がこのようなひとを“苦手だ”と形容すると、
〈そうやって相手に期待していると疲れちゃうよ。私は期待していないからそうは思わない…〉と、よく言われる。〈私は期待していないから…〉の言葉は、大人になってから聞き飽きるほど耳にした。
 
たしかに、むやみやたらに相手に対して自分の基準値を押し付けるのはよくないと思う。
そして更に、自分のラインを常に適用し ひとに関わるのには、体力がいる。ひたすらに疲れる。
 
 
ただ一方で、一番近くにいる人にはそうやって関わっていくべきなのではないか?と思ってしまう。
 
 
ジムローンが、5人の法則で「周囲の人間の平均が自分になる」と言っていたように、ひとは簡単に環境に染められてしまう。
自分の嫌の気持ちを押し隠して大人になっても、それは一体 なりたかった自分なのだろうか。
 
 
 
 
学生時代に出来た友達は、社会人になって 半分以下に減った。
この時に言っている”友達”とは、簡単に縁の切れる友人 通称“ヨッ友”のことではなく、沢山の時間を共にした いつかは気の合った友達だ。
 
 
週に5日働くようになって、ただ暇をつぶすだけの時間は少なくなった。
人生を俯瞰でみることが多くなった今は、常に「何にどれだけの時間と労力をかけるべきか」の問いを持ち続けている。
 
昔はあれだけ無駄にできた時間も、今は1秒でも惜しい。
負けずに成長したい。
 
まだまだ伸び足りない20代の大切な時間は、無駄にすることは出来ない。
“無駄”は娯楽なのだ。
 
ひとに対して損得を表現したくはないが、自分の心をそのまま書き写すとそういった表現方法しか持ち合わせてなく、稚拙だと思いつつも使ってしまう。
自分を形づくる周りの人間を そして環境を、自分が嫌だと思うことで囲むのは違和感がある。
これこそ すべて 自業自得。
 


 
他者に期待をしない生き方がいいのか、
辛く疲れても期待して生きていくのがいいのか、
私の この先の人生が答え合わせになる。
 
 
 

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